子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「天然コケッコー」:少子化が行き着く先に灯る光

2008年03月29日 11時15分57秒 | 映画(新作レヴュー)
ロードショーから時間が経ち,各種の映画賞の発表も終わって,DVDも発売され,公開年における作品の位置付けや相対的な評価も定まった作品に,虚心坦懐に向き合うことはなかなか難しい。ましてやこの作品のように,目につく批評がほぼ絶賛一色に塗りつぶされている場合であればなおさらだ。スクリーンに展開される光と影に没頭する以前に,どこかに穴がないか,という姿勢で目を凝らしてしまいがちだ。

だが始まってすぐ,レイ・ハラカミの音楽が微かに鳴り響き,子供たちが耳に手をかざしながら,連れ立って海へ向かって歩き出すシーンを目にして,そんな小賢しい見方は子供たちの額に浮かぶ汗よりも早く蒸発してしまった。
脚本と演出と役者と音楽,そして全てを照らす陽光の煌めき。とても小さいけれど,生命力に溢れた完璧な世界がここにある。しかしこの小宇宙が内包するのは,批評を拒む頑さなどではなく,誰の心にもあるはずの,生きること自体への好奇心が持つ熱,そのものだ。

2時間の作品中には,ラスト近くで2度目のキスを試みようとする夏帆が,「あれ?あれ?」と言いながら,何度も岡田将生の唇を奪うシーンをクライマックスに,「思春期の好奇心」という,言わば宝石のような魔物が,徐々に形を成していく旅程に立ち会うかのような興奮を覚えずにはいられない場面が,ぎっしりと詰まっている。
理性と感性と知性の泥濘のような青春時代の入り口で,躍動する登場人物たちが喚起するのは,実はそんな時代は長くは続かない,という,後から振り返ってみれば当たり前の現実であると同時に,だからこそ1分1秒も無駄にして良い時間などないのだ,という胸を締め付けるような想いなのだ。

山下敦弘監督にとっては,「リンダ・リンダ・リンダ」前夜譚とも位置付けられる作品だが,将来の人口減少動向をどう見定めるか,ということが,今の仕事に少なからず関係する私にとっては,過疎校のあるべき姿に勇気づけられたという意味でも,目を見開かれる思いだ。
おそらくこれからの日本には,これだけの贅沢(2人の修学旅行のための引率教師が3人!)を許容する余裕がなくなることは明白なのだが,この作品での夏帆は,人口が減る分,逆に人と人の距離が縮まっていく社会を,悩み,躓きながらも,どうにか前に歩き続ける方法を示してくれている。あらゆる世代に薦めたい「魔物のような宝石」だ。


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