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映画とライフデザイン

大好きな映画の感想、おいしい食べ物、本の話、素敵な街で感じたことなどつれづれなるままに歩きます。

映画「パルテノぺ ナポリの宝石」パオロ・ソレンティーノ&セレステ・ダッラ・ポルタ

2025-08-26 20:09:26 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )

映画「パルテノぺ ナポリの宝石」を映画館で観てきました。

映画『パルテノぺ ナポリの宝石』はイタリアの奇才パオロ・ソレンティーノ監督が故郷ナポリで1人の美しい女性の成長を描いた作品だ。パオロ・ソレンティーノ監督がつくる映像美は「きっとここが帰る場所」以来ずっと追っている。ショーン・ペンが審査員長だったカンヌ映画祭で称賛してアメリカでつくった作品だ。今回は女性のセレステ・ダッラ・ポルタを主演に抜擢する。オーディションで選んだセレステの美貌を予告編で観て楽しみにしていた。

ナポリの海で生まれたパルテノぺは上流階級の両親や兄と暮らして周囲の愛情に触れながら美しく成長していく。突如兄が亡くなり喪失感を覚えたパルテノぺは大学に通いつつ多種多様な人たちと触れ合うようになる。

ナポリの美しい風景とともに成長する主人公の人生を描く。

豊かな視覚体験で満たしてくれる作品だ。ストーリー自体は断片的なエピソードの集まりに近く、登場人物のプロフィールについても曖昧にしたままだ。整理された物語として語るのは難しく要旨は書きづらい。しかし、ビジュアルに身を委ねることで満足感を得られる。主人公パルテノぺが出会う人々や風景の断片を積み重ねていくので内容は盛りだくさんで見応えがある。

⒈ナポリの風景

ナポリ湾を望む邸宅が天井高も高く、日本ではありえないような豪華さだ。そこにゴージャスなヒロインのパルテノぺを放つ。海の豪邸をめぐっての上流社会の豊かさや美を囲む社交のざわめきを映し出す。しばしば、傾斜地に色鮮やかに建ち並ぶ街並みや、ヴェスヴィオ火山を遠望する映像が挿入される。ヴェスヴィオ火山の大噴火でポンペイの街が崩壊したことを思うと歴史を感じる。

パオロ・ソレンティーノ監督には「Hand Of God 」という自伝的と思わせるナポリの街にいるサッカー少年を映し出す作品がある。37年間ナポリで育ったパオロ・ソレンティーノ監督ならではの作品だ。映画ではサッカーの「ナポリ」を熱狂的に応援するダウンタウンの庶民的な生活を基調にする映像だ。この映画でも、パルテノぺは知り合う青年と2人乗りバイクでダウンタウンに向かい、ごちゃごちゃした街並みにたむろう庶民の姿を見かける。下層社会の一面が垣間みれる。そこで豪邸や上流の生活とは真逆のナポリの底辺を映し出すのも対照的でいい。

ダウンタウンの一角で、結ばれたカップルが宗教的儀式のように集まった人たちの目の前でストリップの「生板ショー」のようにメイクラブするシーンには驚く。もちろんパルテノぺは「かぶりつき」で見ている。これはパオロ・ソレンティーノ監督が知るナポリで残る風習なのか?

⒉多彩な登場人物

映画序盤に映る 海辺の豪邸には家族、親族、取り巻き、提督、富豪といった人物が集まり、音楽や会話が飛び交う。まさに上流階級の社交的生活だ。豪邸でパルテノぺは兄や幼なじみの使用人の息子といつもたむろう。ベルトルッチの名作「ドリーマーズ」女1人男2人の三角関係を連想する。なぜか兄は自死してもう1人の男が残る。

他にも多彩な登場人物が彼女の周りに寄ってくる。バイクでダウンタウンに連れて行きナポリの別世界を見せる青年に加えて、カツラとった姿が露わになる傲慢な女優、コンクラーベに出るといううさんくさいエロ司祭、ヘリコプターで空から現れる富豪、ゲイリーオールドマン演じるアメリカ人作家といった人物群が、権威や虚飾の象徴として登場する。

大学の老指導教授とパルテノぺは腐れ縁になっていく。人類学の専攻だ。パルテノぺは教授との個別応答でもいい加減だけど、気に入られている。気がつくと大学の助手として残っている。何よりビックリするのは教授の引きこもりの息子。突然、映画「ホエール」の主人公のような怪物が登場してアッと驚く。現実離れした異界の世界だ。映像芸術の1つなのかもしれない。

⒊ビジュアル面の魅力

ナポリの風景は昼夜を問わず美しい。その風景に溶け込むセレステ・ダッラ・ポルタの美貌が魅力的だ。海辺のシーンで颯爽と登場して最後まで惹きつける。美しさゆえに周囲に特別視されるが、本人は自然体で生きている。兄が死んだ時以外は中絶などの悪い出来事が起きても「静かに受け止めて通り過ぎる」ように描かれる。性格もおおらかだ。

パルテノぺの衣装もビジュアル面では重要な要素だ。衣装替えは10回を超えて数えられないくらい。色合いも抜群のセンスだ。個人的には 夏のえんじ色のワンピースが印象的で好きだけど、胸を大胆に露わにするシルバーのドレス、宝石を散りばめた宗教的なドレス、黒のイブニングドレスのセンスもいい。その一方で大学では抑え気味のトーンの知的な装いで決める。どれも彼女に似合い、目に焼きつける。サンローランの映画部門の制作だけど、服装デザインはイタリアの腕利きのデザイナーのセンスだろう。

パオロ・ソレンティーノの美的感覚は「きっとここが帰る場所」から現在までを通じて、色合いの選択やカメラアングルの適切さですばらしいセンスを示す。ストーリーで観る映画ではない。圧倒的な映像で魅了してくれる。

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映画「バレリーナ」アナ・デ・アルマス

2025-08-24 09:47:15 | 映画(洋画 2022年以降主演女性)

映画「バレリーナ」を映画館で観てきました。

映画「バレリーナ:The World of John Wick」ジョンウィックシリーズのスピンオフにあたる新作である。シリーズの世界観を派生させて女性の主人公を登場させる。監督はレン・ワイズマンだ。本音を言うと、最初は観ていたジョンウィックの新作も観る気持ちはなくなっていた。映画館にあるポスターを見るとカッコイイ女性がメインキアヌ・リーブスは控えめになっている。主演はアナ・デ・アルマスだ。なんか気になる作品で映画館に向かう。

暗殺教団によって父を殺された身寄りのない少女イヴは、同じような境遇の子どもたちがいる暗殺者養成組織「ルスカ・ロマ」で表向きはバレリーナの訓練、裏では格闘術を仕込まれる。やがて、成長したイヴ(アナ・デ・アルマス)は殺し屋として活動するようになった。ある殺しの仕事の途中で父親を殺した暗殺教団の手首にあった傷を倒した敵に見つけて驚く。そして復讐の道を歩みむことを決意して教団の拠点での危険な戦いに身を投じる。

手を変え品を変え繰り出されるアクションに圧倒される。

終わったと思ったらまだまだ続くアクションに末梢神経を刺激されっぱなしだ。若干疲れ気味だが十分楽しめた。ともかく主演のアナ・デ・アルマスの頑張りがすばらしい「ジョン・ウィック」マンネリを感じていた観客にも、新鮮さを提供して久々に楽しめるアクション映画となったのはうれしい。

⒈多彩なアクション

とにかく最初から最後までアクションだらけだ。目まぐるしく動くシーンを観ていてアクションの設計が緻密だと感じる。冷静になって観ると、すべての動きが「セリフのよう」にセッティングされているようだ。対決する相手との優勢劣勢が絶えず変わる格闘の動きが計算されている。どれも観客を飽きさせない工夫がある。

スタントコーディネートのジャクソン・スピデルの手腕だろう。主演のアナ・デ・アルマスは期待に見事に応えている。アクションのアイデアを本作でかなり出し尽くしたので、もし続編を作るなら舞台や設定を変えるしかないだろう。

⒉印象に残るシーン

女性中心のアクションだ。タイガーマスクの「虎の穴」のような暗殺者育成所では柔道着を着て大男に立ち向かう。正々堂々と戦うよりも「ズルでも生き残る」ことを叩き込まれるのだ。最初はやられっぱなしでも、男性へのチン蹴りなどズルをしてでも勝つコツを掴んでいく。冷徹な養成所のディレクター(アンジェリカ・ヒューストン)は黒柳徹子みたいな厚化粧で威圧感がすごい。格闘好きのジョンヒューストン監督の娘らしい。

復讐する拠点に向かい、雪景色の何気ないカフェで女性店員との女性同士の死闘は観ていて割れた食器の中で倒れてケガをしないのか逆に心配になってしまう。相手の火炎放射器攻撃にイヴがホースを持って放水で立ち向かう場面は思わず吹き出す。日本の戦争特集でアメリカ軍に火炎放射器攻撃でやられる日本兵を見るのはつらい。水圧の強いホースや消火用の噴射は、火炎放射の炎を押し返すだけでなく、視界を奪ったり敵のバランスを崩す効果があるんじゃないだろうか。「機転で逆境を覆すイヴの戦い方」を象徴する場面だ。

殺しのひと仕事を終えてスポーツカーで立ち去ろうとした時に、唐突にクルマをぶつけられて不意にコワモテの男に攻撃を受けるシーンには驚いた。「終わったと思ってもさらに続く」のだ。当然イヴは相手を退治するわけだが、緊張のリズムを落とさないように見事にアクションが設計されている。ここにはすごいと思った。

⒋アナ・デ・アルマス

最初から最後まで出ずっぱりでアクションを見せる。スタントも使っているだろうが、かなりの部分は本人だ。この撮影をこなすには生傷も絶えないしかなり体力がいるだろう。アナ・デ・アルマスの頑張りを讃えたい。最後に向けてジョンウィックが登場してイヴと対峙する。この話はネタバレなので置いておこう。

アナ・デ・アルマスはキューバ出身で現在37歳だ。もともと「ナイヴス・アウト」(2019)や「007/ノー・タイム・トゥ・ダイ」(2021)でアナ・デ・アルマスを観ている。自分のブログで振り返ると「ナイヴスアウト」では登場人物が多い群像劇の中でただの脇役でない看護師役として評価していた。「007」ではエロっぽいドレス姿が印象的だ。今後の幅広い活躍に期待したい。

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映画「大統領暗殺裁判 16日間の真実」イ・ソンギュン&チョ・ジョンソク

2025-08-23 08:00:44 | 韓国映画(2020年以降)

映画「大統領暗殺裁判 16日間の真実」を映画館で観てきました。

映画「大統領暗殺裁判 16日間の真実」は、1979年の朴正熙大統領暗殺事件の後、暗殺に関与した秘書官である軍人の裁判を描いたチュ・チャンミン監督の作品である。1988年のソウルオリンピック前の国内騒動を描いた映画「南山の部長たち」「ソウルの春」の間にあたる数週間を描く。これらはいずれも傑作で今回も期待できる。日本と違って韓国では現代の暗闇のような権力闘争が映画化されている。裁かれる秘書官を演じるのは惜しくも2023年末に自死で亡くなったイ・ソンギュンである。本当に残念だった。

1979年10月26日、韓国の独裁者であった朴正熙大統領はキム・ジェギュ中央情報部長が首謀者となって暗殺された。国家が混乱に陥る中で、暗殺に関与したとされる情報部長の秘書官パク(イ・ソンギュン)は軍人の身分なので軍法裁判にかけられる。

パクの弁護を引き受けたチョン・インフ弁護士(チョ・ジョンソク)は「上官命令に従ったにすぎない」と無罪を主張するが、証拠は乏しい。軍部内部の権力闘争もあり合同捜査団長チョン・サンドゥ(ユ・ジェミョン)が裁判を覆い隠す。それでも弁護士は粘って無謀にも権力の中枢である参謀総長からの証言獲得を目指すが容易ではない。

現代韓国史に迫る緊迫感のあるすばらしい映画だった。

韓国現代史を描いた作品はやはり面白いという満足感がある。独裁者朴正熙大統領が亡くなった1979年の不安定な韓国の姿を、軍部の動きや社会の風景を通じて生々しく映し出す。緊迫感がずっと続き、まったく飽きずに観れる。

⒈軍人としての威厳と軍法裁判

大統領暗殺事件は首謀者であるキム中央情報部長のもと実行される。中央情報部長の秘書官パクは軍人の身分である。1人だけ軍法裁判を受けるのだ。普通の裁判は三審なのに軍法裁判は一審で判決が下される。弁護を請けたチョン弁護士はこれはおかしいと裁判官に訴える。しかし、パク秘書官は軍人としての威厳を保ち、軍法裁判でよいとあっさり受け入れる。

「軍人だから軍事裁判でよい」の言葉は軍人としての誇りを示していると感じる。演じるイソンギュンも表情をまったく崩さない。余計なことは言わない。朝鮮戦争はいまだ終結しない。徴兵制もある。根強い軍隊文化がにじむ韓国社会では身近なリアリティを持って一般に受け止められるのではないかと自分は推測する。

⒉上官の命令に従うか

「上官の命令に従うか」が裁判の論点である。実行される30分前にパク秘書官は中央情報部長にターゲットは大統領と命じられる。あくまで秘書官は命令に従ったに過ぎないとチョン弁護士は訴える。命令であれば関係のない同僚も殺せるのか?などと被告は検察官から追及されて弁護士は懸命に反論する。弁護士は有罪ありきの望み薄裁判で必死に意図的ではないという立証を試みる。

映画を観ていてドイツナチスで大量のユダヤ人惨殺を実行したナチス幹部アイヒマン裁判を連想した。自分は単に命令を受けて実行したというアイヒマンを見て、哲学者ハンナアーレント「悪の凡庸」という感想をもって論争となる。その「アイヒマン裁判」の問題意識とも通じ合う印象をもった。ただ、アイヒマンの場合はかばうレベルは超えていると感じる。

⒊弁護士の粘り

チョン弁護士「上官の命令に従っただけ」という一点を武器に、勝ち目の薄い軍法裁判に挑む。弁護士は軍法裁判で裁くことの否定から入り、上官の命令に過ぎないという論点を強く主張する。加えて意図的に殺害したかどうかの判断だ。

数少ない証拠や証言を必死にかき集める弁護士の奮闘努力が映画の見どころの一つだ。弁護士が参謀総長に証言を求めて通い続ける場面が印象に残る。街で出会ったトレーニング中の女性ボクサーに意識を鼓舞されて一緒にパンチを下したり、粘って参謀総長に会おうと検問を突破しようとする情熱むき出しのシーンもいい。でも結局崩れていく落差にも引き寄せられる。何者かによって拉致もされる。葛藤の連続で強い熱量を生み出しておもしろさを増す。

⒋軍内部の権力闘争

裁判自体が作品の中心でありながら、並行して描かれるのは大統領暗殺後の軍内部の権力闘争である。この部分は映画「ソウルの春」とかぶる。表では形式的な裁判が進み、裏では次の支配者をめぐる駆け引きが行われている。のちの全斗煥大統領をモデルにしたチョン・サンドゥと参謀総長の対立も緊張感を生む。

軍内部の権力争いが軽く絡むことで作品に奥行きが生まれている。人間ドラマを残しつつ、歴史の大きな流れを背景に置いたバランスが秀逸である。「ソウルの春」ではファン・ジョンミン全斗煥を演じた。いかにもファンジョンミンらしくはしゃぎまわっていた。一方で今回演じるユ・ジェミョン冷静沈着で陰険である。対照的だけどこれはこれでいい。

⒌時代感の演出の巧みさ

「統治者不在の不安定な時期」を描く映像は当時の時代感を丹念に再現する。最近の韓国はハングルオンリーであるが、ハングルに漢字が混じる事務所内の掲示や新聞記事、看板に加えて統治下時代からの日本語の名残が時代を感じさせる。

男たちだけが酒を飲み交わし取っ組み合いのケンカをするボロい居酒屋の風景も名作「殺人の記憶」のワンシーンも連想させる 「男だけの世界」だ。1979年といえば日本ではディスコブームが続き、普通の女の子も酒場にはいた。一方で戒厳令下の韓国では女性は家庭にとどまり酩酊する女性が数多くでてくる現代の韓国映画との対比が鮮明である。

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映画「鯨が消えた入り江」テレンス・ラウ

2025-08-18 20:17:38 | 映画(中国映画)

映画「鯨が消えた入り江」を映画館で観てきました。

映画『鯨が消えた入り江』は台湾を舞台に香港の小説家と台湾の半グレ男が鯨が消えた入り江を探しに旅をする物語だ。若いイケメン男性が2人並ぶポスターを見ると、男色映画にも見えて最初避けたがそうでもなさそうだ。「トワイライトウォリアーズ」にも出演したテレンス・ラウは人気急上昇中で映画館には女性ファンも目立つ。でも、女性ファンが多いのはBL映画とみなして押し寄せている噂もあり少し心配だけど他にいい映画がなくやむなく映画館に向かう。

香港の人気作家・ティエンユー(テレンス・ラウ)の新作小説に盗作疑惑が浮上し、世間からバッシングを浴びる。傷心のティエンユーは、かつて文通していた少年が言っていた「鯨が消えた入り江」を探しに台湾へと旅立つ。

慣れない台北の繁華街で酔い潰れて危ういティエンユーを地元のチンピラ・アシャン(フェンディ・ファン)が助ける。アシャンの家で一晩過ごしたあとティエンユーが旅の目的を打ち明けると、アシャンは「その場所を知っている。」と一緒に向かうことになる。

台湾の心地よい風景が心を和ませるロードムービー的要素を楽しむ

イケメンの2人がイチャイチャする男色系映画ではない香港の小説家と台湾のチンピラの友情物語である。もともとは偶然香港からの金づると思しき男を助けたのに過ぎない。小説家とチンピラとは距離があった。それなのに目的地である入り江を探しに一緒に旅をする。

最初はスクーターに二人乗りをして一気に関係が近づいていく。新宿ゴールデン街のような裏路地をカーチェイスのようにスクーターチェイスするシーンもある。旅の途中で映る台湾の海岸線や滝のショットが美的に優れて心地が良い

ただ、脚本をあえて複雑にしているのでストーリーは正直わかりにくいところが多い。単純なロードムービーなのに、現実と虚実を織り交ぜるような流れになって映画を観ている途中でわからなくなる。盗作疑惑もいつのまにか2人の関係に関わっていく。もともと現実の話にファンタジーらしき要素も含めていく。観客にあえて解釈させようとする面倒な人間関係を作りだす。ややっこしいなあ。

要は、小説家が昔文通していた少年とチンピラが同一人物のような展開に持ち込むのだが、はっきりとしたセリフがない。文通を介した関係の相手が誰なのかは最後まで曖昧だ。そして輪をかけるように本当にいた人物なのかわからないようにしている。もしかしてこれって幻想の旅なのか現実なのか訳がわからない構造には戸惑いもある。小説家の主人公が「頭の中で描いた物語」と考える余地まである。

オーソドックスなロードムービーらしい「旅先での人との出会い」は少ない。物語に膨らみが足りない感じだ。冒頭の自殺未遂を村人の集団が止める場面はコメディ調で面白かったのに、その後にユーモアが続かないのは中途半端だった。

でも、小説的に意味を読み解くような人間関係の謎解きを考えるよりは、人と風景の心地よい空気を味わう作品だったと考えれば満足だった。屁理屈のようにわざとむずかしくしている要素があっても、イケメン2人の好演と台湾の美しい風景がその弱さを補う。夏を感じさせるギターが主体のバックミュージックも良かった。上空から俯瞰で映した海岸線の光景にも宮崎の日南海岸の風景を思わせる雄大さを感じた。映画は小説と違うから、登場人物のリアルな息遣いや美的な視覚を楽しめればいいのだ。

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映画「FOG OF WAR 見えざる真実」

2025-08-17 19:10:27 | 映画(洋画:2022年以降主演男性)

映画「FOG OF WAR 見えざる真実」を映画館で観てきました。

映画「Fog of War」は第二次世界大戦下の1944年、ノルマンディー上陸作戦直前の時期を描いたスパイ・サスペンスだ。監督はマイケルデイだ。goo blogもいよいよ末期に近づく時に、和洋ともに観に行きたい映画がない。困ったものだ。むしろ敗戦80年でTVで日本軍の愚劣さを見せつけるドキュメンタリーをみて呆れている。日本の軍隊を描いた映画は観たくない。ノルマンジーという言葉をみて消去法で選んだのが本作品だ。あまり期待せずに1週間ぶりに映画館に向かう。

激戦が続く1944年、戦地フランスの航空戦で負傷し帰国した米軍兵士ジーン(ジェイク・アベル )は、休暇時にあたって上官から任務を与えられる。婚約者であるOSS(戦略情報局)の工作員ペニー(ブリアナ・ヒルデブランド)が住むマサチューセッツ州のペニーのおじの家から怪しい無線が発信されているので探るように命令を受ける。

フランス上陸作戦に関する機密文書が盗まれ、それをナチスへ渡そうとするスパイが家の周辺に潜伏しているというのだ。婚約者と休暇で向かった家には1人の怪しい使用人がいた。夜になると、無線で発信する形跡を感じて主人公はマークする。

戦時下でのスパイではないかとの疑心暗鬼をコンパクトに描いている。

普通レベルの出来だが、ナチスへ無線発信する裏切り者を探るのが主旨だ。予測のつかない展開で敵味方入り乱れて逆転が続くスパイサスペンスを楽しむのは悪くない。

ノルマンディー上陸作戦の情報が漏れる映画の宣伝文句だ。でも作戦自体を示す大規模戦争映画のような迫力描写はない。途中から誰が味方で誰が敵か分からなくなっていく人間関係の裏切りと信頼に映画は焦点を絞っている。

久々新作映画で観るジョンキューザックが出演していても存在感はほぼない。あまりに出番の少なさに驚く。それでもメジャー俳優の少なさは特に気にならず、二段仕掛けの逆転のスリルを味わえる場面があるので中盤から退屈はしない

マサチューセッツの田舎にある屋敷が舞台で、この家を中心にほぼ閉鎖的な場面が続く。最初に怪しい使用人が登場していかにもスパイと見せかけようとする。当時の歴史的背景(親ナチ組織やノルマンディー上陸)をうまく利用しつつ、フィクションを実話らしく見せようとする。短編小説的なストーリー構造でも一本道にせず、裏切りと信頼の揺れをたえず繰り返す工夫をしている。親ナチスのドイツ系アメリカ人の秘密組織が存在していたのを初めて知る。CIAの前身的存在のOSSとドイツ系秘密組織の二重スパイ設定はあり得そうな感じがした。

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映画「アイム・スティル・ヒア」ウォルター・サレス&フェルナンダ・トーレス

2025-08-09 18:47:28 | 映画(洋画:2022年以降主演男性)

映画「アイムスティルヒア」を映画館で観てきました。

映画「アイムスティルヒア」はブラジル映画。1970年の軍政下におけるリオで拘束された夫を追う妻と家族を描く実話に基づく作品。名作「セントラル・ステーション」「モーターサイクル・ダイアリーズ」を生んだウォルター・サレス監督がメガホンをとり、アカデミー賞ではブラジル映画史上初の国際長編映画賞も獲得した。リオの海岸風景はTVなどで知っていてもブラジルは行ったこともないし、政治についてはまったくわからない。とりあえず先入観抜きで映画館に向かう。

1970年のブラジル・リオデジャネイロ。元国会議員で土木技術者のルーベンス・パイヴァ(セルトン・メロ)と妻のエウニセ(フェルナンダ・トーレス)は、5人の子どもたちとともに海に近い家で幸せに暮らす裕福な上流階級の一員だ。一方で軍事独裁政権に批判的な民主派でもあった。

スイス大使の誘拐事件が発生して世相に緊張が高まるある日、見知らぬ男たちが家に現れ、事情も言わずにルーベンスを連れ去る。その後、妻エウニセと娘の1人も連行されて取り調べを受け、家族は監視下に置かれる。軍に追われていた関係者を一晩匿ったことがきっかけだったようだ。夫の行方はわからないままだ。

リオの海岸のラテン的明るさの映像が一転して暗転する落差のある映像だ。

ブラジルというと貧困が強調される映画が多い。これはまったく逆な豪邸に住む5人の子どもがいるブルジョワ家族だ。

実在のモデルがいて夫ルーベンスは土木技師兼実業家で、妻エウニセは大学法学部卒の弁護士で、結婚後は家庭に入り夫を支えていた。両者とも資産家出身で当時としては数少ない高学歴夫婦だそうだ。リオの海岸の自宅はコパカバーナではなく、より高級なイパネマ地区の海沿いにある富裕層専用エリアだ。冒頭30分は大家族が和気あいあいで子どもたちがはしゃぐ姿を映す。この海辺の豪邸生活はこれまで知るブラジルの底辺を映す映画とは違う完全に別世界だ。しかも家族で新築を計画している。リッチだ。

⒈一転するブルジョワ生活

そんなブルジョワ生活が一転する。夫が連行されて穏やかな日常が突然崩れ去る。妻も取調べを受ける時は観ている自分も恐怖感を覚え、どうなってしまうんだろうと思わせる。結局主人公は戻らずに残された妻は5人の子どもを抱えて生活の再建のためにひたすらもがくのだ。行方不明で夫の口座の金が下ろせない。次第に使えるお金も底をつく。メイドの給料も払えない。リオデジャネイロの家を手放し、一家は妻の故郷のサンパウロに引っ越さざるをえない。ブルジョワ生活に慣れた家族は落胆する。

冒頭のリオの海辺の家での優雅な日常描写から、突如謎の男たちが踏み込む30分過ぎの展開は落差が激しい。静かで唐突に恐怖感を倍増させる。何を考えているのかわからない無口な男たちが醸しだす緊張感と日常が崩壊する瞬間のリアリティが秀逸である。

主演フェルナンダ・トーレスはいかにもインテリ女性の風貌で抑制された演技がうまい。子役たちの自然な振る舞いもいい感じで海辺の邸宅でののどかな空気感を伝える。演出・演技・時代描写は極めて高い水準だ。

⒉バラモン左翼の主人公

軍事政権下における理不尽な拘束とそれによる一家の転落がテーマだ。でも、反体制派が弾圧される軍政下のブラジルにおける夫の振る舞いは目をつけられるスキがあったのかもしれない。富裕層でも反体制派は例外なく危険視され、見せしめの対象となったようだ。こんなにブルジョワなのに反体制というのは、いわゆる知識人、ピケティ式に言うなら「バラモン左翼」だ。自分には好きになりづらい人種だ。ええかっこしいだ。

主人公夫婦の当時としては超エリートだった背景を知ると庶民目線の悲劇とは思えない。ブラジルの庶民層にとっては「そもそも別世界の人」という印象が残る気もするが現地ではヒットしたらしい。時を経てエウニセが教育現場で働く姿が示され、人生を人権と教育に捧げたその後を暗示する。トランプ大統領が嫌って関税をつり上げたブラジル左翼政権ではそんな姿が評価されたのであろうか?

 

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映画「美しい夏」ディーヴァ・カッセル& イーレ・ヴィアネッロ

2025-08-03 08:05:47 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )

映画「美しい夏」を映画館で観てきました。

映画「美しい夏(La Bella Estate)」イタリアトリノを舞台にしたチェーザレ・パヴェーゼの同名小説に基づく作品で監督はラウラ・ルケッティだ。夏の湖で知り合った少女から大人になろうとする時期の10代の女性2人にスポットをあてる。若い女性2人が親しくする姿をみるとレズビアン映画を想像するがそうでもなさそうだ。映像の美しさに惹かれて映画館に向かう。

1938年の夏、第二次世界大戦前夜のイタリア・トリノ。服飾工房で働く少女ジーニア(イーレ・ヴィアネッロ)は、湖畔で出会った年上の女性アメーリア(ディーヴァ・カッセル)に心を奪われる。アメーリアは画家のモデルとして生き、芸術家やフランス人仲間と自由に過ごしていた。

ジーニアもその仲間に入ると、服飾の仕事よりも画家たちとの交流にのめり込んでいく。やがて自分も裸のモデルになりたいと願って画家に近づく。ジーニアは上司に見込まれて抜擢された仕事をおろそかにするようになり、同時にアメーリアは体調を崩していることがわかる。

柔らかい色彩設計にすぐれたムードのある叙事詩のような作品だ。

原作では16歳と19歳の設定があるようだが、映画の中では言及されない。地味に服飾の工房で働いている少女ジーニアが自由奔放な画家のモデルのアメーリアにあこがれるのだ。気が合い惹かれあってもレズビアン的な2人の存在ではない。ジーニアは大人の世界に入ろうと画家に近づいていくのだ。

のめり込んで服飾の仕事面でバランスを崩すジーニアや当時不治の病だった病気にかかってしまうアメーリアを描くことで変化をもたせる。若き女性の危うさに触れていても青春の輝きは最後まで失わずに全体に流れる空気は心地よい

⒈戦前のトリノ

1938年はムッソリーニのファシズム下であり、第二次大戦が始まる直前だ。街に政治的空気が漂う一方で上流階級や芸術家たちはまだ自由を享受している。トリノはフランスに近く、フランス語の会話が自然になじむ。戦前の建築が多く残り、1930年代の街並みが再現しやすい魅力的な街だ。自分は行ったことがない。ロケ地には実在の旧市街のカフェ、湖や郊外の村などが使われた。荒川静香の金メダルの記憶が鮮明な2006年冬季五輪の開催都市で、枯葉舞い散る街路や雪景色のシーンもあり美しい四季を持つ一面も醸し出す。

⒉2人の主人公

実は2人の実年齢は逆転している。作品情報によるとジーニア役イーレ・ヴィアネッロが99年生まれでアメーリア役ディーヴァ・カッセルが2004年生まれで5つも年齢が逆転するのには驚く。ディーヴァの方が背が高く年上に見えてしまう。夏の湖畔の再会シーンは病気に関して多くを語らず曖昧さを残した素敵なエンディングだ。

ジーニア役イーレ・ヴィアネッロが実年齢を超えて演技やしぐさ、表情によって「まだ社会経験の浅い少女」という印象を強めている。巧みに少女の揺れを体現すると同時に画家に抱かれるシーンでは美しい裸体や乳首も見せる。画家のモデルになるシーンではヘアヌードにもなる思いっきりは称賛する。

アメーリア役ディーヴァ・カッセルは実年齢と役柄がほぼ一致する。最初の湖畔のシーンからスタイル抜群のナイスバディを披露する。映画を観終わって初めて知るが、何とモニカ・ベルッチとヴァンサン・カッセルの娘だそうだ。とんでもない血統書付の女の子で母モニカ・ベルッチ譲りの強烈な存在感だ。

画家のモデルになるシーンその他でバストトップを見せそうで見せないのはもったいないと思っていたけど、その血統と実年齢を知り思わず納得する。英語、仏語、イタリア語いずれもできるとなると将来大物になるのは間違いない。ボンドガール向きかもしれない。

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映画「KNEECAP/ニーキャップ」

2025-08-02 21:01:37 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )

映画「ニーキャップ」を映画館で観てきました。

映画「KNEECAP/ニーキャップ」は実在するアイルランドのラップトリオが自らを演じた半自伝的映画である。でもドキュメンタリーではない。もちろんこのバンドの名前を聞くのは初めてだ。監督は元ジャーナリストのリッチ・ペピアットである。北アイルランド・ベルファストでは紛争が題材で映画化もされた。アイルランドは何かと英国とはもめ事が多い。宇宙人のような髪型をした若者2人とおじさん教師が歌う反英国的な歌詞のラップが基調である。思いのほか満席、今いい映画やっていないもんなあ。みんな消去法だろう。

北アイルランドのベルファストで生まれ育った若者ニーシャ(モウグリ・バップ/本人)とリーアム(モ・カラ/本人)は幼馴染み。ある日、ドラッグパーティーの会場から逃げ遅れ警察に捕まったリーアムは取り調べで英語を話すことを拒否する。怖い女刑事は通訳者として派遣されたアイルランド語教師のJJ(DJプロヴィ/本人)とともに話を聞く。

リーアムの手帳にある歌詞を見たJJはアイルランド語でラップをやることを2人に提案。ヒップホップ・トリオ「ニーキャップ」が誕生する。バンドは注目を集めるが、 過激な歌詞や政治色の強さが問題視されてしまう。しかも、教師のJJも活動が学校にバレるのだ。

リズミカルなラップのノリで映画を疾走させる。

北アイルランドは政治的にトラブルが多いエリアである。近年までアイルランド語が公用語でないと知り驚く。アイルランド語でラップを歌う3人組が政治や社会の圧力の狭間でバンド活動をする。映画を観ていてコミカルなタッチは好みであってもストーリーの流れはよくわからない。直線的ではなく、日常の断片が連なっていく構成の中にドラッグとSEXが混じっていく。18禁となるのはファックシーンの多さだろう。

筋を追う映画ではない。ストーリーの明確さよりも、キャラクターの個性と音楽のパワーで魅せる構成だ。登場人物(3人のメンバー、女性刑事、家族、恋人、マフィア集団)がいずれも個性的でストーリーが多少散漫でも飽きずに最後まで映像を追える。

⒈ユニークな登場人物

ともかく好き勝手に生きている若者2人の破天荒さに笑う。破茶滅茶としか言いようにない。家族とのふれあいに加えて失踪した父親の存在をうまくストーリーに織り込む。どうも創作のようだ。スポーツのようにファックしまくる彼女との漫才のようなかけ合いも楽しい。ステージ上での尻出しパフォーマンスや薬物使用描写により教師JJは学校をクビになる。妻との関係もユニークだ。この教師あがりのラッパーはてっきりプロの役者かと思ったらバンドの一員なのね。演技ナチュラルでうまい

怖い女性刑事とドラッグ絡みのマフィアが3人の動きを執拗に追う。映画「ブルースブラザーズ」で警察やネオナチなど色んな連中が追いかけるのを連想する。女性刑事はドラッグ捜査だけでなく、政治的活動も締め付ける。物語の緊張感を高めるため権力側の象徴として彼女の使い方が絶妙である。

⒉ラップのノリ

字幕ではカッコ書きになるアイルランド語とヒップホップのリズムが融合して耳触りがいい。挑発的で時に過激な歌詞は政治的なメッセージも強いけど軽やかだ。政治の話であっても説教くさくない。ライブでは観客を完全に巻き込む。ノリの良さで純粋なエンタメとしても楽しませてくれる。

この作品は筋書きの明快さではなく、登場人物と音楽の魅力で観客を引っ張る映画だ。正直言って映画のストーリーがようやくつかめるのは後半戦になってからだった。それでも楽しい。

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映画「私が見た世界」 石田えり

2025-07-28 19:56:17 | 映画(日本 2019年以降主演女性)

映画「私が見た世界」を映画館で観てきました。

映画『私の見た世界』はベテラン女優石田えりの初監督作品である。松山ホステス殺人事件の犯人・福田和子の逃亡劇が主題で、石田えり自ら主演、脚本、編集も兼ねている。自分のブログで長年アクセスが多いが「遠雷」である。若き巨乳を披露した石田えりも64歳となると、あのスーパーボディを拝むのはむずかしい。とはいえ、初監督祝のご祝儀を兼ねて映画を観たい気になる。

映画は福田和子をモデルにした逃亡者「佐藤節子」を石田えりが演じる。カメラはほぼ一貫して彼女の視点(=主観ショット)で進行する。佐藤節子(石田えり)の顔はほとんど映らず、視線越しに出会った人々の表情や言葉を描く。

映画としての満足度はもう一歩、初監督ご祝儀と思えば仕方ない。

福田和子の逃亡劇についてはこれまでノンフィクション本や週刊誌記事などで何度も読んできた。だいたいアタマに入っている。スナックでの接客、顔の整形、客としてきた和菓子屋主人の家での居候、捜査に来た警察を感知しての自転車での逃走、ラブホテル勤務、売春旅館に身を隠すなど検挙に至る逃亡中の有名な出来事は網羅される。

逃亡先エピソードの扱いはどれも既知の事実の羅列に近い。「福田和子」という人物に迫る新解釈は乏しく、単なる再現に終始していた。自転車逃亡の場面はあっても逃亡のスリルや人間関係の深まりが描かれないのでドラマ的に深掘りされず淡白な印象を受ける。石田えりには見ていた世界を描くという意図があったと推察するが、感情移入しづらい状況が続き臨場感や緊張感を削ぐ結果にもなったのは残念だ。

GOROのグラビア『遠雷』では巨乳を活かした肉体派だったのがなつかしい。ずいぶんとお世話になった。映画『釣りバカ日誌』シリーズでは、明るくあっけらかんとした奥さん役がハマり役だった。さすがに年齢的にも身体で魅せることは現実的に難しい。60代の石田えりが、実年齢で演じるには無理のある30~40代の福田和子像を正面から演じることは避けたのも物足りなさの要因だ。

唯一の著名俳優は佐野史郎で、登場シーンも短い。他は無名俳優が多く、低予算体制がうかがえる。石田えり自身が制作費の一部を自腹で負担しているようだ。インディペンデントな制作スタイルで公開館も都内でひとつで商業的な回収は難しそうと感じてしまう。

お世話になった石田えりへの敬意や、挑戦する姿勢への応援の気持ちは強い。安いご祝儀で観たと思えば良かったと思う。

 

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インド映画「私たちが光と想うすべて」

2025-07-26 20:55:12 | 映画(アジア)

インド映画『私たちが光と想うすべて』を映画館で観てきました。

映画「私たちが光と想うすべて(All We Imagine as Light)」は2024年のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞したインド映画だ。監督・脚本は女性監督パヤル・カパディヤである。インド映画といえば歌と踊りで3時間の上映時間につい尻込みしがちだが、この作品は2時間弱で収めているので気が楽だ。直近でインド経済に関する本を読む機会が多く、舞台となるムンバイの街を見てみたい気もした。オバマ元大統領が選ぶ年間ベスト10はその翌年自分が観に行くべき映画の指針のようになっている。この作品もそのひとつだ。

インド最大の都市ムンバイ看護師として働く年長のプラバ(カニ・クスルティ)と、年下のアヌ(ディヴィヤ・プラバ)。彼女たちは同じ病院の先輩後輩であり、ルームメイトとして共同生活を送っている。プラバにはドイツに行ってしまった夫がいるが音信不通状態。アヌはイスラム教徒の恋人と密かに付き合っており、宗教の壁に悩んでいる。

食堂で働く同僚が、再開発によって立退を迫られ、故郷へ戻ることを決意する。プラバとアヌは彼女と一緒に海辺の村へと遊びに行く。

大都市と田舎の海辺の村で現代インドの縮図を見せる。

猥雑な大都市ムンバイの片隅で生きている2人の看護師をクローズアップする。現地で社会問題となっているであろう外国への出稼ぎ問題やインドでは異端のイスラム教徒との恋都市開発に伴う立ち退きなどの話題が映画の根底に流れる。今まで観たインド映画のようなド派手な喧騒ムードはなく生活感あふれる映画になっている。その中で主人公2人の恋物語が描かれる。 

途中から海辺の村に舞台が移ると、幻想的なムードも醸し出す。個人的には興味深い話題が多く飽きずに観れたが、隣席のどこかのオバサンは途中から熟睡のようだった。

⒈ムンバイの猥雑な描写

ムンバイ市内を走る高架鉄道やその車内の風景、女性専用車両や通勤ラッシュの描写をここまで繊細に描いたインド映画は観たことがない。市場の雑踏、屋台や路上での食事、主人公2人が住む狭い台所がある寮の生活まで臨場感があった。観光目線でなくあくまで生活者の視点で切り取られた都市ムンバイがよくわかる。ゴチャゴチャした雑踏に併存して高層ビルが立ち並ぶ映像は、変わり続ける都市の姿を未知の自分にも教えてくれてうれしい。

⒉都市開発による立ち退き

中国や香港映画では20年ほど前から、立ち退きや都市再開発が社会問題として映画に描かれてきた。今まさにインドで現在進行形であることを実感する。中国では「立ち退き=儲かる」の構図があった。ところが、映像を見ると違和感がある。インドでは「追い出されること」にすぎず、再開発の恩恵を受けるのは不動産業者や一部の所有者だけのようだ。必ずしも住民は得をしていないことが調べるとわかった。ムンバイの高層化の波は確実に進んでおり、その陰で故郷に戻る人々がいる。食堂で働いていたパルヴァティの存在がその象徴なのだ。

⒊海辺の村と幻想的描写

映画の終盤で描かれる海辺の村は、海、森、洞窟もムンバイの喧騒とは対照的な静けさに満ちている。寝泊まりする場所はオンボロだけど、癒しを感じさせるシーンもある。ムンバイより南下した場所に位置するアラビア海に面する村が舞台のようだ。アヌはイスラム教徒の恋人との禁断の恋を貫き現地で落ち合いプラバは2人の情事を目撃する。

映画のいちばんの見どころは、海辺でプラバが溺れて死にかけた男を助けた後のシーンだろう。まったくの第三者なのに、目覚めた男が突然「夫のように」に話し出す場面は、狐につままれるような気分になる。それまでファンタジー的要素はまったくなかったので「アレ?」という感じだ。ネタバレになるので男のセリフは言わないが、ここであえて幻想的表現で癒しを演出する。現実と幻想の境目をなくす美しい瞬間だった。

⒋インド映画らしさとダンス

ムンバイの猥雑さと海辺の村の安らぎのコントラストがいい。両面で現代インドを感じさせる。2時間の上映時間にするためインド映画らしい歌って踊っての喧騒シーンは最小限だ。それでもさりげない「インド映画らしさ」を残している。海辺の村の部屋で音楽に乗って踊るシーン、ラストに向けて海の家の店員が踊るシーンなど自然に身体が踊ってしまうリズムが心地よい。これまでのインド映画と違う側面をみた感じだ。

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