Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

哲学は役に立たない

2010-07-30 22:31:39 | 日記

哲学史や、哲学者~思想家の概説書ばかり読んでいると、ときどき“哲学”がいやになる。

やはり“オリジナル”を読もうとしても、仏語でも独語でも哲学を読む能力はなく、“翻訳”で読むっきゃない。

いちばん読めそうなニーチェとやらを(その翻訳書を)読みはじめると、やたら“!”(びっくりマーク)が出てくる(笑)、こういうのは、(実は)、ぼくの趣味に合わない。

ベンヤミンなら“読めそう”であり、実際読んで感心するのだが、どうしても彼の“ユダヤ神秘主義”に‘ひっかかる’、ぼくの辞書には、”メシア“とか”メシア的“という言葉がない。

20世紀最大の哲学者と呼ばれる(こともある)ハイデガーにいたっては、“哲学と処世術”は関係ないと言われても、彼が“ヒットラーの大学総長”だったことを忘れるのは無理である。


ああ、哲学とは何か!
なんで、この哲学者たちは、こんなにも面倒なことを、考え、書き続けてきたのか!

そのときこそ、いつも思い出される名がある;メルロ=ポンティである。

加賀野井秀一によるわりと最近出たメルロ=ポンティについての本がある、その“序”から引用する;

★ もう30年以上も昔になるだろうか。とある昼下がり、私は三鷹のICUキャンパスで森有正さんのオルガン演奏を聴き、帰路、タクシーに同乗させていただいたことがある。この時、私の内では、にわかに悪癖が鎌首をもたげ、当時、誰彼の見さかいなく発していた質問をせずにはいられなくなった。
「森先生、メルロ=ポンティのこと、どう思われます?」
すると森さんは破顔一笑。
「いいですね、あの人のものは…。あの人のものは、何と言うか、こう、私たちの心を開いてくれる…。」
そんな答えが返ってきたのだ。これが私にとっては、その笑顔とともに、森さんとの最良にしてただ一度の思い出となっている。

★ 「私はこうしたささいな事柄を思い出すのが好きだ。それらは何も証明しないのだが、人生のひとこまではあるからだ」(『シーニュ』1)と独りごちて、ああこれもまたメルロの語り口だったな、と、我ながら苦笑してしまう。(略)「あの人のものは、私たちの心を開いてくれる…」、森さんのこの言葉によって、私たちはメルロ=ポンティの魅力の源泉を、まずはおおざっぱに包囲しておくことができるだろう。

<加賀野井秀一『メルロ=ポンティ 触発する思想』(白水社2009)>


この本の“序”からもうひとつメルロ=ポンティの言葉を引用しよう;

★ 事物そのものへとたち帰るとは、認識がいつもそれについて語っているあの認識以前の世界へとたち帰ることであって、一切の科学的規定は、この世界にたいしては抽象的・記号的・従属的でしかなく、それはあたかも、森とか草原とか川とかがどういうものであるかをわれわれにはじめて教えてくれた風景にたいして、地理学がそうであるのとおなじことである。

<『知覚の現象学』序文>




どうでもいい”エピソード”もひとつ。

メルロ=ポンティは、1927年6月に受けた学士号取得のための「一般哲学」の試験で3位だった。

その時の1位はシモーヌ・ヴェイユ、2位がボーヴォワールだったそうである。

昔から女性は、”優秀”だったのである(笑)






*このブログの写真は、メルロ=ポンティの後ろ姿では、ありません。






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