映画とライフデザイン

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夏目漱石原作 映画「こころ」 新珠三千代&森雅之&市川崑

2021-06-30 09:35:23 | 映画(日本 昭和34年以前)
夏目漱石原作映画「こころ」を名画座で観てきました。


「こころ」はご存知夏目漱石の古典的小説の映画化である。昭和30年(1955年)の市川崑監督作品だ。名画座の新珠三千代特集で見ておきたかった作品である。実は「こころ」が映画化されていること自体知らなかった。高校二年生の時、夏休みの課題でこの小説を読むように言われた。読み始めてみると、グイッと引き寄せられた。そして心にドッシリと残った。その後30 代に骨折で入院したとき読んだので、結局2回通読している。肝心なあらすじは頭に残っているが、ディテイルはすっかり忘れていた。

インテリだけれども無職の男性(森雅之)と彼を先生とあがめる大学生(安井昌二)が交友関係を深める中で、先生がのちに妻となる下宿先の娘(新珠三千代)と先生と幼なじみの下宿人(三橋達也)を含めた学生時代の三角関係の顛末を今だに悩んでいることを大学生に独白する展開だ。


こうやって映画を観た後、青空文庫でサッと読む。最初に読んだときは何日もかかった気がするのに、あっという間に読めた。実にオールドファッションな恋だなという感じである。映画の流れは原作には比較的忠実であり、市川崑監督作品らしく出演者を大きくアップに映して、その映像で心理描写を試みている。

それにしても、この恋愛感はさすがに古い。森雅之と三橋達也演じる学生はどう見ても変人だ。明治時代にはこんなひねくれた奴しか大学生はいなかったのかだろうか。高校の現代国語で取り上げられる題材は長きにわたって変わっていないと言われる。今でも高校の教科書にあるのであろうか?ましてや自分たちより50年近く下の世代にどう感じるのであろう。

⒈高校二年生の衝撃と読解力
今思うと、高校生当時読解力はあまりなかった。親が子供向け文学全集を買ってくれたが、どの本も読み切った記憶がない。相撲やプロレスなどのスポーツ系の雑誌や沢村栄治やベーブルースなどの伝記ものを読んではいた。高校に上がっても自宅近くに住んでいた星新一のショートショートや五木寛之の短編小説を読むのが精一杯の読解力である。一般的に有名な夏目漱石の作品も序盤戦でダウンで当時読了していない。そんなレベルで「こころ」は自分にとっては大著に見えたが、読み始めると何故か止まらなかった。



結局は1人の女性を取りあう話である。自分も恋に目覚めてはいた。しかし、視野が狭いから、学校内のしかも身近な女性についつい目が向かう。その女性をゲットするために一歩先を行くなんて話は高校生の目線の高さからすると、実はたいして変わらないのだ。夏目漱石というだけで偉人に見えるが、もっと近いところに存在する人だと感じるようになった。名著を読むことにも自分の居場所がある気もしてきた。一冊の本が読み切れるようになるきっかけになったのかもしれない。それでもそこからの道のりは険しかった。

話題になっている「ドラゴン桜」の設定には現実的に無理があると思っている。その理由は読解力を短期で身につける難しさである。いわゆる難関中学の国語入試問題はごく普通の大学の入試問題以上の読解力を要求される。あんな難しい問題を平気で解く奴とはとんでもない差がもう高校生になる時点でついている。このレベルは1年程度の勉強では到達できない。TVなどで「東大に挑戦」として猛勉強させる番組がある。いずれもうまくいかない。もちろん、国語の入試問題が解けるために読書すればいいという世間の愚論も的外れだ。でも高度に蓄積した読解力がなければあの英語や国語の問題は解けないし、自分の感覚ではそれが簡単に身につくものではない。

⒉原作に忠実
「こころ」を青空文庫で読み返したら、映画は原作にわりと忠実であることに気づく。「精神的向上心」なんてセリフもあるし、会話については原文と同じセリフが多い。最近それはそれでいいと思うようになった。海岸も含めいくつかロケ場面もある。まだ昭和30年なら、時代的に撮れたのかもしれない。本郷付近を想定していると思しき下宿周辺はセットだと思うけど、それもうまく再現できている。

ただ、先生の妻への想いというのが、かなり活字に表現されていた。Kへの気持ちについても同様である。結局好きで一緒になったのに、妻を残していくわけである。その辛い気持ちと罪悪感がさすがに映画の中では表現はできていない。もっとも2時間の映画でそこまで望むのも無理だろう。


原文には、猿楽町から神保町の通りへ出て、小川町の方へ曲りました。なんて記述もある。他にも万世橋、明神の坂、本郷台、菊坂、小石川と自分が散歩もよくするルートなので地名は親しみのあるものばかりである。

⒊無理がある森雅之と出演者たち

森雅之と三橋達也が大学生時代も同様に演じている。モノクロの映像でもさすがに無理がある。若い俳優がでて、年長になった老け顔も演じる方が良かったのではないか。この不自然さのためなのか、この作品は映画の名作として取り上げられていないのかもしれない。

新珠三千代は当時25才である。女学校を出るという年齢設定からすると、ギリギリセーフかな。関西出身のタカラジェンヌ新珠三千代ではあるが、ここで話す東京弁は、自分が20代くらいにはギリギリ上流階級の女性に残っていた話し方である。明治時代もこんな調子だったのだろうか。正統派お嬢様の東京弁は、聞く人によっては嫌味に聞こえてしまうかもしれないが、こういう上品さが消えていくのがある意味さみしい気もする。


安井昌二が大学生役である。この小説では重要な存在だ。もちろん違和感はない。ただ、見てビックリしたのは、ふっくらした安井昌二が娘のチャコちゃんこと四方晴美にそっくりだということだ。自分たちが小学生の時にはチャコちゃんは同世代では最大のスターであった。後の新派の人気男役安井昌二と父娘似ていないと思っていただけに意外。そんなことを思いながら映画を観ていた。

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