まずタイトルにかかげた<奥行き(おくゆき)>という言葉を電子辞書広辞苑で引いてみる;
① 家屋や地面などの、表から奥までの距離
② 比喩的に、人柄や思慮の奥深さ
すなわち①は、物理的な意味である、それは“ある距離”を意味する。
それは、“客観的に”測れる距離である。
問題は、②である。
すなわち②の“意味”では、その“距離”は、“比喩”として、“奥深さ”となる。
それは、客観的に測れない。
“あのひとは<奥行き>のある話をする”と誰かが言ったところで、その“奥行き”を客観的に“測定する”規準はないからである。
すなわち、あるひとにとって“奥行きのある話”も、別のひとにとっては、たんなる“主観性”でしかない。
あるいは、ちっとも“奥行きのない話”を、“奥行きのある話だなー”と感心してみせることもできる。
この②の“比喩としての奥行き”というのは、ある“距離”のことであるだけでなく、“単純ではないこと”でもあるようである。
たとえば、《日米同盟は抑止力である》という言明は、単純である。
もし“現実に” 、《日米同盟が抑止力である》という命題が、<事実>であっても。
これに対して、《日米同盟は抑止力ではない》という“論証”もありえる。
あるいは、“抑止力”となっているか否かの論議以前に(と共に)、<日米同盟>は“正しいのか?”という論議も可能である。
その場合は、その<日米同盟>の歴史的経緯と、その“同盟の”具体的<事実>と、その“同盟の”正しさが問われる。
しかし<現実>に行われている“論議”は次ぎのよーなことではないか。
①“実は”日米同盟の“不正義”は分っている、“しかし、現実に”、北朝鮮や“テロ”の脅威から日本国を“守る”必用がある。
② “日本国を守る”ということの“意味”は、必ずしも北朝鮮や中国etc.が日本国を“現実に”攻めてくることを意味しない(そういう“可能性”もあるが)
そうではなく、北朝鮮らが“武力によって恫喝する”ことを、国際政治の“かけひき”としているのだから、<日米同盟も>その“かけひき”への対抗策である。
③ また<日米同盟>は、たんなる“軍事同盟”ではなく、それは、米国との“経済同盟”であるのであって、ようするに、米国と“なかよく”していなければ、日本国の経済が立ち行かない。
以上である(笑)
すなわち、現在<日米同盟>を支持する方々にも、ごたいそうな根拠は、あるのである。
たぶん彼らはこれを、“現実的”という。
ゆえに、ここで問題になるのは、<何が現実的であるのか?>ということ<自体>である。
ぼくが“奥行き”という言葉からこのブログを始めたことを想起してほしい。
ぼくは、その“奥行き”という言葉の“反対”として、“単純”ということを提起した。
しかし、この“単純でない奥行き”というのは、なにかわけのわからない“複雑さ”とか、人生のキャリアによって蓄積される“洞察力”のよーなものでは、ない。
逆である(笑)
それは、“基礎baseから考える力”である。
それを<哲学>という必要は、ない。
もし哲学が、この人生の<現実>に無関係の“形而上学”・“観念論”でしかないなら。
これまでの<哲学>とその<解釈>に、おおいにこの“傾向”があるのは、“事実”である。
これに対して、<自然科学>や<社会科学>に、“実証的方法”があるのなら、おおいに“これ”を使用すべきだ。
ただ<哲学>を“使う”ことは、現在でも可能なのだ。
たとえば“カント”である。
なんども書いているように、ぼくは、(自慢ではないが)、カントの著書の“翻訳書”さえ読み得ていない、“解説書”や柄谷行人による“応用”を読んでいるだけだ。
しかし、そして、<超越論的>というような<概念>がやっとわかりかけてきた。
<超越論的>というのは、ある認識や考え方の“態度”であり、“方法”である。
だから“カントから学ぶ”ことがあるなら、それは“カントが述べたことの結論”ではないのである。
カントがいかに考えたかの“思考の過程”としての、<方法>である。
もちろん“これ”は、カントに限らない。
“ヘーゲル”にも、“マルクス”にも、“ニーチェ”にも、“フロイト”にも、“ベンヤミン”にも、“フーコー”にも、“ドゥルーズ”にも、“サイード”にも、“アガンベン”にも、学ぶことはあるのである。
(“ビュトール”にも、 “デュラス”にも、“ル・クレジオ”にも、“ギュンター・グラス”にも、“大江健三郎”にも、“中上健次”にもある)
もちろんぼくは、これら思想家(感じ・考える人)の“解説書すら”読み得ていない。
ある解説書を読み、“やっとわかった”とおもったことも、時間がたつと、もはや定かではない。
前にブログにも引用・コメントした“解説書”(黒崎政男“カント『純粋理性批判』入門”)で、自分が“感心した所”を“探す”(笑)
たとえば;
★ つまり、素朴にありのままを認識しようとすれば、それは主観的なものとなり、逆に、世界は主観による構成物だと考えることで、初めて客観的認識が成立する、というパラドキシカルな主張こそ、『純粋理性批判』の根源的テーマなのである、と。
私が私であり続ける限りこの世は全て
私のものと言うことですか??
hiro_t
そういうことではないと思います。