Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

人間とは

2010-05-02 00:35:15 | 日記


★ 実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらしたといってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。

★ 今や、マルクスは現実の諸個人、ただし、社会諸関係の中におかれた諸個人から出発する。たとえば、われわれは、各自、さまざまな社会関係、つまり、生産関係だけでなく、ジェンダー、家族、エスニック、民族、国家その他の関係の次元におかれている。しかも、それらは時に、相互に矛盾するものである。私の「本質」、すなわち、「――であるところのもの」は、それらの関係によって規定される。私の本質なるものは、そのような社会的諸関係の総体であるというほかはない。しかし、「人間」(本質)という想像的な観念は、そのような諸関係を消去してしまう。

★ 一方、同時に、私は、それらの関係によって想定された「本質」とは別の「実存」である。私の実存は、なんら積極的な内容を「所有」しないという意味で「無」である。しかし、それこそが、こうした所与の諸関係に異議を唱えることを可能にする。シュティルナーがいう「唯一者」とはそれである。

★ 重要なのは、シュティルナーがあらゆる諸関係を括弧に入れて「この私」の絶対性を取り出したように、マルクスがいかなる意志、あるいは観念――とりわけ人間という観念――によっても消すことのできない関係の絶対性を取り出したということである。マルクスはその認識を『資本論』において貫いている。すなわち、諸個人を関係項に置かれた者としてのみ見る徹底的な視点(自然史的立場)において。

<柄谷行人;『トランスクリティーク』>





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