Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

神のメッセージ

2011-01-30 12:43:29 | 日記



内田樹最新ブログは、<アブラハムと顔の経験>という。

神戸女学院を辞めるにあたっての“最後のお話し”であるが、実際には時間が短く充分に話せなかったので、それをブログに記述したものらしい。

だからけっこう長いのである。
ぼくは数日前にこのブログを読んだが、それについて自分で何かを書くことに迷った。

なにに迷ったかというと、この内田先生のお話しのような“お話し”に関心をもつ“読者”がはたしているだろうか?と思ったのだ。

つまり“ぼく”は、こういう“お話し”に関心を持つ。

とにかく、“一部”を引用してみよう;

(引用開始)

☆ 主が何を言おうとしているのかは、わからない。
でも、それが私宛てのパーソナルなメッセージであり、ほかならぬこの私が「そのメッセージを読解できる人間」になることを先方は熱烈に望んでいるということは、わかる。

☆ 私たちはたとえメッセージのコンテンツが理解できなくても、それが自分宛てであるかどうかは過たず判定することができる。
そして、私たちはそれが「自分宛て」であると確信されたメッセージについてはおのれの全力をあげて理解しようとする。

☆「なぜ全力をあげるのか」と問われても、答えようがない。
ただ、人間というのは、「そういうもの」だとしか言いようがない。
まさに私たちはそのようにして母語を習得したからである。

☆ 私たちは嬰児のとき、母語をひとことも理解しない状態から言語の習得を始めた。
言語という概念さえもたない状態から言語の習得を始めることができるのは、嬰児でも空気の波動が「ほかならぬ自分にまっすぐ触れている」ということだけは感知できるからである。

☆ 言語習得という奇跡は、人間がメッセージのコンテンツをまったく理解できないところから出発して、メッセージの統辞構造や語彙や音韻や修辞についての深い理解に達することができるという平凡な事実に存する。
この力動的な言語習得のプロセスを駆動した「最初の一撃」は「この波動は私に向けられている」という受信者の側の絶対的な確信である。
主の言葉が預言者に臨むときの構造とこれは同一である。
(以上引用)


この“お話し”は、このあと、レヴィナスの“顔の経験”の引用文へと展開される。

ぼくとしては、上記引用の部分についてのみ、コメントしたい。

この文の論理展開は以下のようになっている;

① 主が何を言おうとしているのかは、わからない。

② それが私宛てのパーソナルなメッセージであり、ほかならぬこの私が「そのメッセージを読解できる人間」になることを先方は熱烈に望んでいるということは、わかる。

(以上“前提”)

③ 私たちはたとえメッセージのコンテンツが理解できなくても
  A: 自分宛てであるかどうかは過たず判定することができる
B: 「自分宛て」であると確信されたメッセージについてはおのれの全力をあげて理解しようとする

④ 「なぜ全力をあげるのか」と問われても、ただ、人間というのは、「そういうもの」だとしか言いようがない。
まさに私たちはそのようにして母語を習得したからである。

⑤ 私たちは嬰児のとき、母語をひとことも理解しない状態から言語の習得を始めた。嬰児でも空気の波動が「ほかならぬ自分にまっすぐ触れている」ということだけは感知できるからである。

⑥ 言語習得という奇跡は、人間がメッセージのコンテンツをまったく理解できないところから出発して、メッセージの統辞構造や語彙や音韻や修辞についての深い理解に達することができるという平凡な事実に存する

⑦ この力動的な言語習得のプロセスを駆動した「最初の一撃」は「この波動は私に向けられている」という受信者の側の絶対的な確信である

⑧ 主の言葉が預言者に臨むときの構造とこれは同一である(結論)


以上の“分析”により内田先生の“言説”が、まったく論理的に展開していることが、わかる(笑)



笑う。


ぼくの疑問は以下のごとし;

ぼくらは、母から言語を学んだ。

それは、<母>という<他者>からの、《私宛てのパーソナルなメッセージ》であったからである。

《この波動は私に向けられている》

ならば、なぜ《主の言葉》でなければならないのか?






白紙の心

2011-01-30 11:03:33 | 日記



今朝の話題は、サッカーである。
ぼくもサッカーを見てから寝た。

そしていま今日の読売新聞編集手帳を読んだ、以下の通り;

<子どもの心は、哲学者ロックが言うように、本来、「何も書かれていない白紙」である>。元文部官僚の菱村幸彦さんが『教育法規からみた現代校長学』(学事出版)の中で書いている◆情報があふれかえる現代、ロックが経験主義を唱えた17世紀に比べれば、白紙が埋まっていく早さはひとしおであろう。蓄積される「経験」を正しい「観念」に導く大人の役割は重要性を増す◆菱村氏は<子どもが「君が代」に嫌悪の情を持つとしたら、誰かがそう刷り込んだからだろう>と続ける。その「誰か」が、卒業式や入学式での国旗掲揚・国歌斉唱を快く思わぬ各地の先生方を指すのは明らかだ◆「起立や斉唱の義務はない」と主張する東京の教師たちが先週、東京高裁で逆転敗訴した。教師の思想・良心の自由を過度に重んじ、「国民は日の丸に中立的価値を認めていない」とまで言い切った、おかしな1審判決は覆った◆国語や数学の授業と同じく、国旗・国歌を尊重する態度を身をもって「指導」するのも教師の務めであろう。カタールのサッカー場で、肩を組み、国歌を口ずさむ選手たちがまぶしくみえた。(引用)


この文章への疑問点を書いておく;

① こどもの心が「何も書かれていない白紙」であるというロックの説に反する精神分析などの理論がある→こどもの心は<白紙>ではない

② もし教師たちがこどものこころになにかを刷り込むなら、それは国旗・国歌にたいする“嫌悪感”だけではない

③ “教師の思想・良心の自由”は重んじられなくてよいのか

④ もし国旗・国歌が現在のものでなくても、“カタールのサッカー場”で選手たちは別の国旗を見、別の国歌を口ずさむことができる


ついでに今日の天声人語;

英国にはテレビを「愚者のランプ(イディオッツ・ランタン)」と呼ぶ俗語があって、小紙記者だった門田勲がかつて「阿呆の提灯」の語をあてていた。けだし妙訳というべきだろう▼日本では一昨年の秋、放送倫理・番組向上機構の委員会がバラエティー番組の不快、嫌悪要素を五つ指摘した。下ネタ、いじめや差別などのほか、「死を笑い事にするなど生きることの基本を粗末に扱う」があった。BBCはこれに当たろうか▼「夢にも見るのは、黒い雨。川の流れを堰き止めるのは人間の筏(いかだ)。過去はいまの私そのものでもある」。山口さんはぎりぎりの体験を『ヒロシマ・ナガサキ二重被爆』(朝日文庫)に刻字した。人間をおとしめた2発の閃光である▼無知だけでなく、人間の尊厳への想像力の無さが怖い。笑いは人の人たるゆえんだが、精神の痙攣(けいれん)のような貧相、酷薄な笑いが世に満ちていないか。他山の石として見る目がほしい。(引用)


《無知だけでなく、人間の尊厳への想像力の無さが怖い》

笑。

《人間の尊厳への想像力》ではなくて、<人間への想像力>が欠如しているのだ。

“人間への想像力”を持つためには、<無知>であってはならない。

《笑いは人の人たるゆえんだが》

ならば、笑おう。

ばかげた言葉を使用し続ける人びとを。