丸山健二がツイッターをはじめたことを知った。
いまはじめて見た。
最初を読んで、良いと思った。
まだ全部読んでないが、はりつける。
ちょっと年上だが、丸山健二は、同世代であった(死んだ中上健次とともに)
順番は下から上へ;
maruyamakenji 丸山健二
人をとことん駄目にしてしまう原因は、試練の数の少なさだ。あるいは、試練に挑もうとしない逃避癖だ。そして、その場凌ぎの癒しや、臭い感動のあれこれがほとんど利益目当てで氾濫する社会に取り込まれ、本物の慰安や本物の感激の味をすっかり忘れ、いや、一度も味わうことなく生きてきたせいだ。
3時間前
maruyamakenji 丸山健二
自己の実力や能力というものを、それまでの経験や体験によってのみ推し量ってはならない。つまり、おのれをそう簡単に見くびってはならない。どん底の境遇に投げ込まれたことがなかったせいで、ただそれだけの理由で、安閑として暮らしてきた自分を弱いと勝手に決めつけているだけのことなのだ。
22時間前
maruyamakenji 丸山健二
予想外の悲劇に見舞われたことで孤立感が深まり、他者の力に頼らざるを得ない状況に屈辱を覚えているうちに、それまではあれほど前向きだったおのれにすっかり自信が持てなくなり、もしかするとわが人生は哀れな結末に終わるのではないかという不安に苛まれる段になって初めて底力が発揮される。
6月9日
maruyamakenji 丸山健二
神仏という名の、あり得べからざる存在に精神を麻痺させられてはならない。生命を超えた生命を持つと言われているかれらが人間を造ったのではない。人間の弱さと狡さがかれらを生み出したのだ。さもなければ、人類や他の生き物たちがこれほどまでに延々といたぶられつづけるわけがないではないか。
6月8日
maruyamakenji 丸山健二
とことん嘆き悲しんでも、どんなに失望落胆しても、ときには死を選択したくなっても、最終的には自力のみが物を言う。他力は所詮他力でしかなく、踏み台にはなり得ても、しかし、再生復活へ向けての決断と決行は自力に頼るしかない。守護神は自身以外に存在しないことを肝に銘じておくべきだろう。
6月7日
maruyamakenji 丸山健二
今、被災地の現場に来ている。女川町の真っ只中にわが身を置いている。天災の凄まじさにただただ圧倒されるばかりだ。しかし、最も恐ろしいと思ったことはこの悲惨な光景にたちまち自分の目が慣らされてしまうことだ。当事者でないことがこれほどまでに残酷な自分を生み出すとは思わなかった。
6月6日
maruyamakenji 丸山健二
怒っている場合ではない、非難している場合ではないという、そんな意見に誤魔化されてはならない。怒るときにしっかりと怒っておかないことには、いつかまた必ずや襲いかかってくる悲劇に対処するための効果的な手段を生み出せないのだ。心底からの怒りこそが正義に裏打ちされた未来を差し招く。
6月6日
maruyamakenji 丸山健二
八百長まみれの相撲を国技同然に扱う日本は、ある意味、国民性を見事に象徴していると言える。根回しという表現でもって和らげてはいるものの、そのやり口の実態はまさしく八百長以外の何ものでもなく、それはこの国のありとあらゆる分野において蔓延している、伝統的なペテン。そして、疲弊の元。
6月5日
maruyamakenji 丸山健二
やみくもに国家を肯定し、一から十まで認めるという無思慮な姿勢は、幼稚なゆえに危険な偏愛であって、本当の愛国精神ではない。さまざまな不正や矛盾に対して義憤を覚えるということに端を発しているのが、まさにそれなのだ。ちなみに、「愛国主義は悪党ども最後の拠り所」という言葉をご存じか?
6月4日
maruyamakenji 丸山健二
少年のような心を持った大人という表現を自慢として用いたがる、あまりに恥知らずな男の何と多いことか。そんな連中にかぎって、大人の男として振る舞わなくてはならない非常時にも相変わらず子どもをやっているのだ。その無責任さをまったく自覚することなく、父親面や責任者面を少しも改めない。
6月3日
maruyamakenji 丸山健二
これ以上ひとつになるニッポンをやめようではないか。ひとつにまとまり過ぎた結果が、このざまなのだから。これからは、いい意味で、より積極的にばらばらになるほうがいい。この際、傲岸不遜の誹りを受ける覚悟で、どこまでも主我的な個人として生き、強者にからめ捕られる人生と手を切るべきだ。
6月2日
maruyamakenji 丸山健二
人間らしい本質的な人間としての未来がこの国民の頭上に輝く可能性はあるのだろうか。そうした理想に一歩でも近づきたければ、各人が他者に頼ることなく自分自身を改革してゆくしかないのだ。つまり、強者にすがりつく生き方を根本から改め、おのれがおのれを助けることを学ばなくてはならない。
6月1日
maruyamakenji 丸山健二
今でこそ何だが、初期や中期の自民党時代においては、暴力団の組長の襲名披露や葬儀などには大臣クラスの政治家の名前を堂々と記した花輪がずらりと並んでいたものだ。それを承知していながらマスコミはほとんど取り上げたことがなかった。企業も陰でそうした組織に助力を仰いでいた。さて、今は。
5月31日
maruyamakenji 丸山健二
お国のためにぜひとも専門的な知識と知恵を拝借したいという声が政府から掛けられるたびに、待ってましたとばかりに喜々として集まる、お馴染みの民間人の面々。かれらにいったい何がやれるというのだろうか。その名声とやらにふさわしい活躍をし、見事な答えを出したことが一度でもあるだろうか。
5月30日
maruyamakenji 丸山健二
さほど役に立つとは思えぬ知識のあれこれをぎっしりと頭に詰め込み、一流とされる大学を卒業し、憧れの高級官僚になり、同僚との仁義なき熾烈な闘争に明け暮れ、大企業や政治家の顔色を窺いながら美味い汁を吸い、国民を平気であざむき、天下りを繰り返して余生を充実させる、そんな人生って何だ。
5月29日
maruyamakenji 丸山健二
いかに理想的な国家であろうと、結局は抑圧と隷従の関係で成り立っている。そして国民の九割九分か、それ以上の人々が被抑圧者としての生涯を終えてゆくのだ。かなり努力し、精いっぱい生きているつもりなのに、どうもぱっとした人生にならないことを、才能の欠如や不運のせいにしてはならない。
5月28日
maruyamakenji 丸山健二
原発の恐ろしさは、自然災害の煽りを食らって事故を招くことだけではない。テロリストたちにはまさにもってこいの標的となる。よく訓練された数人と消音器付きの短機関銃と高性能爆薬さえあれば、ほとんど無防備に近いわが国の原発などものの数十分で破壊し、甚大な被害を与えることが可能だろう。
5月27日
maruyamakenji 丸山健二
慣れは、改良や改善の最大の敵だ。欲深く、腹黒く、人を物扱いしてひと儲けをたくらみ、人を踏みつけていい思いをしようと連中は、そのことをよく承知し、悪用する。そして、いつのまにやらかれらの天下が再生されている。憤怒のすべてが正義と関係あるわけではないが、正義の必須条件ではある。
5月26日
maruyamakenji 丸山健二
何回でも叫ぶ。「怒れ、ニッポン!」国民に怒って欲しくない輩は、頭を低くしたポーズをとりながら、怒りが持続力を失う時期を読み、それを待っている。諦めのため息を漏らす回数が増えてゆく頃合いを見計らっている。そして相手の顔色を窺いながら、手練手管を駆使して復活を果たすつもりなのだ。
5月25日
maruyamakenji 丸山健二
真の教養とは、また、真の学識とは何かを問うとき、問題にすべきは権力や権威や名誉や金銭に断じて屈しない強靱な精神を育み、それをきちんと維持しているかどうかだ。そうしている者こそが本物の教養人であり、本物の学識者であり、本物の文化人であって、それ以外は世に害をなす寄生虫なのだ。
5月24日
maruyamakenji 丸山健二
あくどい強者に騙された弱者といったポーズを気取るのはやめるがいい。あいつらをそこまでつけ上がらせ、のぼせ上がらせたのは、誰あらぬあなた自身なのだ。あいつらも卑劣ならば、あなたも負けず劣らず卑劣なのだ。そんなあなたがいくら怒っても、金目当ての憤怒としか受け止められないだろう。
5月23日
maruyamakenji 丸山健二
あんなにこすっからい、地位を利用してあこぎな儲けを企む性根がはっきりと顔に出ている政治家をどうして選んだりするのか。その目は節穴なのか。そうではない。政治家を支えている人々もまた思わぬ余祿を当てにし、ちっぽけな欲が満たされることに期待して「汚れた一票」を平気で投じているのだ。
5月22日
maruyamakenji 丸山健二
都会人は、おのれの内面を、とりわけ本能に限りなく近い感情を言葉や態度で巧みに隠す術を身につけている。それなしでは世渡りが不可能になるからだ。しかし、人口の少ない田舎においてそんな小細工は必要ない。感情も欲望もむき出しにすることができ、そこにいとも簡単に付け込まれてしまう。
5月21日
maruyamakenji 丸山健二
地方の人々はどうしてああも簡単に原発などという危険極まりない怪物を受け容れてしまうのかという都会人たちの素朴な疑問は、田舎で暮らしたことのない者にはおそらく永遠の謎であろう。知性とか理性とかを全面に押し出してはとても生きられない、厳しい状況が幾世代も重ねられてきたせいなのだ。
5月20日
maruyamakenji 丸山健二
暗い影を落としそうな、つまり、公害をもたらしそうな危険極まりない企業が地方にその拠点を構えたがるのは、ひたすら従う生き方のみで世渡りをしてきた癖の抜けきらない、目先の欲に釣られやすい、金銭的にも精神的にも貧しい住民の数の多さと、余っている土地が多いことに目を付けるからだ。
5月19日
maruyamakenji 丸山健二
原発を受け容れた地元民は、ただ単に大企業のご威光とお上の権力と学者の権威にたぶらかされただけのお人好しなのか。まやかしの説明を真に受けてしまっただけの善人なのか。かれらに打算の心がまったくなかったと言えるのか。純粋な被害者として世間の同情を一身に集めるだけの立場にあるのか。
5月18日
maruyamakenji 丸山健二
暴れたら手がつけられぬほど凶暴で、甚大で致命的な被害を及ぼす野獣なんぞを飼い、これは二重三重の頑丈な檻に閉じ込めてあるからまったく心配ないと言い張ってきた連中が、野に放たれたそいつが大怪獣と化して暴れまわっているのに、次はもっとしっかりした檻にするから大丈夫だとぬけぬけ言う。
5月17日
maruyamakenji 丸山健二
せめて原発の是非について国民投票を! その町が賛成したからといって、その県が同意したからといって、原発の建設を認めるのはおかしい。いざというときの被害は日本中に、いや、世界中に深刻な影響を与えてしまうのだから。賛成に一票を投じた者も自分の町に建設が決まったときにはどうする?
5月16日
maruyamakenji 丸山健二
原発はもうやめるべきだ。現在使用中の原発もやめるべきだ。それにしても、地熱による発電というかなり有効な道が残されていたにもかかわらず、どうしてこれほどまでに危険な原発の方向へと舵を切ったのか。原発が一基増えるたびに電気料金が値上げされてゆくことと深い関係があるのではないか。
5月15日
maruyamakenji 丸山健二
泣いてごまかす日本人。泣かれたら許す日本人。このあまりに情けない、あまりに幼稚な国民性をどうにかしないかぎり、日の当たる場所に巣くっている悪党どもは永遠に栄えるであろう。そしてかれらを無意識に支えている大衆もまた永久に虐げられたままの人生を送る羽目に陥ってしまうであろう。
5月14日
maruyamakenji 丸山健二
なぜ為政者たちはまともな人間ではないのか。それは権力の始まりからしてまともではないからだ。威張りくさることができる上に、楽をして驚くほど甘い汁が吸えるというふざけた立場に魅せられて集まってきた、泥棒同然のろくでもない性根の集団に、我々は国をまるごと預けてしまっているのだ。
5月13日
maruyamakenji 丸山健二
芯から腐りきっている、あこぎな上にもあこぎな悪というものは、マンガや映画やテレビドラマや娯楽小説のなかに登場する、どこからどう見てもそれとわかるような存在ではない。また、社会の底辺にうごめくアウトローたちとも一線を画している。連中は社会の表側に、しかも堂々たる地位を占めている。
5月12日
maruyamakenji 丸山健二
元通りの生活に戻したからといって、それでめでたしというわけにはゆかない。生き方そのものを変える方向で再スタートを切らなくては、大試練の意味がなかったことになってしまう。お上の言いなりになる事大主義を完全に退治し、独力の判断と決断と洞察力を身につけることが必要不可欠なのだ。
5月11日
maruyamakenji 丸山健二
日本人は過剰に適応する。支配する側がそこまで要求していないにもかかわらず、それ以上に応えようとする。そのせいで先進国の仲間にどうにか加わることができたのだが、しかし、上の連中はその結果をおのれの実力によるものだという甚だしい勘違いをしている。不思議なことに、下もそう信じている。
5月10日
maruyamakenji 丸山健二
ボランティアの真の精神が憐憫の情に源を発していることは周知の事実だ。しかし、もしも、とことん悲嘆にくれている罹災者たちにすり寄って、悲劇の感動ごっこを満喫しようという残酷な芝居に興じて酔い痴れているのだとしたら、かれらは自分自身の人生に感動を求めようとしない卑劣漢だ。
5月9日
maruyamakenji 丸山健二
国家はひとつの悪だ。それも巨悪だ。その悪に比べたらやくざの悪など実にちっぽけなものでしかない。そして国家は抽象的存在ではなく、どこまでも具象的な実在である。要するに、ほんのひと握りの連中によって支配されているということだ。民主国家の神話なんぞにけっしてだまされてはならない。
5月8日
maruyamakenji 丸山健二
それらしく見えればいい、それらしく振る舞えばいいという価値観が、それらしいだけの軽薄な輩をそれそのものに仕立て上げてしまっている。この国のありとあらゆる分野において、そのおかしな論理が罷り通り、ために、実力のない奴がその地位についている。国の底力がつかない所以がそこにある。
5月7日
maruyamakenji 丸山健二
国民のためを心底から思って動いている政治家がただのひとりでもいると思うのか。かれらが高い理想と志のもとにあの地位をめざしたと思うのか。かれらを支持した選挙民がお人好しの間抜けだと思うのか。ちっぽけな欲に後押しされて一票を投じた結果が、強欲に蝕まれた輩に大きな権限を与えたのだ。
5月6日
maruyamakenji 丸山健二
政治家どもの顔をとっくりと見るがいい。よくよく目を凝らして見るがいい。あれが国家を仕切れるほどの顔か。欲深いだけの間抜け面。幼稚なパフォーマンスが精いっぱいの、企業から金をくすね、税金をちょろまかし、あるいは、その地位に甘んじているばかりの無能力者の集団。選んだのは誰だ。
5月5日
maruyamakenji 丸山健二
日本人には、世界的に見て希有なほど豊かな情緒が具わっている。しかし、その精神はお粗末なかぎりだ。精神とは、要するに自分だけの判断で決定する力を身につけていることだ。個としての、または孤としての力の有無こそが精神の基盤であり、それ抜きの感情だけではとても人間とは言えない。
5月4日
maruyamakenji 丸山健二
飴と笞に弱いのは人の常だが、ここぞというところでそれを突っぱねられない者は知識人でも教養人でも文化人でもない。いや、人間でもなく、動物に堕してしまった人間もどきにすぎない。人には二種類ある。飴にも笞にも絶対に屈しない、真っ当な人間と、それ以外だ。
5月3日
maruyamakenji 丸山健二
あの電力会社の会長や社長やその他の幹部たちの神妙な態度と顔つきの裏側に張りついている冷酷さと傲慢さは、さまざまな名目を悪用してさまざまな人々に金をつかませて国家をわが物にしたという自負と自信が支えになっているからだ。だから、口先だけの謝辞にとどめ、土下座にしても田舎芝居なのだ。
5月2日
maruyamakenji 丸山健二
ひとつの大企業のボスがあこぎに稼ぎまくった贅沢に過ぎる資金をばら蒔くことで、政治家も役人も学者も報道陣も文化人も芸能人もがっちりと抑え込み、自分の言いなりに操れる木偶人形として利用し、国家の私物化を押し進めている。手の指で数えられるそいつらこそが元凶中の元凶なのだ。
5月1日
maruyamakenji 丸山健二
どこのどいつがこの国を牛耳っているのか、この国を食い物にしているのかということが、今回の原発事故によって鮮明になった。これを契機に、国家が不特定多数のものであるという錯覚を捨てなければならない。国家はあくまで特定少数のものであり、その他はかれらの奴隷にすぎないのだ。
4月30日
maruyamakenji 丸山健二
金と出世のために学者としての魂を平気で売り飛ばした、似非学者、御用学者、腐れ学者のオンパレードがテレビを連日賑わしている。この際、かれらの顔と、かれらしか用いないテレビの体質を胸に焼き付けておくがいい。そして、同種同根のコメンテーターや文化人や芸能人、その他の知名人たちも。
4月29日
maruyamakenji 丸山健二
正義の怒りにつながらない悲しみは、ただの泣き寝入りでしかない。泣き寝入りは、一個の独立した人間の取るべき態度では断じてなく、この世に存在することの尊厳をみずから放棄した、羊のようにおとなしいだけの腰抜けの愚者の選択肢だ。 怒れ、ニッポン!
4月27日
まさに最高!
今まで僕が主張してきたようなことを丸山健二氏も言っているではないですか!(←うぬぼれ)
とはいえ、このことは先程warmgunさんのブログで始めて知りました。
これはツイッターを始めて最も大きなインパクトでした。ガツンときた。
いよいよ丸山健二氏も動き出した、ということでしょうか?
今日は中川氏と会う予定ですが、近々warmgunさんにも紹介させていただこうと考えています。
今日は丸山健二を絡めた、恐ろしい国家的陰謀を二人で画策しようと思います(爆)
これを機に、warmgunさんもツイッターを始めることを”強く”お勧めいたします。
~”時”が向こうからやって来る数少ないチャンスを、掴み損ねてはならない~
↑これは私自身に向けた戒めの言葉。
ああ、今日、中川君(知らないが!)と飲むのね、よい時間を!
あのね、丸山健二のようなツイッターをやらなそうなひとが、はじめたことがインパクトある。
warmgunのように、いかにもツイッター向きの人は、ダメだと思う(笑)
今朝は、村上春樹のバルセロナでの”核ノー”発言全文も読んだ。
この発言に関しては、丸山健二の方がずっとよい(爆;君にとっては、あたりまえだろうが)
しかし、昨日、春樹の発言記事を読んだとき、ぼくは”80年代までの”彼の小説を読んで幸せだった時を思い出した。
そのことには、恩義を感じる。
いまぼくは、”小説”に戻ろうとしている。
”世界文学”のなかで、大江-中上-村上を考えたい。
そして、”その前とその後”の小説を。
丸山健二の最近の仕事も参照すべきだ、と思った。
それはもう歴史の運命であり、その外側に立って生きている人間なんかひとりもいない。
偉そうに、自分だけが正義みたいな顔しやがって。
「変わらなければならない」なんて、変えられるものなら変えてみろ。おまえは、神か。
こんなアホのいうことのどこが素晴らしいのですか。
変われる人もいれば、変われない人もいる。それはもう、その人に与えられた運命かもしれない。持って生まれた性根もあるし、人生のなりゆきもあるし、時代や社会の構造によることもあるし、歴史の問題でもあるかもしれない。誰もがそういう「運命」というものを背負って生きている。
蹂躙するものとして生きたのも、その人の運命だろう。
誰も、丸山健二みたいに考えて丸山健二みたいに生きなければならない義理なんかないし、できるはずもない。そうやって平気で他人を裁いて何がうれしいのか。おまえだって、蹂躙する側の人間と同じ人種だよ。
田舎の村に原発ができること、すなわちこの世にあくどい人間がいることと小心で物欲しげな人間がいることだって、時代の問題であり社会の構造の問題であり、歴史の運命の問題だろう。おまえらがえらそうに裁くな。
できてしまったものは、ひとまず歴史の運命として受け入れるしかない。歴史や時代が変われば、いつかなくなることもあるだろう。いいかえれば、歴史や時代が変われば、つくろうとしたってつくれない。
誰もおまえらに変えられなきゃならないいわれはないんだよ。この世にどんな人々が存在するかということは、歴史の運命であって、おまえらのしょぼい脳みそが決定することじゃない。あくどい人間ばかりが存在するのか、清らかな人ばかりになるのか、そんなことをおまえらが決定するな。それは、歴史の運命として決定されることだ。
この世の中が自分みたいな人間ばかりになれば、それで万々歳なのか。おまえらみたいな人間ばかりの世の中なんて、ぞっとする。しかしそれでもそれが歴史の運命なら、僕は受け入れる。ただ、おまえらに決められねばならないいわれはない。
政治家の行動を決定しているのも、歴史の運命なんだよ。そういう世の中に生きているのなら、それはもうしょうがないことだ。
あくどい人間も小心な人間も、みんな、歴史の運命を背負って「こうしか生きられない」というところを生きているんだよ。
こう生きねばならない、こう考えねばならない、という決まりなんかない。誰もかれもがおまえらみたいに自分をまさぐってばかりして生きているわけじゃないし、おまえらだって、自分をまさぐってしか生きられないだけじゃないか。
丸山健二のこのえげつなさは、なんなのですか。俺みたいに考えよ、俺みたいな人間になれ、と扇動しまくっている。
人が小心でこずるく生きようと、傲慢に生きようと、おまえに指図されるいわれはないんだよ。どんな人間にならないといけないという理想なんかあるものか。
何はともあれこの世に人が生きて存在しているという事実の重みというのはあるでしょう。
丸山健二のこの言説のどこが素晴らしいのか、こんなアホとつるんで何がうれしいのか。丸山健二がどんなに偉そうなことを言おうと、世の中は彼のいう通りにはならない。みんなそれぞれの領分で、精一杯生きている。傲慢な人間も小心な人間も、こうしか生きられない、というやむにやまれないものがある。こう生きればいい、というだけで済む問題ではない。誰も丸山健二ほど自分にしがみついて自分をいじくりまわして生きているわけではないのですよ。
たしか、高橋和己も「悲の器」でそんなことを書いていた。そのへんが、高橋和己と丸山健二の差かもしれない。こんなアホのいうことのどこが素晴らしいのか。笑わせてくれる。
まあ、仲良くやってください。それを邪魔するつもりはありません。
たしかに、誰もが丸山健二のように考えて・生きなければならない義理はないです。
この丸山の文章を読んで、それに賛同しないひとは、そうじゃなく考えて・生きると思います。
わかっていて、わからない振りして人をさげすもうなんて、あなたもいやらしいことをする。
チャンと論陣を張って見せてくれとは言わないが、そうやって人をなめたようなことを言って何が嬉しいのか。
ただうんざりしただけです。
失礼しました。
《言葉の死》について
①《言葉の死》とあなたがここに書いているのは、
“warmgunの言葉”の死なんですか、“Kと名乗るひとの言葉”の死なんですか、それとも“ブログとかいう場の言葉“の死なんですか?
②もし“warmgunの言葉”のことなら、“ぼく”の言葉はもともと“生きたことがない”。
③それで他人の言葉を“参照する=引用する”わけだが、その基準は、結局、その言葉が好きか嫌いかなんだ。
④その言葉が、“好き”と言うとき、意外なことに、その言葉が好きな自分というものが現れる。
⑤けれども、“好きな言葉”同志は矛盾することがあるし、ある時間の経過の中で、それが好きでなくなることもある。
⑥自分が好きな言葉を何度も引用していると(あるいはただ読んでいた言葉を、入力していると)、その言葉が好きということが、揺らいでくることもある。
⑦まさに“好き”というのは、主観性でしかないので、たとえば“高橋和巳”というひとが読まれたぼくらの“青春”のころ、ぼくは“大江健三郎”を読んでいて、高橋和巳は1冊も読み終わっていない。
⑧“読みかけて”ダメだったことがあったかもしれないし、その時代に流通していた“高橋和巳”というイメージが嫌いだったのかもしれない。
⑨その後、“長い時間”があったのに、ぼくは高橋和巳を読む気にならない。
⑩しかも、ぼくはある時期、“大江健三郎”もいやになった。
⑪去年から今年にかけて、“おかしな二人組”という長編3部作を読んだが、それについても自分の明確な感想(言葉)を持つことはできない。
⑫上記のように書けば長くなってしまうが(まだまだ“説明”はいるが)、そう書いたところで、あなたが《自分にしがみついて自分をいじくりまわして生きている》というふうにしかとらないなら、たしかに無-意味だ。
⑬あなたのブログに、《ただもうあなたたちの人間をなめたようなというか、原発は怖いという自分の感情にしがみついたようなというか、その横着な物言いが気に食わない》とあるが、
どうして、《原発は怖いという自分の感情》が、《人間をなめた》ことになるのか。
たしかに《横着》であることはある。
⑭あなたがコメントで連発する《歴史の運命を背負って》というときの、<歴史>があなたとぼくでは、まったくちがったものに思えるが、これについても、ぼくには明確な“言葉”はない。
⑮たぶんあなたは、《歴史の運命》ということを、自分で把握したことを、“直立二足歩行”とか“ネアンデルタール”とかで書き続けているのだろうが、ぼくに関心があるのは、“近代”以降、あるいは“戦後”(第二次大戦後)なんだ。
⑯“歴史というものについて明確な言葉はない”と書いたが、ひとつだけわかっているのは、歴史は、<具体的>だということだ(ぼくにとってのその実例は、『おおエルサレム!』や『シャーティーラの4時間』による歴史の証言だ)
⑰単純にぼくにわからないのは、そもそも、あなたがなぜ“このブログ”を読み、長文のコメントまで書いてしまうかなのだ。
⑱このコメント欄での応答が、“言葉の死”であるかどうかも、ぼくには、わからない。こういうふうに、わけのわからない言葉の応答が、結局、言葉なのかもしれない。
⑲しかし、《虫けらのように生きようと、暴君として生きようと、誰の人生も、いまさら消せはしないし、変更もできないのですよ。その事実の重みというのはあるでしょう。そしてみんなもうすぐ死んでゆくんだよ》
などと、“あなたに”言われることはない(笑)
⑳あなたこそ、自分の“理論?”で、他人を“裁いて”いるではないか。
丸山健二氏の書かれた内容その切り口の見事さはいま大多数の日本人の賛同と喝采を得るであろう事は疑いを挟まない。斬りも斬ったりバッサバッサ
とまるで悪の千人斬り見たいに日頃の有り余る不満や諸悪の根源などを一切の妥協を廃して切り捨てるその爽快さ、斬り進んだあとにうち捨てられたがれきの山を見たとき我々はそのすさまじいまでの自虐性とも思えるほどの自己否定をその内に見いだすだろう。我々が否定し切り捨てた部分は紛れもなくかつて我々日本人一人一人自らの分身に他ならない。今切り離されがれきとなった我が分身のその重すぎる存在と今更ながら残された部分のあまりの軽やかさに驚きを禁じ得ないと同時に始めて知った穴埋めのないバランスを欠く分身の居心地の悪さに茫然自失しただ座り込むことでしか対処できず一歩も前に進めない自分自身に始めて遭遇するのである。今の日本はまさにその只中にあり始めて己の理想とする世界観を見つめ直し描き出そうとしている。
丸山健二というひとは、ぼくはずっと昔に何冊か読んだことがあって、その後ずいぶん長い間、読んでなかったひとです。
だから、このツィートは新鮮だったが、それだけではよくわからない、とも思う。
さらに、この震災後の”言説”というものを、どう考えるか?
ぼくの読んだ範囲は限られており、そのなかからいくつかは、”引用”してきました。
率直に言って、そのすべてに、ぼくは、違和感を覚えている。
だからといって、自分の言葉を発し得ていない。
この状況の言葉が、ダメだと思うとき、やはり自分の言葉がダメなのだ、と思う。
やはり、この時、自分がまだ若かったら、自分の未来の言葉に賭けることもできようが、もはや全然若くない自分を認めざるをえず(笑)、正直、ある種の停滞感に襲われています。
ロックではザ・モッズ
漫画では北斗の拳
映画ではタクシードライバー
そして書物では、丸山健二だ。
なんども書いているように(?)ぼくは丸山健二というひとについては、よくしりません。
丸山健二については、上記コメントの不破利晴ブログヘどーぞ(笑)
ぼくが日本の作家で”数少ない本物”と思うのは、中上健次です(笑)
”ザ・モッズ”というのは、なつかしい。
あの方は自分に対する酷評なんて、とっくに自覚していると思いますよ。
先生自身、「世の中に上手く馴染めなくて悔しい」「私は協調する能力がない、犬しか相手がいない」と発言しているんですから・・・
それでも私は、先生の言葉を自分の人生の参考にさせていただきます。
自分のためですから。
しかし、もちろん盲目的に崇拝はしません。それはあの方が最も嫌う姿勢だからです。
それに、自分の器を越えた言動は、恥ずかしいばかりではなく危険です。だから私は自分を超え過ぎた生き方はしません。
コレも先生が言っておられた言葉です。
とにかく、人に反発するにも尊敬するにも、自分の行動が伴う事が大切です。
口ばかりの人間は、とても恥ずかしい存在なのですから。
そして丸山先生は、実際に行動が伴っております。そこが良いのです。
こういう輩が丸山のサイン会に集うんだな。
丸山がエッセイの中でこっぴどく罵倒していた連中ってこういう集団だったと思う。他人の批判を受け入れられない唯我独尊という意味では見事に丸山のコピーになっている。一言キモイ。ここまで他者を罵倒するなら自らの行動規範を行動で示す。それが侠気というものだろう。Kさんの行っていることは全く持って正しい。
ずいぶん前のブログへのコメントですね。
あなたの言うことにも一理あると思う。
ただぼくは、丸山健二については、あまり知らない。
それから、いま、つまらないことを言っている(書いている、本質的な行動をしていない)ひとは、たくさんいる。
というか、ほとんど全部だと思う。
名前も名乗れないようなUnknownとやら、すなわちこのヘタレはどうやら僕のことも批判しているようだね。
warmgunさんのブログでぐだぐだ言うなよ。
僕が相手してやるから、僕のブログへ来いや。
http://blog.goo.ne.jp/fuwa_toshiharu