Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

息の根を止める

2009-04-25 06:47:55 | 日記
先見の明

“先見の明”という言葉がある。

ぼくの好きな言葉ではない。
いちおう電子辞書広辞苑の定義をかかげる、<先見>ででている;
事があらわれる前に見ぬくこと。さきを見通す事→<先見の明>

しかし、自分には“先見の明がある”などと、したり顔で言うひとがあるならば、そんなものは糞である。

Doblogがクラッシュした前の日(09/02/07)に、ぼくは以下のブログを書いた。
そのなかに以下の文章がある;
《結局“ネット言説”を規制するだけになる、ネット言説の場がなくなる可能性だってある》

あまりにも、この偶然は、奇怪である。
ぼくにとって、Doblogという“ネット言説の場”は、なくなったからである。
このgooで“継続”できるから、いいじゃないか。
そうだろうか。
Doblogという場は死滅したのだ、gooが死滅しないという保証はない。

もちろん、“ネット言説の場”などが死滅しても、どうってことはない。
ぼく自身、気になるのは、ぼくが昨夜引用した自分の言葉の方である;
《もし“戦争国家”を認めるなら、この日本という国家も“防衛のための”戦争国家になるというリアリズムのみが必然である。
ぼくは“そうなる”と思う。
(あなたが変わらないかぎり、そうなる=私が変わらないかぎりそうなる)》

ぼくは自分の“先見の明”が、当たらないことを願う。


いちおう、09/02/07ブログを再録する;

<snapshot 太った赤ん坊あるいは過保護幼稚園児> [ 08:28 ] [ 日記 ]

今日天声人語;
▼ 顔が見える集団討論でさえ、意見が次第にとんがり、結論が極端に振れることがある。匿名ゆえに責任感が薄まる場では、安易に同調し、論より情にまかせて過激さを競うような群集心理が働くという(岡崎博之『インターネット怖い話』)▼自由に発信できるネットにより、善意の輪が広がることもあれば、権力やメディアの所業が問われもする。「情」と「報」の海に紛れる悪意をどう摘むか。もはや言論の裏通りとはいえない存在だけに、交通整理の知恵がいる。
(以上引用)

いったいこの文章はなにを言っているのか!

こういうことを“書く”ならば、“交通整理の知恵”のカケラでも述べるべきだ。
いったいどうすればいいのでしょうか?(笑)
結局“ネット言説”を規制するだけになる、ネット言説の場がなくなる可能性だってある。

天声人語、この肥大した赤ん坊。

なんでもかんでも、したり顔で論評する。
ここには、“主体(人間)”がいない。
ここには“問い”がない。

この程度のことが、『インターネット怖い話』などというどうでもいい本を“引用”しなければ言えないのか。
世の中にはもっと“まともな本”がある。

上記の“話題”なら答えは簡単である。

天声人語が“批判すべきことを批判すれば”いいのである。
マスメディアが、なにも批判せず、ひたすら現状を保守する言説ばかり並べているから、“ネット言説”が暴走しているのだ。

自分の責任を棚にあげるな。

“群集心理の暴走”などというのは、ネットがなくてもいくらでも起こる。
もし“無名の群集の悪意”をいうなら、そんなものはいつの時代にもいくらでもある。

この幼稚園児の過保護状態からいつまでも卒業できない天声人語ライターというのは、ほんとうに救いようがない。

こういう朝日新聞のような愚鈍な言説しかないから、こっちも書きたくもないことをブログに書かざるを得ない。

まさに<責任>という言葉にもっとも反しているのが、天声人語のような“無責任言説”なのだ。

ぼくは、ネット言説が“責任を持って”、天声人語の息の根を止めることを夢みる。

[ 更新日時:2009/02/07 08:29 ]


ぼくが“息の根を止めたい”のは、天声人語のみではない。

くだらない“言葉”を撒き散らし、“はしゃぎまくっている”現在の、ほとんどの“おしゃべりたち”のことである。

たとえば、最新の“内田樹の研究室”ブログを見よ。
内田樹、高橋源一郎、渋谷陽一・・・・・・。

かれらは、なにを“はしゃいで”いるのか。

かれらが、哲学や文学やロック・カルチャーについて、まともなことが、ひとことでも言えるとは、思えない。

“結婚生活”についても(笑)


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