たとえば、このぼくのブログには毎日、100人以上、200人以下の“訪問者”がいる。
ぼくには、書かない日もあり、日に数件のブログを出すこともある。
だから“アクセス数”の変動は激しい。
しかし最低100人は、ぼくが書いても書かなくても、“訪問”してくれている。
ありがたいことである。
しかし(率直に言って)、ぼくにはまったく“彼ら”の顔が見えない。
また逆に、“ぼくの訪問者”は固定してしまっているのではないかと恐れる。
極端に言えば、このぼくのブログを、“現役の”女子大学生が読んでいることを、ぼくは想像できない(つまりぼくがいちばん読んでほしい“対象に”だ;笑)
まじめに言えば、ぼくがこのブログをいちばん読んでほしいのは、(前にも書いたが)、中高生である。
しかし、(まさに)、“彼ら”が読んでいるとは、思えない。
もちろんこれは、“ぼく”の力不足なのだ。
これを思うとき、自分がブログを書き続けていることの“無意味”を思う。
タイトルに掲げた<あるひとを知らなければならない>の“あるひと”とは、ぼく=warmgunのことではない。
ぼくはそれほど図々しくはない。
<あるひと>があなたの恋人であっても、配偶者であっても、友人であっても、よい。
だが、ぼくがここで言いたいのは、“ある作家や思想家であなたにひっかかったひとをフォローせよ“、ということだ。
“あるひと”が一人である必要はない。
あなたに余力があるなら、同時に“複数”をフォローせよ。
あるいは、まずひとりをフォローし、次にもうひとりをフォローせよ。
つまりこの過程(プロセス)は、<あなたの生涯>をつらぬく。
たしかに“選択”(誰を選ぶか?)は重要である。
もし“選択を誤った”と思ったら、別の人に変更せよ。
そして、“選択を誤ったと思った人”が、また気にかかったら、戻ればよいのだ。
あなたが、小林秀雄、吉本隆明、見田宗介、柄谷行人、辺見庸のような“旧世代”から始めるのも、よい。
あるいはその弟子たち、宮台真司、大澤真幸、東浩紀からはじめてもよい。
あるいはもっとマイナーひと宇野邦一や立岩真也のようなひとに注目するなら、ぼくはうれしい。
あるいは、そういう評論家や社会学者ではないひと、たとえば“作家”でも、よい。
ぼく自身、こういうことを書く気になったのは、大江健三郎『水死』を読み始めたからである。
『さようなら、私の本よ!』の“文庫版のために”(2008年冬)“で大江が言っているのは、《新しい読者(それは日本人の読者とはかぎらない)のために(とともに)、自分の生涯の”本“を読み返す》ということである。
“自分の本”を持つ人は、自分の本を読み返す。
しかし“自分の本”を持たない多くのわれわれは、<あるひと>の本を読み続けるのである。
上記に“日本人”の名のみをだしたのは、わかりやすくするためである。
“日本人”が、デュラスやル・クレジオを読み続けてもよいのである。
たしかに“マクロな把握”も必要である。
ぼくはそれを<思想史>として提起している。
しかしそういう<思想史>(あらゆる考える人の歴史)を、ささえ、それに血と肉をあたえるのは、<あるひと>の生涯にわたるジグザグの矛盾にみちた行程(プロセス)である。
それは、結局、私の生である。
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