Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

そして誰もいなくなった

2011-01-29 13:12:14 | 日記



ぼくは天木直人のブログをずっと見ている。
が、いつも天木氏に共感しているのではない。

今見た天木氏のブログには共感するので貼り付ける;

(引用開始)

しかし、私がここで言いたい事はエジプトの将来ではない。
米国に強固に支えられてきた政権が世界中で次々と交代しつつあるという現実だ。
気がついたら日本だけが唯一、最強の対米従属国となっているかもしれない。
そしてそんな日本が不幸な国であることは言うまでもない。

今朝(1月29日)の早朝のテレビ番組(みのもんたのサタデーずばっと!)でエジプト情勢が取り上げられた時、民主党議員がひとことつぶやいていたのが印象的だった。
ここまで米国に支持されていたムバラク政権でもこんな事になるんですね、といった趣旨の言葉を、驚きとも不安ともつかない表情で漏らしていた。
おそらく彼は国際政治には疎い議員なのだろう。ましてや中東情勢は何も知らないのだろう。
そしてそんな彼こそ日本の一般国民の素朴な考えを代弁しているに違いない。

しかし現実の国際政治はそうではない。
もはや米国に支持されていれば大丈夫だという時代は、世界では終わりつつあるのだ。
むしろ米国の従属国こそが次ぎ次ぎと倒れて行っている。
それは米国の支配が終わったということではない。
それどころか米国はあらゆる手を使って世界を支配し続けようとするだろう。
そんな米国の支配から脱却することの困難さを世界は知っている。
それでも世界のあらゆる国とその国民は、自主・自立を求めている。
その動きが拡がりつつある。
そしてそれは、それらの国の政治的、経済的発展の当然の帰結なのである。
国民の覚醒の自然な発露である。

鳩山首相の末路を同僚として見てきた菅直人という政治家が、同僚を助けるどころか、それを反面教師として首相になり、首相になったとたんここまで対米従属に豹変した。
それが、米国に逆らえば首相になれない、米国の支持さえ得られれば政権は安泰だ、そう思った末の行動であったとすればあまりにも浅薄だ。
そしてその誤りが今菅首相を苦しめている。

果たして日本の国民は世界の国民の潮流と同じように対米自立に目覚める時がくるのだろうか。
そうであってほしい。
気がついたらやがて誰もいなくなった。日本と言う国が最後の対米従属国となった。
歴史にそう記録されないためにも今こそ日本国民は覚醒しなければならない。
それが後世の世代に対する今を生きる国民の責任であると思う。
     
(引用終了)
 


その上で言いたいのは以下のことである。

対米従属でない状態とはなにか?

ぼくが思うことは、“対米従属でない国”になるためには、どのようなことを考えなければならないか、ということだ。

しかも、それは、“実際的手段を”(実際的手段のみを)意味しない。
たとえば、経済問題は、“資本主義”の問題として、たんなる実務的手段としてでなく検討されるべきである。
“防衛問題”も同じだ。

“哲学”や“社会科学”は、たんに“現実的問題を現実的に解決する”ためにあるのではない、ということをいくら強調しても強調しすぎることはない。

逆に、“現実的問題を現実的に解決する”ということを徹底的に考えつめれば、それがたんなるその場限りの“具体策”でおさまらないことが明瞭になる。

たとえば、“対米従属しない”ということを選ぶことは、“キリスト教”に関与する。
そのことは、たんに“キリスト教”を否定することには、ならない。

ぼくがここで言っているのは、一方に“宗教的、哲学的、観念的、抽象的……”問題があり、一方に“現実的な”問題があるのでは<ない>ということだ。

あるいは、“アメリカ”という国を考えるとき、ディズニーランドやマクドナルドやテレビドラマ(「24」や「LAW & ORDER」や「LOST」や「CSIシリーズ」)から現在のアメリカのなにが“わかる”のかということだ。
(たとえばこれらのテレビドラマと“イギリス製”の「MI-5」や「心理探偵フイッツ」を比較せよ;笑)
スピルバーグやイーストウッドやタランティーノの映画とコーエン兄弟映画の違いから、“なにがわかるか”という問題なのだ。

“かつて”、人種差別のアメリカ、赤狩りのアメリカ、ギャングたちのアメリカ、アウトローたちのアメリカがあった。
現在、銃犯罪のアメリカ、ドラッグ漬けのアメリカ、レイプのアメリカ、ドメステのアメリカ、キリスト教原理主義のアメリカ、世界にデモクラシーと正義を輸出するアメリカ、“悪魔=テロリストと戦う”アメリカ、なんでもコンピュータなしではできないアメリカetc.があるのである。

そして、“戦後60余年”、このアメリカの“そっくりさん”を目指す国が、極東の片隅にあったのである。


だから“問題”は膨大である。

“基礎から”かつ“ラディカルに”、一歩一歩、こつこつとやるほかない。





<日本>とは何か

2011-01-29 11:56:28 | 日記



現在、講談社学術文庫で刊行されている“日本の歴史”シリーズのオリジナルは、2000年に網野善彦による00巻『「日本」とは何か』を1冊目として出版された。

網野善彦は2004年に亡くなっている(1928-2004)

ぼく自身、とくに“日本史”の本を熱心に読んできたわけではなく、網野氏の本もちゃんと読んできていないのだが、網野氏の本によって日本の歴史の面白さを知ったひとは多いのではないか。

その『「日本」とは何か』の第1章において、網野善彦は書いている;

★ 私自身は、戦争中、友人を殴打、足蹴にしてはばからぬ軍人や軍国主義的教官の横暴を体験しており、その背後にたえず存在した日の丸・君が代を国旗・国歌として認めることは断じてできない。
それは個人の感情といわれるかもしれないが、この法律は、2月11日という戦前の紀元節、神武天皇の即位の日というまったく架空の日を「建国記念の日」と定める国家の、国旗・国歌を法制化したのであり、いかに解釈を変えようと、これが戦前の日の丸・君が代と基本的に異なるものでないことは明白な事実である。このように虚偽に立脚した国家を象徴し、讃えることを法の名の下で定めたのが、この国旗・国歌法であり、虚構の国を「愛する」ことなど私には不可能である。それゆえ、私はこの法に従うことを固く拒否する。(引用)


上記は“左翼”のパンフレットの言葉ではない。
“歴史学者”の言葉である。

歴史学者の言葉だから“権威がある”のでもない。

むしろ、なぜ網野氏が、歴史を学ぶこと・研究することを自分の生涯の仕事にしたかを言明するものだと思える。

なぜ、ひとは“学ぶ”のか。
それは、国家や権威から天下ってくる<虚偽>と戦うためである。

なぜ<日本史>はあるのか。

それは、“「日本」とは何か”を、“「日本人」とは誰か”を問い続ける作業である。

網野氏は言う;

★ 圧倒的多数の国民が、またおそらくはほとんどの国会議員、閣僚が、自らの国の名前の定まったときを知らぬままに、またその国が虚構、神話によって「建国」したとされることを無視したままに、国旗・国歌法を成立させたという点に、歴史を研究する者としては無念の限りの思いを抱かざるをえないが、この現実に、現在の日本人の自己意識の実状が、明確に現れているといわなくてはならない。


《歴史を研究する者としては無念の限りの思いを抱かざるをえない》
という言葉は、そうとうに激しい言葉である。

なにごとにも“冷静に対応する”学者を見慣れているぼくたちは、ここではっとして、よい。

《この現実に、現在の日本人の自己意識の実状が、明確に現れているといわなくてはならない》


そこから反転して、網野氏は、問いかける;

《「日本」とは何か》

ぼくは、これが<科学>的態度だと思う。

そのことを網野氏は以下のように言明する;

★ 日本列島において、きわめて古く、数十万年前から営まれてきた人類社会の歴史の中に「日本国」をおき、その約1300年の歴史を徹底的に総括し、その実態を白日の下にさらすための作業(引用)

そして言う;
★ じつはこれは、50数年前の敗戦のさいにただちに徹底的に行われなくてはならなかった作業であり、それがいまままで本当の意味で突詰めて考えられてこなかった点に、近代の日本、さらには「日本国」の全体に及ぶ重大な問題があることは、すでにさまざまな形で指摘されている通りである。
★ そのことが、1999年夏に、国旗・国歌法に象徴される重大な法律が、いともやすやすと国会を通過し、成立したことの背景にあることも認めざるをえない。しかし無力だったことを知り、失敗を自覚することが、新しい前進を真に支える力であり、敗戦前の“亡霊”たちが姿をかえてわれわれの前にはっきりと現れてきた現在こそ、まさしくこの総括の作業を開始する最適の時点と、私は考える。


この文が書かれてから、10年が経過した。

今日読売新聞は社説で言う;

国旗・国歌を巡っては、君が代のピアノ伴奏を拒否した教師が懲戒処分の取り消しを求めた訴訟で、最高裁が07年に「伴奏を命じる校長の職務命令は、特定の思想を強制するものではない」と、合憲の判断を示している。
今回の高裁判決も同じ流れにあると言えるだろう。最高裁判決以降、同種の訴訟では、教師側の敗訴が続いている。
かつて、一部の教職員組合がイデオロギー的立場に基づいて、「反国旗・国歌」運動を繰り広げ、教育現場は混乱した。
だが、国旗・国歌法が制定され、今やすべての公立学校で、国旗が掲揚され、国歌が斉唱されている。起立や斉唱を拒否する教師の数も年々、減少傾向にある。
子どもの手本となるべき教師が、入学・卒業式を厳粛な雰囲気で行うのは当たり前のことだ。(2011年1月29日02時04分 読売新聞)


《当たり前のこと》ではないのである。

読売新聞のような<右翼>が、《当たり前のこと》と言うことは、決して“真理”でも“正義”でもない、“サイエンス”でもない。

ポストモダンな人びとは歴史を忘れることで“新しい自分のセンス”に酔い、歴史好きはNHK大河ドラマ的“歴史観”でなんとなく歴史をエンターテイメントし、せいぜい司馬遼太郎的物語で予定調和におちいっている。


まさに<空想から科学へ>が要請される。