★ 高度成長がもたらした社会はこうして全面的に自己を肯定する<同一者>となり、この社会をトータルに批判するような人間も言説も出現しなくなる。
★ バブルと消費文化のなかで、社会はその<同一性>を人びとに享受し、確認するように迫るが、そこで注目すべきは精神と身体の比率が書き替えられることである。快楽にせよ異変にせよ、「身体性」の次元がもっとも確かな審級――その意味は不明なままだが――になり、精神は身体という現実が残すあいまいな痕跡や恣意的なずれとなったのである。
★ 1980年代にこの社会は身体にかかわる欲望や想像力の可能性を一気に膨張させる。
★ ハイテクノロジーであれ、宗教的な幻想であれ、性的な欲望であれ、身体はそれらの技術や幻想や欲望が徒に(いたずらに)もてあそぶ対象となったのである。社会はわれわれの生を肯定し、享受することを強いるが、その生の内実はこの玩具のような身体をベースにして消費の文化の主体となることである。
★ オウム真理教の教祖たちの犯罪も、連続幼女誘拐殺人事件の犯人もその例外ではなかった。彼らの欲望はこの社会が可能にする生の<同一性>の延長線上にその欲望を膨らませ、その<同一性>の暗澹たる模造を描いてみせた。
★ 彼らの物語と社会の現実は競合しあう異形の双子として、たがいの夢のなかに棲みつくのである。
★ 彼らの修業や犯行は身体に固執する欲望をそのまま生を肯定する形式につないでいるが、それはこの社会の想像力や文化の<同一性>に同調するものでしかない。彼らはこの社会の<同一性>の破局を見せたのではなく、その同一性がどのように無残なものかを展開して見せたのである。
★ すでに否定性や、欠如や、外部、あるいは危機や悪の要素は次々に枯渇し、漂泊させられ、社会はその明るい生の全面的な自己肯定によって<同一者>となっている。そこに存在しているのは、欠如を克服し、他者を払い除け、自己充足のうちにある社会だが、見方を変えれば、この社会には欠如が欠如している。たえず欠如や他者の模擬をつくりだし、それを何とか処理することもその一つの現れである。そこでは特定の何かが欠如しているのではなく、社会の全面にわたって何物でもない何かが欠如している状態であり、生の根底は「やるせない同一性」に支配されている。
★ 社会の<同一性>はここで何か危機的状況にあるのではなく、カタストロフィの状態に入りこんでいる。それは切実な破綻――堕落すること、死滅すること、罪を犯すこと――の意識もなく実現するカタストロフィであり、これという理由もなく、空洞を生きる生の断片があちこちに分節されていく。
★ 一人のOLの「イツ 死ンダッテ 構ワナイ」というやるせない性の売買、一人の少年の「アレハ ボクノ ツクリバナシ デス」という殺人の動機、それ自身の死を象徴する「絵記号」の上に成立する風景。社会の<同一性>の先端にはそうした小さな生の廃墟が抱えこまれている。
<内田隆三;“廃墟”-『国土論』(筑摩書房2002)>
<注記>
上記内田隆三『国土論』の引用部分は、“第4部廃墟”の‘はじめに’からの引用である。
この“第4部”はこの本の“最後の部分”である。
上記引用個所には直接出てこないが、ここでは、“1997年の春のごく短い期間に起こった”三つの事件が取り上げられている;
① 長崎県諫早湾の干潟が有明海から切断された(“海の死と記号の国土”)
② 神戸市郊外ニュータウンでの児童殺傷事件(“異神と少年”)
③ 東京渋谷ホテル街周辺アパートでのOL殺害事件(“都市と「私」のカタストロフィ”)
<補足>
上記引用部分だけでは、この『国土論』の魅力が伝わらないことをおそれる(笑)ので、“諫早湾の干潟”に関する記述も引用しよう;
★ 乾いた土の上に点在する大きな石ころにも、この白い貝殻が隈なく層をなしてこびりついていた。支えを失った貝殻は必死になって別の貝殻の背中にすがりついている。白い貝殻が次々に重なって伸びていく姿は、石塊に咲く奇花のように見えた。すでに海の生き物は見えなかった。生暖かい風が吹くなかで、土手の向こうの水田からやってきたと思われる昆虫や蜘蛛と、それを狙う獰猛な蛙が素早く足もとを掠めていくだけだった。白い死の花の広がりに足を踏み入れ、自分の方向感覚が狂うたびに、ここはどこなのかと、妙な目眩がした。
★ 西の諫早からみれば、有明の海を挟んで東側に筑後柳川の町がある。立花氏の城下町であった、この水郷を想像の舞台にして福永武彦は『廃市』という小説を書いている。いつか時間が滞り、ひそかな腐敗を続ける美しい町に、ある夏休みを過ごした学生の思い出が遠い追憶として記されている。後に大林宣彦がこの作品を映画化するのだが、そのなかに主人公の姉妹の一人、夏目傘をもって家を出た安子さんが、自転車に乗ってやってきた魚売りからメカジャやクツゾコを買うシーンがあった。それは悲劇の寸前、夏の日のまだ平和な一ときのことであった。
(柳川の南半里ほどにある沖ノ端で北原白秋は生まれた)
★ このような観点から興味深いのは、習俗の地層と文学表現のねじれのなかに身を置いた北原白秋自身の「海」の記憶であり、その海の記憶をよぎる「恐怖」の感覚である。幼い白秋は干潟の海の濁った土壌の匂いに身を浸しながら育った。白秋にとって最初の海の印象は彼が乳呑み子のころ、自分を抱いて船から降りた人の「真っ白な蝙蝠傘の輝き」であり、その「痛いほど眼に沁んだ白色」をその後も忘れることができなかったという。そして第二の印象は乳母の背中から見た干潟の海である。(略)そのとき彼が乳母の背中から見ていた海は、濁った黄色い象の皮膚のようであったという。
★ にくいあん畜生は紺屋(こうや)のおろく、猫を擁えて(かかえて)夕日の浜を
知らぬ顔して、しやなしやなと。
にくいあん畜生は筑前しぼり、華奢な(きゃしゃな)指さき濃青(こあお)に染めて、
金の指輪をちらちらと。
にくいあん畜生が薄情な眼つき、黒の前掛け、毛繻子(けじゅす)か、セルか、
博多帯しめ、からころと。
にくいあん畜生と、擁えた猫と、赤い入日にふとつまされて
潟に陥つて(はまって)死ねばよい。ホンニ、ホンニ……
(北原白秋;“紺屋のおろく”)
<内田隆三;“海の死と記号の国土”-『国土論』>