Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

引用;歌のように

2010-03-17 14:40:44 | 日記


★ しかしながら彼の哲学の拒みがたさは、その計画的に道を反れていくところにあるのであって、彼にあながち疎遠ではなかった魔術的な効果にあるのでも、ああした配置(コンステラツィオーン)のなかへの主体の単純な没落としての《客観性》にあるわけでもない。むしろそれは、精神を部門分けした場合には芸術の分野に割り当てられているが、しかし、それは理論に姿をかえ、仮象を断念することで比類ない品位をおびるにいたっている特徴であるところの、あの幸福の約束からきているのだ。

★ ベンヤミンが言ったり書いたりしているものには、メルヒェンや子どもの本にある約束を恥ずべきものとして成熟がはねつけるかわりに、そうした約束の現実の成就がその認識からさえ読み取れるといったほどに、彼の思考がそういったものを字義どおりに受け取っているような、そんなおももちがある。

★ 彼の哲学的な地勢図には、あきらめは根底からしりぞけられている。だれであれ彼に感応する者は、閉ざされたドアの隙間からクリスマスツリーの光を覗いている子どものような気にさせられる。しかしこの光の約束するものは同時にまた理性の約束としての真理そのものであり、けっして真理の無力な残照などではなかった。ベンヤミンの思考が無からの創造ではなかったとすれば、あり余るものからの贈り物だったといえるだろう。順応や自己保存といった態度が快楽――そこでは感覚と精神が交差しあっている――において禁じているところのすべてを、彼の思考はまるごと請けだそうとした。

★ そのプルースト論で彼は自分と親縁性のあるこの作家のモチーフを幸福への欲求と規定したが、『花咲く乙女たちの陰に』と『ゲルマント家の方』の最も完全なドイツ語訳2冊をわれわれにめぐむことになった彼の情熱の源泉をそこに見たとしても、あやまりではあるまい。しかしながらプルーストにあってはその精神の喫水線の深さを、死とひきかえに完成させた『失われた時を求めて』という幻滅の長編小説ののしかかってくる重みがもたらしているとしたら、ベンヤミンにあって拒まれながらも示しているその幸福への忠誠は、これまでの哲学の歴史がその雲ひとつない真昼のユートピアについての証言をしたことがなかったのと同じように、これまでの哲学の歴史がかつて証言したことのないような、そのような悲しみによって贖われて(あがなわれて)いる。

<アドルノ;“ベンヤミンの特徴を描く”―『プリズメン』(ちくま学芸文庫1996)





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