映画とライフデザイン

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映画「新しき土」 原節子1937年公開

2014-06-23 05:05:14 | 映画(日本 昭和34年以前)
映画「新しき土」はドイツ人監督により1936年(昭和11年)の日本を描いた原節子の主演作品だ。
原節子の10代を映した映像があるという。しかも、ドイツ人監督による映像ということでdvdを借りた。
映画の内容自体はどうってことないが、戦前の空襲に会う前の日本各地を映しだした貴重な映像である。16歳の原節子の美貌には驚くしかない。

1933年アドルフ・ヒトラーが首相となり、翌34年総統としてナチス独裁を完成させる。ナチスドイツは宣伝大臣ゲッべルスのもと、映像宣伝による大衆への喚起に力を入れていた。そんな頃の作品である。ベルリンオリンピックが開催される1936年2月、ドイツのアーノルド・ファンク監督が日独合作映画「新しき土」を製作するために来日した。監督は原節子を主役に起用する。ヨーロッパから帰国した婚約者がドイツ人女性を連れてくるのに失望して、花嫁衣装を着て自殺を試みる純情な娘役である。
新鮮味があったのか、本国でも大ヒットしたという。

ヨーロッパ留学を終え輝雄(小杉勇)がドイツ人女性ジャーナリストのゲルダ(ルート・エヴェラー)と共に帰国した。日本では、一途に彼を待ちわびていた許婚の光子(原節子)と輝雄の養父である巌(早川雪洲)に温かく迎えられる。

西欧文化に馴染んだ輝雄は、“許婚”という日本的な慣習に反発を覚えて悩む。輝雄からすると、光子が妹にしか思えないのである。そんな輝雄の変化に気付き、光子は絶望する。一方のゲルダは日本の文化を身を持って知るに及んで輝男から去って帰国の途につく。やがて光子は、婚礼衣装を胸に抱き、噴煙を上げる険しい山に一人で登り始めるが。。。。

東京に帰ってくる設定なのに、阪神電車のネオンが光っているので映しだされるのは大阪とわかる。夜の道頓堀川を船で徘徊するシーンも映る。その後宿泊するのは甲子園ホテルだ。昨年行ってきたばかりなので映像を見て驚いた。

1.昭和11年の日本
古き良き日の日本が美しい。富士山をいろんな角度から映し出す。世界遺産になった時に三保の松原は外されそうになったが、ここでは三保の側からの映像も映す。噴火が凄い山なので、これは浅間山だろうか?阿蘇山と思しき映像と混ぜ合わせている気がする。海岸線も映しだす。和歌山の円月島も似ているが島の形からいって松島と推測される。
京都もずいぶんと映しだされる。月桂冠や白雪といった関西の酒の提灯が吊る下げられている。輝雄が妹と芸鼓の踊りの発表会へ行ったり、桜の咲く川沿いで遊ぶのは高瀬川の辺で、カフェと思しき女性がつく店は祇園の夜を映したものか?
すごいのは光子の家の裏庭が宮島の厳島神社で、水の中にそそり立つ鳥居が映し出される。鎌倉の大仏が何度も映るのは、さぞかしドイツ人監督には印象深かったのだろう。

2.横綱 玉錦
相撲が映し出される。「007は二度死ぬ」の東京ロケと一緒だ。
これは両国国技館だろうか?横綱玉錦の土俵入りである。当時自ら二所ノ関部屋をひきいていた。


撮影された昭和11年というのは大相撲が大転換をする年だ。11年の春場所まで三連覇していた玉錦を差しおいて、双葉山が連勝記録を樹立し始める。あれよあれよという間に昭和14年まで69に連勝記録を伸ばすのだ。いまだに破られていない。ちなみに当時は年2場所だ。
玉錦は昭和13年の秋場所の終了後若くして腹膜炎で亡くなってしまう。孫弟子の横綱玉乃海とまったく一緒である。玉乃海の死去の時小学生だった自分はものすごいショックを受けた。
控えに映るのは高見山の師匠だった高砂親方である前田山、のちに武蔵川理事長になった出羽の花ではないかと推測する。
ちなみに自分は小学生のとき、毎月雑誌「相撲」を購読していた元相撲ファンだ。

3.甲子園ホテル(甲子園会館)
フランクロイドライトとともに旧帝国ホテルを完成させた建築家遠藤 新の設計によるものだ。現在は武庫川女子大となっているが、昨年見学をした。実に素晴らしい建物だった。その甲子園ホテルが映像に出てきたときはおったまげた。今、自宅のパソコンの壁紙にしているのがこの建物の写真(下の写真)だからだ。現地の説明では施工は大林組だという。遠藤新の作品には自由学園や芦屋の旧山邑邸などライトの影響を受けた洋風建築が多い。

4.火山のシーン
光子が婚礼に着る着物を持って火山に登る。浅間山か阿蘇かどうであろうか?次第に火山が噴火しそうな様相になってきて、光子を追って輝男が火山を追いかける。あわや火口に飛び込むのではというシーンの直前に輝男は光子に追いつくが、ちょっとじれったいシーンだ。原も小杉も2人ともこのシーンを撮るのには難儀したと思われる。特撮では円谷英二が参加する。


5.早川雪洲
若くしてアメリカにわたり、ハリウッド映画では無声映画時代の1910年代から活躍していた。英語は得意だと思うけど、ドイツ語はどうなのかなあ?このあとフランスに渡り、戦後ハリウッド映画に出るわけだ。東京を舞台にしたハンフリーボガード主演作「東京ジョー」やデイヴィッドリーン監督の名作「戦場にかける橋」での活躍は見ていた。でも名優と騒ぐほどうまい俳優ではないと思う。


6.原節子
戦後間もない「安城家の舞踏会」「わが青春に悔なし」をはじめとして、小津安二郎、黒澤明、成瀬巳喜男らの巨匠による戦後の作品は大部分見ている。でも戦前の作品は初めてだ。1920年生まれなので当時16歳である。華道、茶道、弓道をたしなむシーンに加えて、セーラー服姿や水着姿など戦後作品にはない映像が見れる。彼女は1963年まで現役を続け、あっさり退いた。

1937年3月「新しき土」の舞台挨拶のために、まず満州に向かった後、モスクワ経由でベルリンに向かったという。その後パリからニューヨークにもわたり、7月末までの4カ月間にわたって海外をまわり映画関係者にも会ったという。当時、ナチスドイツは着々と軍備を拡張していたが、二次大戦は始まっていない。この時期に欧米を渡りあえた日本人は一部の外交官や商社マン以外はいなかったろう。貴重な体験だったのではなかろうか?当時16歳ながらその美貌は現代に生きる我々の目から見ても輝いている。

(参考作品)

原節子 新しき土
16歳の原節子の美貌に驚く

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