☆自分を磨く時間が4年ある大学生と違い、原石にすぎない18歳にまで新卒での一発勝負を強いるのは酷ではないか。10代で先が見えてしまう国に、輝く未来があろうはずもない。国や自治体の音頭で敗者復活の仕組みがほしい▼むろん、一度や二度の失敗でふさぎ込むことはない。人生の残り時間が長いのは、それだけで大きな財産だ。くじけそうになったら、若さという星から夢という星に、まっすぐ、太い線を引き直そう。何度も、何度でも=昨日天声人語
☆埼玉県蕨市でも4歳児が衰弱死している。国文学者の中西進さんによれば、母を形容する古語「たらちね」の「たらち」とは満ち足りた乳、「ね」は確固不動のものに付ける言葉「根」であるという。東で、西で、確固不動のものが崩れる音を聴く◆世の中、歯車がどこか狂っている=昨日読売編集手帳
☆倉本聰さんのドラマシナリオ『北の国から』で主人公・五郎が語る。いまの農家は気の毒だ、と。どんなにうまい作物をつくっても、ありがとうを言ってもらえない。誰が食べているのか分からない◆〈だからな。おいらは小さくやるのさ。ありがとうって言葉の聞こえる範囲でな〉(理論社刊)=今日読売編集手帳
☆自然界などで、ささいな変化が重大な結果をもたらすことを「バタフライ効果」という。チョウの羽ばたきによる空気の震えが、巡り巡って地球の反対側で気象異変を引き起こす、との例えらしい▼嵐を呼ぶかどうかはさておき、チョウが飛ぶ様はどこか神秘的だ。昔は霊魂と結びつけて語られた。風に任せているようで、時に意思のようなものがのぞく。捕まりそうで、捕まらない。〈めちやくちやに手をふり蝶(ちょう)にふれんとす〉山口青邨(せいそん)=今日天声人語
さて以上の引用からぼくらは何を“知ることができる”か?
これは“疑問文”である。
《バタフライ効果》について“知った”であろうか?(疑問文)
《国や自治体の音頭での敗者復活の仕組み》について“知った”であろうか?(疑問文)
《東で、西で、確固不動のものが崩れる音》について“知った”であろうか?(疑問文)
《世の中、歯車がどこか狂っている》ことについて“知った”であろうか?(疑問文)
《‘ありがとう’という言葉》について“知った”であろうか?(疑問文)
ここにぼくが学生時代から翻訳刊行されている“シリーズ”がある。
白水社刊行の、<文庫クセジュ>である。
“文庫”を名乗っているが、これは新書版より横幅がやや広い。
現在でも大きな書店に行けば棚3段くらいは置いてあるかもしれない(新宿紀伊国屋書店はそうである)
新刊も出ている(現在最新刊は『哲学』である)
翻訳による“文庫クセジュ”も何十年も刊行されているうちに“体裁”が変わっている。
最初の頃はカヴァーがなかったと思う、その後カヴァーに“6色に分類されたギリシア神話の神々のシルエット”が印刷されたこともあった。
現在は、黄色っぽいカヴァーに筆記体の“que sais-je ? ”の文字が見える。
現在はなくなったが、昔の文庫クセジュには“日本の読者へ”という1951年10月の日付をもつ“監修者”の言葉が掲げられていた;
★ 1941年フランスに発足したこの文庫は、現在500冊を刊行しており、完成のあかつきには1000冊に達する予定である。《文庫クセジュ》は、知能に基礎的淘汰をくわえるための現代知識の焦点たらしめようという刊行者の意図によってはじめられた遠大な仕事である。
★ このような仕事をなぜフランスではじめるようになったのであろうか。その第一の理由は、フランスが百科全書の精神、いいかえればあらゆる人知を系統的に解明することをこころざす知的技術の誕生の地だからである。ディドロやダランベールの手になる『大百科全書』が刊行されはじめたのは1751年パリにおいてであった。この偉業は神学上の束縛から人間の精神を解放するにあずかって大きな力があったし、また1789年のフランス大革命のもっとも積極的な素因の一つともなったのであった。
★ しかし《文庫クセジュ》の生みの親たちは、自分たちのはじめた仕事がフランスおよびフランス語諸国以外でその真価を認められ受けいれられようとは夢にも考えなかった。ところが事実はその逆であった。
★ このたび、日本のような古い伝統につちかわれた文化国がこのフランス精神の発露を受けいれてくれることになったのをわれわれはとくにうれしく思っている。
(以上引用)
ぼくはこれまで<文庫クセジュ>をたくさん読んできたわけではない。
また、どの“新書シリーズ”でも同じだが、そこに収められた本がすべて良書なのでもない。
またこの<文庫クセジュ>は、翻訳モノであるので、その訳者の力量不足がみられる場合もあるだろう。
またぼくは、“フランス産ならなんでも良い”などというフランスかぶれではない。
日本の“新書”にも良いものは、ある。
ぼくはこれまで、何度も本の処分を行ってきたので、手元に残っていた<文庫クセジュ>は10冊程度しかなかった、最近、また買い始めた。
手元に残っていた“古いクセジュ”の1冊は、アンリ・ルフェーブルの『マルクス主義』(初版1948、改訂版翻訳1968)
すなわちこの翻訳クセジュは、<1968年の日本>で刊行された。
ぼくは当時大学生であったが、この本を終わりまで読んだかどうかの記憶はない。
《三つの世界観があり、三つしかない》
ルフェーブルは、この本の“序章”において、何度かこの言葉を力強く繰り返している。
それから半世紀近くの時間が流れた(世界にも、ぼくにも)
“ソ連崩壊”によって、嘲笑の的になった<マルクス主義>は、この世界不況と“格差社会”における新たなプロレタリアートの指針として蘇るであろうか?
文庫クセジュには、このような本(笑)ばかりがあるのではなかった。
吉田秀和翻訳の『音楽の歴史』と『音楽の形式』があった。
この2冊をぼくはほとんど読んでいない。
もっと新しい本では、『美術史入門』というのもある。
こういう本も、読んだら楽しいだろう。
『音楽の歴史』‘はしがき’にこうある;
《どんなものにせよ、芸術はすべて、それぞれの時代において、精神の同じ規律に従っているのです。》
《クセジュ?》
“私はなにを知っているか?”
知らなかったことを、ほんとうに知るまでは、自分が何を知らなかったかでさえ、知らないのである。
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