映画「ウォルト・ディズニーの約束」を映画館で見た。
一言でいうと「イヤな女に悪戦苦闘するウォルト・ディズニー」といった内容である。
イヤな女をエマトンプソンが好演、トムハンクスもいい。自分の感性にあった映画であった。
ジュリーアンドリュースが1964年のアカデミー主演女優賞に輝く「メリーポピンズ」は空前のヒットであった。原作の作者名を聞いたのは初めてで、こんな裏話が存在するとは知らなかった。映画の初めに「チムチムチェリー」が流れる。これを聴くとジーンとしてしまう。ジュリーアンドリュースは自分が96年にブロードウェイに行ったとき、ロングランでミュージカルの主役をしていた。60過ぎでもブロードウェイに君臨する天才的なエンターテイナーである。彼女の姿は画面に少し出るだけだが、久々に彼女の映画を見たくなってきた。
自分が子供のころ、日本テレビのディズニーアワーでは、ウォルトディズニーが自ら出てきてはじめに解説していた。当時金曜8時は週ごとに「プロレス」と「ディズニー」を交互にやっていた。プロレス好きになったのは高学年からで、低学年の時は毎週ディズニーだったらいいなあと思っていた。さぞかし視聴率も高かったはずだ。今の若い人たちは彼の顔を知っているかなあ?でも50代以上の人たちでウォルト・ディズニーの顔を知らない人はいないだろう。それくらいテレビに映るウォルトの存在はインパクトがあった。アメリカを代表する稀代のヒーローをトムハンクスが演じる。なかなかいいと思う。
「メリーポピンズ」を読んで感銘を受けていたディズニーの創始者ウォルトディズニー(トム・ハンクス)は、20年間の長きにわたって原作者トラヴァース女史(エマ・トンプソン)に映像化のアプローチをしていた。気難しいトラヴァースはその申し出を断ってきた。1961年になり、筆が進まず新作がなかなか書けないトラヴァース女史は徐々に収入が減っていて、家政婦も雇えなくなった。会計士からディズニーからの申し出を受けてみたらどうかと言われ、やむなくのることとなった。
ロンドンからディズニーの本拠地ロスアンジェルスに空路向かったトラバースはウォルトディズニー社長と会い、脚本家と2人の音楽担当者を紹介された。アニメだけは絶対だめよ!と実写を望んでいたトラバーズは、ミュージカル仕立て自体も嫌がっていた。彼女は何かにつけて難癖をつけディズニーのスタッフを困らせる。
一方で1906年に時代をスライドさせ、トラヴァース夫人の幼少期を写す。オーストラリア生まれの彼女は父母と幼い2人の妹と暮らしていた。都市部の住宅地を離れて、田舎の一軒家に移って暮らしはじめる。父(コリンファレル)は銀行に勤めていた。しかし、酒におぼれていた父は仕事には向いていなかった。母親は悩んでいた。しかも、結核で倒れてしまう。幼心に家庭の混乱に頭を悩ませるのであった。
この両方の映像を交互に見せていく。
トラヴァース女史って嫌味な女である。口の減らない女ともいえる。
なめられるのを怖れてよく女だてらに突っ張る人っている。人の言ったことに素直になれない。たまに見かけるよね。
ディズニーのスタッフは製作中ずっと悩まされるわけである。
でもこの映画はその悪戦苦闘記だけを描いているわけではなかった。トラヴァース女史の幼少期の映像を映しながら、父と娘の強い心の交情を語るわけである。これが徐々にわかってくるだけで、何か不思議な感情が芽生えてきた。いつも優しかった父親のことを思いながらトラヴァース女史の気持ちが映画製作中揺れ動く。父親への愛情が徐々に示されていく。それを思うとなぜか最終に向けて泣けてきた。久しぶりである。
印象に残るシーンがいくつかある。
気分転換にディズニーランドにウォルトディズニーがトラヴァース女史を誘う。天邪鬼な彼女は当然のらない。しかし、お迎えの車を運転するラルフ(ポールジアマッティ)がディズニーランドの入口に連れて行くのだ。入口の中にはウォルトが1人立っている。そして彼女を案内する。テレビでおなじみのウォルトの周りにはキャラクターと同じくらいサインを求める人たちが殺到する。ウォルトが彼女をメリーゴーランドに案内する。いやがる彼女を馬の上に乗せる。これがなかなかほのぼのとしている。
善悪両方を毎回交互に演じているようなポールジアマッティはこの映画では善人を演じた。オスカー作品「それでも夜は明ける」では奴隷商人だったが、今度はお抱え運転手で、気難しいトラヴァース女史のご機嫌をとりながら仕事をこなす。雰囲気は最近のウォーレスショーンのようだ。「サイドウェイ」のように主演を張ることもあるが、こういう渋めの脇役が良い。ラストに向けてのトラヴァース女史とのふれあいはなかなか素敵で、さすがディズニーといった印象だ。
もう1つはずっと暗めな歌が続いた後で兄弟が作った凧上げの歌を聴き、トラヴァース女史がダンスをおどりだすシーンである。
エマトンプソンも楽しそうに踊るのだ。双子の兄弟の前でさんざん悪態をついて、これでもか!と青島幸男の「意地悪ばあさん」のように嫌な女ぶりを強調するシーンが続いた後で、いくつか彼女のちがった一面を映し出すシーンがある。そこではリリースされた感じをおぼえた。
最後にもう一度「チムチムチェリー」が流れる。
最初同様ジーンと来たが、二度目にはもうすでに涙が出ていた。父娘の愛情のふれあいというシーンにはどうも涙腺が弱い。
一言でいうと「イヤな女に悪戦苦闘するウォルト・ディズニー」といった内容である。
イヤな女をエマトンプソンが好演、トムハンクスもいい。自分の感性にあった映画であった。
ジュリーアンドリュースが1964年のアカデミー主演女優賞に輝く「メリーポピンズ」は空前のヒットであった。原作の作者名を聞いたのは初めてで、こんな裏話が存在するとは知らなかった。映画の初めに「チムチムチェリー」が流れる。これを聴くとジーンとしてしまう。ジュリーアンドリュースは自分が96年にブロードウェイに行ったとき、ロングランでミュージカルの主役をしていた。60過ぎでもブロードウェイに君臨する天才的なエンターテイナーである。彼女の姿は画面に少し出るだけだが、久々に彼女の映画を見たくなってきた。
自分が子供のころ、日本テレビのディズニーアワーでは、ウォルトディズニーが自ら出てきてはじめに解説していた。当時金曜8時は週ごとに「プロレス」と「ディズニー」を交互にやっていた。プロレス好きになったのは高学年からで、低学年の時は毎週ディズニーだったらいいなあと思っていた。さぞかし視聴率も高かったはずだ。今の若い人たちは彼の顔を知っているかなあ?でも50代以上の人たちでウォルト・ディズニーの顔を知らない人はいないだろう。それくらいテレビに映るウォルトの存在はインパクトがあった。アメリカを代表する稀代のヒーローをトムハンクスが演じる。なかなかいいと思う。
「メリーポピンズ」を読んで感銘を受けていたディズニーの創始者ウォルトディズニー(トム・ハンクス)は、20年間の長きにわたって原作者トラヴァース女史(エマ・トンプソン)に映像化のアプローチをしていた。気難しいトラヴァースはその申し出を断ってきた。1961年になり、筆が進まず新作がなかなか書けないトラヴァース女史は徐々に収入が減っていて、家政婦も雇えなくなった。会計士からディズニーからの申し出を受けてみたらどうかと言われ、やむなくのることとなった。
ロンドンからディズニーの本拠地ロスアンジェルスに空路向かったトラバースはウォルトディズニー社長と会い、脚本家と2人の音楽担当者を紹介された。アニメだけは絶対だめよ!と実写を望んでいたトラバーズは、ミュージカル仕立て自体も嫌がっていた。彼女は何かにつけて難癖をつけディズニーのスタッフを困らせる。
一方で1906年に時代をスライドさせ、トラヴァース夫人の幼少期を写す。オーストラリア生まれの彼女は父母と幼い2人の妹と暮らしていた。都市部の住宅地を離れて、田舎の一軒家に移って暮らしはじめる。父(コリンファレル)は銀行に勤めていた。しかし、酒におぼれていた父は仕事には向いていなかった。母親は悩んでいた。しかも、結核で倒れてしまう。幼心に家庭の混乱に頭を悩ませるのであった。
この両方の映像を交互に見せていく。
トラヴァース女史って嫌味な女である。口の減らない女ともいえる。
なめられるのを怖れてよく女だてらに突っ張る人っている。人の言ったことに素直になれない。たまに見かけるよね。
ディズニーのスタッフは製作中ずっと悩まされるわけである。
でもこの映画はその悪戦苦闘記だけを描いているわけではなかった。トラヴァース女史の幼少期の映像を映しながら、父と娘の強い心の交情を語るわけである。これが徐々にわかってくるだけで、何か不思議な感情が芽生えてきた。いつも優しかった父親のことを思いながらトラヴァース女史の気持ちが映画製作中揺れ動く。父親への愛情が徐々に示されていく。それを思うとなぜか最終に向けて泣けてきた。久しぶりである。
印象に残るシーンがいくつかある。
気分転換にディズニーランドにウォルトディズニーがトラヴァース女史を誘う。天邪鬼な彼女は当然のらない。しかし、お迎えの車を運転するラルフ(ポールジアマッティ)がディズニーランドの入口に連れて行くのだ。入口の中にはウォルトが1人立っている。そして彼女を案内する。テレビでおなじみのウォルトの周りにはキャラクターと同じくらいサインを求める人たちが殺到する。ウォルトが彼女をメリーゴーランドに案内する。いやがる彼女を馬の上に乗せる。これがなかなかほのぼのとしている。
善悪両方を毎回交互に演じているようなポールジアマッティはこの映画では善人を演じた。オスカー作品「それでも夜は明ける」では奴隷商人だったが、今度はお抱え運転手で、気難しいトラヴァース女史のご機嫌をとりながら仕事をこなす。雰囲気は最近のウォーレスショーンのようだ。「サイドウェイ」のように主演を張ることもあるが、こういう渋めの脇役が良い。ラストに向けてのトラヴァース女史とのふれあいはなかなか素敵で、さすがディズニーといった印象だ。
もう1つはずっと暗めな歌が続いた後で兄弟が作った凧上げの歌を聴き、トラヴァース女史がダンスをおどりだすシーンである。
エマトンプソンも楽しそうに踊るのだ。双子の兄弟の前でさんざん悪態をついて、これでもか!と青島幸男の「意地悪ばあさん」のように嫌な女ぶりを強調するシーンが続いた後で、いくつか彼女のちがった一面を映し出すシーンがある。そこではリリースされた感じをおぼえた。
最後にもう一度「チムチムチェリー」が流れる。
最初同様ジーンと来たが、二度目にはもうすでに涙が出ていた。父娘の愛情のふれあいというシーンにはどうも涙腺が弱い。