Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

のど-せき-せんもう状態

2010-12-20 08:09:31 | 日記



たぶん今月はじめから風邪気味だった。
先週二日続けて仕事に出たあと、ベッドに入ると猛烈な咳である。
何時間もつづく、つかれて眠るまで。
咳のせいで胃の付近や腹筋が痛い。
熱はランダムに乱高下しているようだ。

基本的に寝ているわけだが、その姿勢が疲れるというより痛いので、起き上がりゾンビのようにへたりこむ。
テレビを見たりもするが、頭にはいらない。
『さようなら、私の本よ!』を数ページづつ読む。

そうなのだ、夢の中でもブログを書いていた。
あんまりリアルなんで、PCに自分が書いた文が保存してあるような気がした。
今朝は『さようなら、私の本よ!』の2箇所の引用から、“大江健三郎論”が書けた、と思った。

ぼくは、多少の風邪なら、煙草をやめられないが、今回は3日以上煙草を吸ってない(考えるだけで咳の発作がおきる)

これだけでも、ぼくの日常は、大違いである。
そのおまけに熱の後遺症か、なんとなく視界がバラ色がかって感じられる。

いまこれを書いていて、ますます“齟齬感”はつよい。

なにかが、ちがってしまった。

また“戻る”のだろうか、それとも、“こっち”に来てしまったのだろうか。

戻ることがないなら、たぶんブログはいままでのようには、書けない。

読む本の選択も変わるだろう。






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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (warmgun)
2010-12-22 10:12:52
不破利晴 さま

昨日夕方、近所の医者に行き、薬4種でました。

蜂蜜舐めました(笑)
緑茶は、飲んでいます。

食べ物の味が変わってしまい、食欲ないのがつらい。

煙草は、吸えない。
たぶん4日間くらい1本も吸ってない。

だが、ちょっと快復したら、煙草はがまんできない!

君の”三島ブログ”読み、ひとつ書いている。
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Unknown (warmgun)
2010-12-22 10:05:53
K さま

ありがとう。

《「生きようとする」衝動は、いま生きてないという自覚からしか発生しない》


という言葉は、なぜか励みになります(笑)
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Unknown (不破利晴)
2010-12-20 23:36:48
不破でございます。

ちょっとマズい状態ですね。
僕も似たような経験があります。
すぐに医師の診察を受けてください。それでも当面の間は咳はとまらない可能性があります。
緑茶でのうがいと、蜂蜜を舐めるようにしてください。
あと、2,3ヶ月はタバコを控えるようにしてください(非常に辛いのですが・・・・)
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Unknown (K)
2010-12-20 12:43:50
生き物は、同じ身体であり続けようとする機能を持っているそうです。
だから、どんなに細胞が入れ替わっても、同じ身体であり続けることができる。
その進化において、最初はウィルスのようなまんまるの形だった。それがやがて微生物のような楕円形のかたちになり、しまいには髪の毛のような細長いかたちとなって進化というか成長してゆく。
成長なんかしたくないのに、同じかたちであり続けたいのに、環境世界との関係で圧迫を受けている部分がその反作用で成長してしまい、楕円形になり、しまいには細長い繊毛となって伸びてゆく。圧迫を受けなければ真ん丸いかたちのままでいられるのに、生き物の身体のかたちはどんどん細長くなってゆく。

圧迫を受けている部分で、思考や思想が生まれてくる。われわれの生は、真ん丸いかたちであり続けようとしながらまん丸いかたちからどんどんずれてゆくという方向ではじまっている。生まれた瞬間、その一歩を歩みはじめる。
だから、社会の制度性、というまんまるいかたちが幻想される。
でも、そこからのまんまるいかたちであれという要請そのものが圧迫となって、まんまるいかたちであることができない思考や思想が生まれてきてしまう。
なんか、命の働きはややこしいものだと思います。単純明快のまんまるな、「生きようとする本能」とか「命の尊厳」などといってもらっては困ります。
痛いとか苦しいとか暑いとか寒いというような「圧迫」を受けるから生きてしまうのであって、「生きようとする本能」を持っているからじゃない。そんな本能などもっていないから、いつか風邪も治るのだ、と思います。それが環境からの圧迫だから治るのであって、生きようとする本能などのおかげではない。
病気になることは、環境から死ねと命令(圧迫)されていることだと思います。それでもわれわれの身体は、「すでに生きてある」という事実を受け入れてしまう。身体や思考をゆがませても、受け入れてしまう。
「生きよう」としたからじゃない。「すでに生きてある」という事実を受け入れているからだ。それが、どんなに細胞が入れ替わっても同じ身体であり続ける理由だろうと思います。新しい細胞は、もとの細胞の形を受け入れている。そういうかたちでしか、新しい細胞は発生しない。
生きようとするんじゃない。「すでに生きてある」という事実を受け入れているからであり、そのいとなみがどんなにしんどくどんなに味わい深いかということを、「あの連中」はなんにもわかっていない。
「生きようとする」衝動は、いま生きてないという自覚からしか発生しない。テレビを持っていないからテレビを欲しいと思うのであって、すでにテレビを持っている人間がテレビを欲しいとなんか思うはずがないじゃないですか。
論理的に、「生きようとする本能」なんか成り立たない。
「すでに生きてある」という事実を受け入れてしまうことの「かなしみ」、われわれはそういう事実を、痛いとか苦しいとか暑いとか寒いといった「嘆き」として気づかされる。生きてあるという事実はそういう「かなしみ」としてしか受け入れようもないもので、そういう「かなしみ」も、その事実を味わいつくす「よろこび」も、この世のもっとも弱く貧しいものたちがいちばん深く体験している。大江健三郎は、そういうようなものを自分の息子と「共有」し、「献身」していこうとしているのでしょうかね。
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