Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

広告で動かされる世界

2010-08-03 17:59:42 | 日記




ちょっと前に出た本でいったん読み終わった本だが、また読み返しているのは、西谷修と鵜飼哲と宇野邦一の鼎談(3人で話をすること)『アメリカ・宗教・戦争』(せりか書房2003)である。

この3人は、わりと信頼できるとぼくは思う。
この鼎談でも、あっと驚くようなことはないが、“まともなこと”が語られている。

それにしてもこの鼎談が行われたのは2002年であるが、もうすでに、“ブッシュのアメリカ”も“9・11”も“アフガン~イラク戦争”も“ビンラディン”も忘れ去られている。

ときどき“小泉の日本”の亡霊がうろつくのみである(笑)
“オバマのアメリカ”によって、この記憶喪失症も“演出~広告”されたのであった。
“政権交代”によって、わが国の“アメリカの戦争への加担”も忘れ去られたのであった(あ~あ)

そして<日米同盟強化>だけが、残った。



ぼくが、この本を読み返したのは、宇野邦一発言をチェックするためだったが、ここでは“アメリカ”についての西谷修と鵜飼哲の発言を引用する(鵜飼発言には、今朝ブログに書いたハーバーマスへの言及がある)


★ 西谷修発言;

(アメリカの論理=「自由のために戦う、それがアメリカのミッションだ」について)

今までだと、そういう論理がアメリカ国家の定礎に基づく姿勢として展開されてきたけれど、今回ではそれが、誰かにとっての確信であるか、あるいは真理であるかということがもう関係なくなって、あからさまな「広告」として打ち出されていることが問題ですね。9・11の後、シャーロット・ビアーズという広告業界の辣腕のエリートが国務次官になったけれど、ビアーズはビル崩壊現場を「グラウンド・ゼロ」と名付け、「まともな情報を上品に流すような広報ではだめで、人を動かすにはもっと感情に訴えなきゃいけない」といって、国務省のサイトに犠牲者や消防士たちの写真をばんばん流して、あからさまに煽情的なプロパガンダをやったんですね。だから政府が何を発表するにしても、「この石けんはよく落ちます」というのと同じで、事実を伝えるよりも、効果をねらってものを言うコマーシャルの言葉でしかなくなっている。さっき堕落の話が出たけど、チェ・ゲバラの頃と比べていちばん堕落したのは、政治の世界が、真実によってではなくて、広告で動かされるようになったということもある。メディアの役割も報道や情報提供じゃなくて、あからさまに情宣(注:情報宣伝)だから。政治の世界に、はもはや真実はいらないということになっている。


★ 鵜飼哲発言;

9・11に関して言えば、声明文が出ていない以上、かつての北ベトナムやキューバといった相手はもはやいないわけです。だから、ある意味で、ビンラディンが存在しているかどうかも疑わしい。(略)
ビンラディンが存在していると我々がかろうじて信じられるのは、「アルジェジーラ」経由の情報があるからであって、もし全部アメリカのメディアだったら、「ビンラディンはハリウッドの俳優じゃないの」ということにしかならないでしょう。そういう意味で、古典的な公共空間で自由な言論というハーバーマス的な理想論は、もう救いようがなく崩れてしまっている。このようなメディア環境でどういうふうに我々は判断していくのかと、憂愁や郷愁なしに問うべき時期になっている。







<追記;夜に>

しかし“広告で動かされる世界”という認識は、《政治の世界が、真実によってではなくて、広告で動かされるようになったということ》より<広い>のではないだろうか。

このことは、<政治>というもののレインジ(範囲)を、どうとるかに、かかっているが。

もし<政治>が公共的な場に限られるなら、そこには入らない(ことになる)“私的な世界”があることになる。

そして、そういう世界があるのなら、<広告>はまさに、その<世界>にも浸入している。






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