Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ぼくが20歳だった頃

2011-01-10 14:37:47 | 日記



《僕は二十歳(はたち)だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない》

きょう朝日新聞社説の最初に引用されている言葉。

正確には憶えていないが、ぼくはこの言葉を自分が20歳の頃知った。
当時、刊行された“晶文社選書”の一冊で。
ぼくはその本を買ったにもかかわらず、それを読まずに、いつのまにかその本は消えてしまった。

当時晶文社選書で買った本が、いまぼくの机の上にある。

《きみと世界の戦いでは世界を支援せよ》

この言葉の“不可解さ”が、ぼくにこの言葉を記憶させた。
しかしぼくはこの本やこの本で論じられた“カフカ”をも、深く読み込んでいない。


今日は“成人の日”であるという。
もうその日から40年以上へだたった、ぼくに今日届けられたたのは、<サイード>に関する、“現代思想ガイドブック”(青土社2005)であった。

この本が、<今日>届いたのは偶然であるが、それは<神>から届けられたのでも、<自然の摂理>でも<運命>でもなかった。

ぼくがAmazonマーケットプレイスに自ら(金を払って)注文したからである(笑)

この届いた本を、ぱらぱら見るだけでも、<言葉>はあった;

《人間の歴史は人間によって形成される》(ジャンバティスタ・ヴィーコ)

サイードは、“パレスティナ問題”や“オリエンタリズム”によって著名である。

しかし、サイードがなによりも<批評家>、もっと狭義には<文学批評家>であったことの意味が、かえって希薄になっているのではないか。

<批評家>とは、“批判(クリティック、クリティーク)する人”のことである。

<批評家>とは《権力に対して真実を語る》ひとである。

サイードの根本概念は、《worldliness》にある。

《worldliness》とは、“world”(世界)からの名詞形である。
大橋洋一はこの単語(英語)を“世俗世界性”と訳している。
ほかの本では、“世界内存在”とも訳されているそうだ。

まさに《worldliness》というあまり馴染みのない英語を理解すること(直感すること)がサイードの核心に迫りうるとぼくは信じる。


この本の最初に書かれている、サイードが学生だった頃の話を紹介したい;

★ サイードがマウント・ハーマン校の生徒だったときの感動的な逸話が、テクストに対する高度に構造化されたアプローチと、テクストの「世俗世界性」を重視するアプローチとの違いを、みごとに示してくれる。「マッチをつけること」というテーマで作文を書く課題をあたえられたとき、まじめ一本やりの生徒だったサイードは、律儀に百科事典を調べ、マッチ産業の歴史を調べ、化学薬品のマニュアルを調べ、何か権威ある「正しい」解答をみつけようと無駄な努力をしたのである。教師から「でも、誰かがマッチをするときに何が起こるかを考えるときに、それがもっとも面白い方法かね」と問われ、サイードはそのときはじめて、自分のなかにこれまで抑圧されていた批評能力と想像力が目覚めたことを驚きとともに知るのである(『遠い場所の記憶』)


このサイードの先生は、良い教師であったと(ぼくは)思う。

しかしサイードは、あるインタビューのなかで、トリニダード・トバゴの歴史家C.L.R.ジェイムズから「誰か、きみを心の底から、感嘆させた教師はいたか」と聞かれて、「いない」と答えている。

これを受けて大橋洋一は言う;
《サイードが言わんとしているのは、自分が信者や追随者になるような教祖や導師には出会わなかったし、もし出会っていても、信者になったり、追随者になったりはしなかったということだ》

“ファシズムの危機”とは、いつもヒットラーやスターリンの顔をしてやってくるのではない。

<オウム真理教>や<テロとの戦い>もファシズムの兆候なのだ。

大橋氏も言うように;
《ハメルンの笛吹きに従い、「以後幸せに暮らしました」という状態を求める人びとに、警鐘を鳴らすこと、歯止めをかけ批判すること。ここで求められるものこそ、「教師などいない」という発言であろう。それは「私は信じない、自分の判断で批判する」ことの、あるいはそれは「私はエグザイルだ」の、言い換えである》


ぼくはずっと、<誰を中心に読むか?>を考えてきた。
“すべての本”を読むことは、できないから。

今年の目標は決定した;

立岩真也+サイード+中上建次+ル・クレジオ(デュラス)である。

そして“戦後ドイツ”の気になる人=ギュンター・グラスへ、『玉ねぎの皮をむきながら』(集英社2008)をまず読むことで、とっかかりたい。