★ 『青森挽歌』のなかで詩人が、ここでも自我の解体の危機にさらされているときに、賢治はこのように書いている。
感ずることのあまりに新鮮にすぎるとき
それをがいねん化することは
きちがいひにならないための
生物体の一つの自衛作用だけれども
いつでもまもつてばかりゐてはいけない
★ いつでもまもってばかりいてはいけない、と。
<がいねん化する>ということは、自分のしっていることばで説明してしまうということである。たとえば体験することがあまりに新鮮にすぎるとき、それは人間の自我の安定をおびやかすので、わたしたちはそれを急いで、自分のおしえられてきたことばで説明してしまうことで、精神の安定をとりもどそうとする。けれどもこのとき、体験はそのいちばんはじめの、身を切るような鮮度を幾分かは脱色して、陳腐なものに、「説明のつくもの」になり変わってしまう。
★ にんげんの身をつつんでいることばのカプセルは、このように自我のとりでであると同時に、またわたしたちの牢獄でもある。人間は体験することのすべてを、その育てられた社会の説明様式で概念化してしまうことで、じぶんたちの生きる「世界」をつくりあげている。ほんとうの<世界>はこの「世界」の外に、真に未知なるものとして無限にひろがっているのに、「世界」に少しでも風穴があくと、わたしたちはそれを必死に<がいねん化する>ことによって、今ある「わたし」を自衛するのだ。
<見田宗介『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』(岩波現代文庫2001)>
★ 書かれた言葉は、ある種の強制力をもっている。私はその強制の底に、一つの<自由>を見つけたいのだ。書かれた言葉は、ある種の暴力をもっている。私はその暴力を、あえて言うなら、エロスに似たものに転換したいのだ。しかしこんどは、エロスという領域が、かぎりなく錯綜してあらわれてくる。エロスは欲望、感情、身体、生殖の次元にかかわるが、書き言葉が、意味、伝達、労働から迂回する曲線を含み、ときにそのような迂回そのものとして生みだされるように、エロスもまた欲望からも、感情からも、身体からも、生殖からも迂回するからである。迂回することによって、書くことの自由と暴力が、エロスの襞や曲線と出会い、交わる点が存在するのだろう。
<宇野邦一“始まりとしての言葉と身体“―『他者論序説』>
賢治の「青森挽歌」に愛着しています。
このようなコミュニケーションではじめて目にした言い方ですが、引用された箇所に「激しく同意します」を使わせていただきましょう。
ところで、
地震は大丈夫でしたか。
賢治というひとは、詩でも童話でも、読んでないものを読んだり、読んだものをふたたび読み直したりしたい人です。
ぼくが漱石より賢治が好きなのは明らかなようです。
地震は、自宅でなく仕事場(新宿)で体験しました、無事です。
しかし、”無事”というのは、なにごとも感じなかったのではなく、いろいろ揺れております(笑)