Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

文学

2011-07-09 09:04:10 | 日記


藤原新也が6月に書いたブログを読んだ、こう言っている;

★ だが今、この切迫した地獄の中でうめき苦しむ者たちの前で、つまり毒矢の刺さった老人や子供の前で、政治家、評論家、作家、はたまたコメンテーターと、あまりにわかった風な空論がかまびすしい。

とりあえず分析や論議の前に無言のまま駆けつけ、一刻も早く体に刺さった毒矢を抜くことが先決だ。

ひとりの人がひとりの人の体に刺さった毒矢を抜くことしか出来ないかも知れない。

大きな状況は変えることは出来ないのかも知れない。

だがその無記の行為は百万の高邁な論理に勝る。

(引用)


この発言のタイトルは、<村上春樹の空論>と題されており、村上春樹のスペインでのスピーチに関与しているが、もちろん、藤原新也は村上春樹のみを批判したのではない。

この発言の最後に藤原新也は書いた;

《文学している場合ではないのだ。 》


これに対して読者から村上を擁護し、藤原発言を批判するコメントがきた。
藤原新也はそれに答えた;

★ 私たち表現者がその様子を伝えるものまた二次情報であるわけですが、今回の件に関しては、加工された二次情報をもとにそれに触れて書いたりしゃべったりする従来のやり方は通用しないと思っております。
つまり他者に何かを伝える立場にある表現者は一般の人々と共有している同じ情報をもとに発言をするのではなく、自分の眼で一目でも見て体感するところからはじめてほしいというのが今回の件に関する私の個人的な考え方です。

★ し かしまたあるものを語るのにその現場に行かなくてはならないという現場主義にも落とし穴があること、そしてそれを他者に強制すべきではないことも表現者と して承知しているつもりですが、今回ばかりは他者に何かを伝える表現者たるもの言葉のリアリティを取得するためには現場の空気を一回でも吸う必要があるというのが私の立場です。

★ また文学している場合ではない、という言葉は私自身も物書きのはしくれとして「文学」そのものを否定しているのではなく、こういう局面で”文学的言葉”に淫している場合ではない、の意です。


ぼくは上記の藤原新也が言っていることが、“わかる”と思う。

またぼくはこのブログで、村上春樹のバルセロナでの発言にも賛成した(近年の春樹作品は評価しないにもかかわらず)

矛盾だろうか?
たしかに“矛盾”は、ある。

逆に藤原発言に疑問を呈することもできる。

《ひとりの人がひとりの人の体に刺さった毒矢を抜くこと》

は、どのようにして<可能>なのか?


ぼくが、この震災・原発事故以後に、自分が変わったと思うのは、“正しい発言”というものが、みな胡散臭くなったということだ。


突然、“有名人”を持ち出して権威付けしたいのではないが、ぼくは昨夜『サルトルの世紀』という本を読んでいた。

“サルトル”というひとは、終戦~戦後のある時代、“圧倒的な知識人”として君臨した。

しかし、彼が生きていたときから、サルトルに対する“罵詈雑言”は、世界中に渦巻いていたのだ。
この本の著者ベルナール=アンリ・レヴィは、その“罵詈雑言”を列挙している。

たとえば、
《もし本というものが臭うなら、(サルトルの本を読むときは)鼻を塞ぐ必要があるだろう》
《人生の問題をもっぱら糞便についてだけ考え、実存をどぶと肥だめレベルにまでひきずり降ろすというのが、まさに『自由への道』におけるサルトルの意図である》


最近、岩波文庫で『自由への道』が刊行されたので、興味ある方は、確認したほうがよい(笑)


ベルナール=アンリ・レヴィは、サルトルを“世紀人”と評価し、《サルトルに公正な裁判を》と呼びかける。


結局、サルトルが“体現した”20世紀とは、いかなる時代だったか。
それは、“乗り越えられた”か?

サルトルが《全体的知識人(最後の)》と呼ばれるとき、その“全体性”とはなにか。

なによりも、《サルトルの自由》、その<自由>とはなにか。


もちろん、ぼくには、なんら結論があるわけではない(サルトルの著書を全部緻密に読んでもいない)

ただぼくは、このベルナール=アンリ・レヴィの本を読んでいて、ある種の“希望”(の予感)を思い出した。

それは、“矛盾することの自由”とでも言うべきことだ。

自分が他者からどう見られるか、ということに自分の行為と思考の基準を置かないことの、自由である。

もちろん、サルトルの生き方も、思想も、ハチャメチャだった、という“評価”も成り立つのである。


けれども、有名人であれ、無名人であれ、才能あるひとも、無為のひとも、すべての人に生きる権利は、あるはずである。

その生(人生)は、はたから、“その整合性が美しい”などと鑑賞されるものではないにちがいない。

あるひとの一生の軌跡は、数式のようには美しくはない。






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