子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「パターソン」:双子。カップケーキ。手書きの詩。ウェルカムバック,ジャームッシュ。

2017年10月07日 20時02分34秒 | 映画(新作レヴュー)
毎日歩いて仕事場へ行き,何故か双子の乗客が多い路線バスを運転し,手書きで詩を書き,週末のバザーで売るカップケーキを作る妻に「おはよう」のキスをする。観客を画面に釘付けにするような事件や事故は,何も起こらない。アクシデントといえば,バスが電気系統の故障を起こして止まってしまうことと,詩を書き溜めていた大切なノートを失ってしまうこと。詩の喪失は町と同じ名前の主人公,パターソン(アダム・ドライヴァー)に大きなショックを与えるけれども,それでも彼は6時過ぎに目を覚まし,腕時計を嵌めて,白いノートを持ってバスに乗り込み,ハンドルを握る。「パターソン」という町には,彼の居場所があり,彼が言葉を紡ぎたくなる美しい時間の流れがある。そんな時間に付き合える118分。これを僥倖と呼ばずに何と言おう。

「リミッツ・オブ・コントロール」「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」と,これまでの作品群に比べて「強い流れが支配する物語」が続いたジム・ジャームッシュの新作は,とてもパーソナルで小さな物語でありながら,オープンで温かく,忘れがたい余韻に満ちた傑作だ。
パターソンに美しい詩を披露する少女,朝の点呼を行う時に必ず自らの不幸を愚痴るインド系の係官,酒場でやっかいな離別・復縁劇を演じるカップル,そしてラストをさらう日本から来た詩の愛好家(永瀬正敏)。
「イヤー・オブ・ザ・ホース」ではニール・ヤングのバックバンドのメンバーがジャームッシュ作品を「スノッブが好む」と揶揄する場面があったが,登場人物すべてが一篇の詩のモチーフのようでありながら,そんなこれみよがしな「すかした」感覚はどこにも存在しない。地に足の着いた,と言うよりも,「地元」に足の着いた足の裏感覚から生まれる叙情が全編を支配しているのだ。

スコセッシの「沈黙」で日本との縁を結んだアダム・ドライヴァーは,味わい深い手書きの文字と,信頼と親しみに溢れた酒場の親父との会話,「ストレンジャー・ザン・パラダイス」以来のワクワクするようなリズムに満ちた歩くシークエンスによって,詩人という言葉から喚起するイメージを一段も二段も低くして寄り添ってくれる。妻の創作料理に困惑しながらも,しどろもどろに応えるシーンは,抱腹絶倒なのにその愛情の深さに涙を誘われる。
唯一残念なのは,これまた素晴らしい演技を見せた飼い犬の「マーヴィン」を演じた「ネリー」が,カンヌでパルム・ドッグ賞を受賞しながら,表彰前に亡くなってしまったということ。きっと天国でパターソンに詫びながら,酒場の外で彼を待っていた時間を思い出していることだろう。
★★★★★
(★★★★★が最高)


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