Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

アルバムだけが残った

2009-04-27 10:06:29 | 日記

今朝もネット巡回したが、なにも手応えのある記事も論説もない。

もう今日は、本を読んで書くことがあったら、書けばいいと思った。
最後にしばらく見てなかった“非国民通信”ブログを見たら<国を守れるそうですが(09/04/15>という記事があった。

これは産経新聞の<「日本は自分自身で国守れる」 石原知事が陸自練馬駐屯地で祝辞>という記事を扱ったものである。

その記事以下の通り;
《来賓の石原慎太郎都知事は祝辞で、北朝鮮のミサイル問題などに関連し、国連が「何の役にも立たない」と指摘。日本の高度な技術力が米国の戦争を支えているとした上で、「私たちは国連やアメリカを気にしなくとも自分自身でこの国を十分守れる」と持論を展開し、「任務に邁進(まいしん)していただきたい。国民はそれを熱願している。国民自身も体を張って、自分でこの国を守るという気持ちを必ず持っている」と隊員を激励した。》

非国民通信の記事の最後の部分は以下の通り;
しかしまぁ、「国民自身も体を張って、自分でこの国を守る」のだそうです。この手の人はどうしても「国民が」「国を」守るという発想が抜けないんですよね。「国が」「国民を」とはならないわけです。国民自身が犠牲を払ってでも国を守る、要するに「家族を犠牲にしてでも家を守る」発想だと誰かのブログに書いてあった記憶があります。仮に「イエ」が守られても、家族が犠牲になってはねぇ? イエが潰れても家族が無事ならまだ救いはありそうですが。ちなみに自衛隊の死因は「自殺」が最多とのこと。祝辞を聞かされた自衛隊も国より先に自分のみを守ることを考えた方が良さそうです。
(以上引用)


この記事の、
《要するに「家族を犠牲にしてでも家を守る」発想だと誰かのブログに書いてあった記憶があります。仮に「イエ」が守られても、家族が犠牲になってはねぇ? イエが潰れても家族が無事ならまだ救いはありそうですが》
に共感するね。


ぼくはDoblogがつぶれる直前の頃、ユーチューブで“岸辺のアルバム”という古いテレビドラマを見ていました。

そのドラマは、まさに、“イエが潰れても家族が無事”ということを描いていたのよ。

ぼく的に言うと、“家系”はつぶれても、その構成員としての個人は生き残る、という意味です。

ぼくは“国民が国を守る”などというのはまったくのナンセンスと思うが、“国が国民を守る”というのにも、近年疑問を感じている。

つまり、何から誰を守るのであろうか?
誰から誰を守るのであろうか?

“アルバムだけが残った”


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