Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
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多声;ポリフォニー

2010-03-24 15:36:33 | 日記


★ カウスによればドストエフスキーの世界は、資本主義の精神の純粋で完璧な表現である。
(……)
生の原子の一つ一つの中で、資本主義世界および資本主義的意識の、矛盾を含んだ単一性の原理が振動しており、何ものも孤立の内に安らぐことを許さず、同時に何事も解決しないのである。この形成途上の世界の精神こそが、ドストエフスキーの創作の中にきわめて完全な表現を見出したのだ。

★ かりにポリフォニー小説の構築を可能ならしめている芸術外の原因や要因を問題とするとしても、主観的な要因は、それがいかに深刻なものであれ、検討の対象とするにはもっともふさわしくないものである。もしドストエフスキーにとって多次元性や矛盾性が単なる個人の生活の事実として、すなわち自分のであれ他人のであれ精神の多次元性や矛盾性として与えられ、解釈されていたのだとしたら、ドストエフスキーはロマン主義者であって、実際にヘーゲル的な考えに見合った人間精神の矛盾した形成に関するモノローグ的小説を書いたことであろう。しかし実際は、ドストエフスキーが多次元性や矛盾性を発見し、理解することができたのは、精神においてではなく、客観的で社会的な世界においてなのである。この社会的な世界においては、複数のレベルとはそれぞれ何らかの段階を示すのではなく、対立し合う複数の人間集団を示すのであり、それぞれの間の矛盾した関係とは、人格がたどる上昇・下降の道程ではなく、社会の状況を表しているのである。つまり社会的現実の多次元性と矛盾性が、時代の客観的な事実として提示されているのだ。

★ 時代そのものがポリフォニー小説を可能にしたのである。ドストエフスキー個人も、自らの時代の矛盾をはらんだ多元的世界に、主観的に関与していた。彼は次々と所属集団を変えていったが、その意味で一つの客観的社会生活の中に併存する複数のレベルとは、彼個人にとってみればその人生の道程の、そしてその精神の成長の各段階ではあった。こうした個人的経験の意味は深いが、しかしドストエフスキーは自らの創作において、個人的経験に直接的・モノローグ的な表現を与えたわけではない。そのような経験は彼が矛盾の認識を深めることを助けただけに過ぎない。その矛盾とは単一の意識の中における様々なイデエの間にではなく、人間同士の間に強度に展開された形で同時存在している諸矛盾であった。結局時代の客観的な諸矛盾は、ドストエフスキーの精神史における個人的体験の平面においてではなく、同時的に共存する諸力間の矛盾葛藤に対する客観的なヴィジョン(確かにそれは個人的経験によって深められたヴィジョンであるが)の平面において、彼の創作を規定したのである。

<バフチン:『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫1995)>





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