Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

大逆と愚者

2009-04-30 13:17:58 | 日記
ぼくは昨年9月のブログ(Doblog)に書いた;

★ぼくが長い時間をかけて今日読み終わった中上健次『紀州 木の国・根の国物語』(小学館文庫・中上健次選集版)には巻末に短いエッセイが二つ収録されている。

そのひとつ“私の中の日本人 大石誠之助”で、中上は同郷の佐藤春夫の詩を引用して以下のように書いている;

千九百十一年一月二十三日
大石誠之助は殺されたり。

げに厳粛なる多数者の規約を
裏切る者は殺さるべきかな。

死を賭して遊戯を思ひ、
民族の歴史を知らず、
日本人ならざる者
愚なる者は殺されたり。
(佐藤春夫:「愚者の死」後半略)

大石ドクトルの拘引、処刑は、町の人間に大きな衝撃だった。その当時の町の人間にとっては、大逆などという事はあってはならない事だった。マルクス主義も、無政府主義も、分からない。大それた事をした人がお上の手で引っぱられて行った。その人は、医療費を払えぬ貧乏人に、言葉にして「金がない」と言うには恥ずかしいだろうから、硝子窓を三回トントントンと叩いて合図しろ、と教え、そうすればただで貧乏人を診察した人だった。
私が、大逆事件の、大石誠之助を、歴史の人間ではなく生きた血の通った人間として思い描けるのは、そのトントントンと硝子窓を叩くエピソードによる。義父の母親、私から言えば義理の祖母が、そうやって硝子窓を叩いて、診察してもらった。そのドクトルが「愚者」なのである。
(以上引用)

こう中上健次が書いたのは1977年であった。
また大石誠之助ドクトルが処刑されたのは1911年のことであるという。

もちろん時代は変わった。
それなのになぜ、この<愚者>という言葉=存在が、いま、心を打つのだろうか。
(2008/09/28)


この“大逆と愚者”という“テーマ”が、ヒリヒリするように“生な”ものであることを、誰が“この現在”において感知するのか。


かつて四方田犬彦は書いた;

★ 服喪2
ある作家の書き遺したものを読むことは、彼が眺めた風景を眺めたり、彼が聴いた音楽をもう一度聴いてみることと、どのように違う行為なのだろうか。ソウルの市場の喧騒。熊野の夜の闇。羽田飛行場。アルバート・アイラー。サムルノリ。死者について語ることが必要な時というものがある。だが、それはいつまでも続かない。あるとき、もはや死者に向き合ってではなく、死者の傍らに並びながら語ることが求められることになるのだ。
<四方田犬彦『貴種と転生 中上健次』“補遺 中上健次の生涯”>


《あるとき、もはや死者に向き合ってではなく、死者の傍らに並びながら語ることが求められることになるのだ》


だが、言葉は拡散していく。

マスメディアや“有名人”の言葉のみではない。

自分の言葉が拡散していく。

ぼくは日々、意識的であろうと、無意識的であろうと、おびただしい言葉(映像)を読んでいる。
ぼくが意識的に読む“本”の言葉だけではなく、“ネット上の言葉”、“電車の中吊りの言葉”、街を歩くときに目にする言葉を、“読んで”いるのだ。
また、ケータイ画面の言葉を読む人を読んでいるのだ。

ぼくはこのなかの、多くの言葉にがっかりし、少数の言葉にたちどまる。

“言葉の過剰”?まさに。

ぼくたちが、生涯に必要とする言葉は、きわめて少数(少量)なのかもしれないのだ。
しかし、“みずから”ぼくは、言葉を“量産”している。
なんのために?

それは、自分の情感-思考の“整理”のためだろうか、それとも、”だれか“、未知のひとへの”伝達“のためだろうか。
しかし、“けっしてぼくの言葉は伝わらないだろう”という“確信”が、日に日に増大するのは、なぜだろうか。
もしその言葉が“真摯”なら、その言葉は、“現在”において伝わらない。

言葉は、いつも遅れて到達するのだ。
まさに中上健次の言葉が、かれの死後、だいぶ遅れてぼくに到達したように。

ぼくたちは、かつて大江健三郎がタイトルとしたように、“遅れてきた青年”なのだ。
遅れてきた青年は、浦島太郎のように、老年である自分を発見する。

だから、まだ“若い”ひとたちよ。
“死者の傍らに並びながら”、語れ。
きみの“父”も“母”も不死ではないのだから。
もちろん、きみ自身も。

きみが“愚者”であることを、決してわすれるな。



*写真は妻の友人タエさんの作品です。

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