インド映画『私たちが光と想うすべて』を映画館で観てきました。
映画「私たちが光と想うすべて(All We Imagine as Light)」は2024年のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞したインド映画だ。監督・脚本は女性監督パヤル・カパディヤである。インド映画といえば歌と踊りで3時間の上映時間につい尻込みしがちだが、この作品は2時間弱で収めているので気が楽だ。直近でインド経済に関する本を読む機会が多く、舞台となるムンバイの街を見てみたい気もした。オバマ元大統領が選ぶ年間ベスト10はその翌年自分が観に行くべき映画の指針のようになっている。この作品もそのひとつだ。
インド最大の都市ムンバイで看護師として働く年長のプラバ(カニ・クスルティ)と、年下のアヌ(ディヴィヤ・プラバ)。彼女たちは同じ病院の先輩後輩であり、ルームメイトとして共同生活を送っている。プラバにはドイツに行ってしまった夫がいるが音信不通状態。アヌはイスラム教徒の恋人と密かに付き合っており、宗教の壁に悩んでいる。
食堂で働く同僚が、再開発によって立退を迫られ、故郷へ戻ることを決意する。プラバとアヌは彼女と一緒に海辺の村へと遊びに行く。
大都市と田舎の海辺の村で現代インドの縮図を見せる。
猥雑な大都市ムンバイの片隅で生きている2人の看護師をクローズアップする。現地で社会問題となっているであろう外国への出稼ぎ問題やインドでは異端のイスラム教徒との恋、都市開発に伴う立ち退きなどの話題が映画の根底に流れる。今まで観たインド映画のようなド派手な喧騒ムードはなく生活感あふれる映画になっている。その中で主人公2人の恋物語が描かれる。
途中から海辺の村に舞台が移ると、幻想的なムードも醸し出す。個人的には興味深い話題が多く飽きずに観れたが、隣席のどこかのオバサンは途中から熟睡のようだった。
⒈ムンバイの猥雑な描写
ムンバイ市内を走る高架鉄道やその車内の風景、女性専用車両や通勤ラッシュの描写をここまで繊細に描いたインド映画は観たことがない。市場の雑踏、屋台や路上での食事、主人公2人が住む狭い台所がある寮の生活まで臨場感があった。観光目線でなくあくまで生活者の視点で切り取られた都市ムンバイがよくわかる。ゴチャゴチャした雑踏に併存して高層ビルが立ち並ぶ映像は、変わり続ける都市の姿を未知の自分にも教えてくれてうれしい。
⒉都市開発による立ち退き
中国や香港映画では20年ほど前から、立ち退きや都市再開発が社会問題として映画に描かれてきた。今まさにインドで現在進行形であることを実感する。中国では「立ち退き=儲かる」の構図があった。ところが、映像を見ると違和感がある。インドでは「追い出されること」にすぎず、再開発の恩恵を受けるのは不動産業者や一部の所有者だけのようだ。必ずしも住民は得をしていないことが調べるとわかった。ムンバイの高層化の波は確実に進んでおり、その陰で故郷に戻る人々がいる。食堂で働いていたパルヴァティの存在がその象徴なのだ。
⒊海辺の村と幻想的描写
映画の終盤で描かれる海辺の村は、海、森、洞窟もムンバイの喧騒とは対照的な静けさに満ちている。寝泊まりする場所はオンボロだけど、癒しを感じさせるシーンもある。ムンバイより南下した場所に位置するアラビア海に面する村が舞台のようだ。アヌはイスラム教徒の恋人との禁断の恋を貫き現地で落ち合いプラバは2人の情事を目撃する。
映画のいちばんの見どころは、海辺でプラバが溺れて死にかけた男を助けた後のシーンだろう。まったくの第三者なのに、目覚めた男が突然「夫のように」に話し出す場面は、狐につままれるような気分になる。それまでファンタジー的要素はまったくなかったので「アレ?」という感じだ。ネタバレになるので男のセリフは言わないが、ここであえて幻想的表現で癒しを演出する。現実と幻想の境目をなくす美しい瞬間だった。
⒋インド映画らしさとダンス
ムンバイの猥雑さと海辺の村の安らぎのコントラストがいい。両面で現代インドを感じさせる。2時間の上映時間にするためインド映画らしい歌って踊っての喧騒シーンは最小限だ。それでもさりげない「インド映画らしさ」を残している。海辺の村の部屋で音楽に乗って踊るシーン、ラストに向けて海の家の店員が踊るシーンなど自然に身体が踊ってしまうリズムが心地よい。これまでのインド映画と違う側面をみた感じだ。