どうも自分の“意見”を書くのがいやになった。
今朝起きて、みっつの文章の批判を書きかけたのだが、いやになってボツにする。
三つの文章とは以下のみっつである;
① 天木直人最新ブログ;“つまらない国会審議を少しでも面白く聞くために”
② オバマノーベル平和賞に関するノーベル賞委員会(ノルウェー)のヤーグラン委員長へのインタビュー(アサヒコム)
③ 内田樹最新ブログ;“やっと病気になれた”
この最後の内田樹ブログの批判を書いていて、そもそも彼のこのブログの“論旨”が矛盾している、というかメチャクチャなことに気づいた。
メチャクチャな文章を<批判>することはできない。
つまり、せめて内田樹が“一貫した主張”をしているなら、それを批判することができる。
しかし内田のブログは、(ブログとしては長いが)、ただひとつのブログとしても論理的一貫性を維持していない。
そこにあるのはレトリックのみである。
“ああーも言えるし、コーも言える”のである。
こういう3流奇術師が“売れる”のである。
ごちゃごちゃ言っているが結局内田の“世界観”は以下のごとし;
《偽善によって貧者にパンを与える人は、真の善意に基づかない行為は不道徳だといってパンを与えない人より、飢えた人間にとってはありがたい存在である》
《社会的流動性が高く、人々が忙しく階層を向上し下降し、一代のうちに富貴の身となったり貧窮に沈んだり、株価ひとつで栄華を謳歌したり不遇を託ったりしている時代には「友愛」なんて言葉には何のリアリティもない。
それよりは誰もが「自己利益の追求」に忙しく、その方がたぶん結果的にはてばやく社会的フェアネスが実現する》
《でも、それは「そういうこと」が絶対的に人間にとって「よいこと」だからそう主張したのではない。
たまたまいまの社会的条件のもとでは、そうした方が相対的に「生き延びやすい」という計量的な判断でそう言っているだけである》
こういうのを、俺は、“おばさんの世界観(世界認識)”と呼ぶ。
こういう世界観は、<友愛>世界観の裏返しである。
こういう認識を、“リアルだ!”と感心する、愚鈍な精神(魂ぬきの人間)というのが、多数を占めているから生き難いのだ。
というような“批判”をするのが嫌になったのである(笑)
つまらない文章(発言)を批判しているなら、その時間で、よい文章を読んだほうがよい。
もっと<上品な>文章を、である。
まずこの<上品な>という言葉を理解していただきたい。
たとえば、以下のように書くと、“また誤解される”ことが、俺には“分かってしまった”のである;
俺はキリスト教徒ではないが、俺はキリスト教者に批判的だが、“ひとはパンのみにて生きるにあらず”。
*写真は、「灰とダイヤモンド」
上記ブログを書き終わり(またしても自分に不満足で)、机の上の本を開くとこうあった;
★ 「住居なき者さえ棲まうことのできる時間」(グラシアン『神託便覧』1647)が、背後にどんな住まいも残してこなかった旅人には、館となる。3週間というもの、波の音に充たされたこの館の広間の数々が、北方に向かって並び連なっていた。それらの広間の壁に鴎や町々が、花たちが、家具や彫像が立ち現われ、その窓からは、昼も夜も、光が射し込んできた。
<ヴァルター・ベンヤミン“北方の海”-『都市の肖像』(ちくま学芸文庫ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅1997)
昨夜は、仕事で疲れ、以下の文章を何度も読んだ;
★ 正午頃になると、影たちはわずかに、事物の足元にへばりついた黒く鋭い縁取りとなっていて、音もなく不意に、それぞれの巣穴のなかへ、それぞれの秘密のなかへ引き籠もる手筈を整えている。するとそこには、押しひしめき身をこごめて溢れんばかりに、ツァラトゥストラの時間(とき)がやってきているのだ、<生の真昼>の思索者、<夏の庭>の思索者の時間が。というのも、認識は太陽と同じく、その軌道の頂点において事物を最も厳密に象る(かたどる)のだから。
<ヴァルター・ベンヤミン“短い影”(ちくま学芸文庫ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅1997)
<翌朝追記>
昨日のこのブログにぼくはこう書いた;
こういう認識を、“リアルだ!”と感心する、愚鈍な精神(魂ぬきの人間)というのが、多数を占めているから生き難いのだ。
たとえば、以下のように書くと、“また誤解される”ことが、俺には“分かってしまった”のである;
俺はキリスト教徒ではないが、“ひとはパンのみにて生きるにあらず”。
この場合の<魂>について、ぼくはいかなる“宗教性”(オカルト)も意味していない。
ぼくが<魂>という言葉にこめている“意味”は先日の“この身体”ブログに引用した中上健次の<魂>の意味に近い:
★日本を統(すめら)ぐには空にある日ひとつあればよいが、この闇の国に統ぐ物は何もない。事物が氾濫する。人は事物と等価である。そして魂を持つ。何人もの人に会い、私は物である人間がなぜ魂を持ってしまうのか、そのことが不思議に思えたのだった。魂とは人のかかる病であるが、人は天地創造の昔からこの病にかかりつづけている。
<中上健次 『紀州』>
今朝起きて、みっつの文章の批判を書きかけたのだが、いやになってボツにする。
三つの文章とは以下のみっつである;
① 天木直人最新ブログ;“つまらない国会審議を少しでも面白く聞くために”
② オバマノーベル平和賞に関するノーベル賞委員会(ノルウェー)のヤーグラン委員長へのインタビュー(アサヒコム)
③ 内田樹最新ブログ;“やっと病気になれた”
この最後の内田樹ブログの批判を書いていて、そもそも彼のこのブログの“論旨”が矛盾している、というかメチャクチャなことに気づいた。
メチャクチャな文章を<批判>することはできない。
つまり、せめて内田樹が“一貫した主張”をしているなら、それを批判することができる。
しかし内田のブログは、(ブログとしては長いが)、ただひとつのブログとしても論理的一貫性を維持していない。
そこにあるのはレトリックのみである。
“ああーも言えるし、コーも言える”のである。
こういう3流奇術師が“売れる”のである。
ごちゃごちゃ言っているが結局内田の“世界観”は以下のごとし;
《偽善によって貧者にパンを与える人は、真の善意に基づかない行為は不道徳だといってパンを与えない人より、飢えた人間にとってはありがたい存在である》
《社会的流動性が高く、人々が忙しく階層を向上し下降し、一代のうちに富貴の身となったり貧窮に沈んだり、株価ひとつで栄華を謳歌したり不遇を託ったりしている時代には「友愛」なんて言葉には何のリアリティもない。
それよりは誰もが「自己利益の追求」に忙しく、その方がたぶん結果的にはてばやく社会的フェアネスが実現する》
《でも、それは「そういうこと」が絶対的に人間にとって「よいこと」だからそう主張したのではない。
たまたまいまの社会的条件のもとでは、そうした方が相対的に「生き延びやすい」という計量的な判断でそう言っているだけである》
こういうのを、俺は、“おばさんの世界観(世界認識)”と呼ぶ。
こういう世界観は、<友愛>世界観の裏返しである。
こういう認識を、“リアルだ!”と感心する、愚鈍な精神(魂ぬきの人間)というのが、多数を占めているから生き難いのだ。
というような“批判”をするのが嫌になったのである(笑)
つまらない文章(発言)を批判しているなら、その時間で、よい文章を読んだほうがよい。
もっと<上品な>文章を、である。
まずこの<上品な>という言葉を理解していただきたい。
たとえば、以下のように書くと、“また誤解される”ことが、俺には“分かってしまった”のである;
俺はキリスト教徒ではないが、俺はキリスト教者に批判的だが、“ひとはパンのみにて生きるにあらず”。
*写真は、「灰とダイヤモンド」
上記ブログを書き終わり(またしても自分に不満足で)、机の上の本を開くとこうあった;
★ 「住居なき者さえ棲まうことのできる時間」(グラシアン『神託便覧』1647)が、背後にどんな住まいも残してこなかった旅人には、館となる。3週間というもの、波の音に充たされたこの館の広間の数々が、北方に向かって並び連なっていた。それらの広間の壁に鴎や町々が、花たちが、家具や彫像が立ち現われ、その窓からは、昼も夜も、光が射し込んできた。
<ヴァルター・ベンヤミン“北方の海”-『都市の肖像』(ちくま学芸文庫ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅1997)
昨夜は、仕事で疲れ、以下の文章を何度も読んだ;
★ 正午頃になると、影たちはわずかに、事物の足元にへばりついた黒く鋭い縁取りとなっていて、音もなく不意に、それぞれの巣穴のなかへ、それぞれの秘密のなかへ引き籠もる手筈を整えている。するとそこには、押しひしめき身をこごめて溢れんばかりに、ツァラトゥストラの時間(とき)がやってきているのだ、<生の真昼>の思索者、<夏の庭>の思索者の時間が。というのも、認識は太陽と同じく、その軌道の頂点において事物を最も厳密に象る(かたどる)のだから。
<ヴァルター・ベンヤミン“短い影”(ちくま学芸文庫ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅1997)
<翌朝追記>
昨日のこのブログにぼくはこう書いた;
こういう認識を、“リアルだ!”と感心する、愚鈍な精神(魂ぬきの人間)というのが、多数を占めているから生き難いのだ。
たとえば、以下のように書くと、“また誤解される”ことが、俺には“分かってしまった”のである;
俺はキリスト教徒ではないが、“ひとはパンのみにて生きるにあらず”。
この場合の<魂>について、ぼくはいかなる“宗教性”(オカルト)も意味していない。
ぼくが<魂>という言葉にこめている“意味”は先日の“この身体”ブログに引用した中上健次の<魂>の意味に近い:
★日本を統(すめら)ぐには空にある日ひとつあればよいが、この闇の国に統ぐ物は何もない。事物が氾濫する。人は事物と等価である。そして魂を持つ。何人もの人に会い、私は物である人間がなぜ魂を持ってしまうのか、そのことが不思議に思えたのだった。魂とは人のかかる病であるが、人は天地創造の昔からこの病にかかりつづけている。
<中上健次 『紀州』>
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