Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

沈黙も、また、言葉である

2009-09-14 10:56:29 | 日記

(下記ブログに関連して)

現在3冊の本を読んでいる;
* マーティン・ジェイ『力の場』
* 徳永恂『社会哲学の復権』
* 今福龍太『群島-世界論』

これらの本については、“すでに”引用したし、“昨夜も”引用した。
1冊の本を、規則正しく読まないぼくの、“ランダム”な(繰り返しさえある)引用を読まされる方々には、“その本”がどのような本であるかのイメージがつかみにくいかもしれない。
その場合は、ぜひ、“その本を”自ら読んでほしい。

まさに“断続的読書”というのは、ぼくの“習性”(リズム)である。
ジェイの『力の場』などは、もうずいぶん長い期間にわたり、少しずつ読んできた。
『群島-世界論』は、読みはじめてから、中断していた。

ある本を読み始めるという体験は、“異質な言葉=世界”に自身の肉体が入っていくことだ。
ぼくはいつでも、この“ショック”にスムースに乗ることができない。

小説であろうと思想書であろうと、その本に書かれていることは、“要約”できるようなことではない。
その“すじ”を語り、その論旨を箇条書きにできることなど、たかがしれている。
“そのすじを語り、その論旨を箇条書きにできる”ような本には読む価値はない。

もちろん、ある1冊の本が、“完璧である”こともない。
ぼくがそれまで読んで“評価できる”ひとの新しく読む本が、かならず満足できるわけでもない。
またぼくが“満足できない”とき、ぼくの“読み”が不十分であったことに、(あとで)気づくことも多い。

つまり“1冊の本”であろうと、読み終わることはできない。
まさに読み終わることができない本こそ、すぐれた本である。

それは、ぼくとは異質な世界の現前によって、ぼくに数々の“疑問”を提起する。
“疑問”と、“納得できない”ということは、ちがう。

“疑問”とは、ぼく自身に新たな探索を提示するもののことである。

今福龍太『群島-世界論』から“任意の”部分を引用したい;

★ 沈黙とともにさし出されたモノを受けとり、同じ強度ある沈黙とともに何かを返してゆくというこの繫がりは、大陸の攻撃的・搾取的な所有原理を背景とする喧騒にみちたコミュニケーションや市場経済が決して実現できないものだった。国家政治から社会組織の領土にまで浸透した大陸的所有原理とそれにもとづく契約体系は、共同体のあいだに柔らかな均衡をもたらしながら存在する理法を崩壊させ、その代わりに競合的な現実に裁定を下すための法律と司法制度を複雑に構築していった。だからこそ、贈与共同体にはたらく群島的な「放擲」の作法について考えることは、現代社会の根幹を支える所有原理の大陸性を、帰属から離れた関係性の中で生きる群島へとふたたび拓いてゆく。沈黙交易と贈与交換のコミュニケーションは、群島世界の人とモノのつながりを想像するための、特権的な探索領域なのである。



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