Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

シネマ

2010-05-05 14:11:39 | 日記


★ 世界が、もはや信じるにたりないひとつの悪しき映画になってしまったとすれば、真の映画は、消えた世界と身体を信じる理由をわれわれが取り戻すのに寄与することができるのではないか。

――ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』(宇野邦一『映像身体論』から引用)




★映画の最高のテーマのひとつは、いまでも<悪>である。

――宇野邦一(『映像身体論』)








<雑感>

☆ ここからは<引用>ではなく(笑)、ぼく=warmgunの感想もしくは意見である。

☆上記の宇野邦一の言葉について。
 もちろん、なにを<悪>と呼ぶのかは、明確でない。
 すなわち、なにを<善>と呼ぶのかも、明瞭でない。

☆ “この世界”を、“悪のグラデーションのように”想像=認識することも、できる。

☆ 悪を、“悪の枢軸”と呼ぶように、自分とはちがった“個人”や、ある人々の集団とかシステムだと考えることも、できる。

☆ あるいは、悪を、だれにも“ある程度”あるものと、考えることも、できる。

☆ だから、“悪をテーマとする”(思考の、創作の)というのは、ただしい。

☆ この世界や人が、“究極に(終末に、ENDに)”悪であるか、善であるかが、結論づけられているのではない。

☆ これは、“あたりまえ”ではない。
多くの“思想”は、“すでに”この結論を持っている。

☆ おおくのひとは、この世界や他者が“善意である”と結論づけたがっている(ではないか?)

☆ むしろ“この世界”に、事件としての悪が、頻出すればするだけ、“善意の人々”は、世界の究極に<善>が約束されていると、“言おうとする”。

☆ あるいは、“悪の相対性”について、シニックに(冷笑的に)語る。

☆あるいは”悪も善もなく”、すべてにバカ笑いしている(”笑っていいとも!”)

☆ そのような“態度”に対して、<悪をテーマとする>ことは、真実への探究を手放さない態度である。

☆ いま、宇野邦一の『意味の果てへの旅』に次ぐ2番目の本『風のアポカリプス』(青土社1985)がAmazonマーケットプレイスから届く。

☆ “1985年”は昔である(笑)、ぼくはこの本を持っていたことがあるような気がする。
だが、すでに、手元になかった。



この本の最初=“ゲームの規則”に宇野氏は書いた;

★ なぜ批評なのだろうか。

★ なぜこの本は、「押し出しのいい、ふとっちょのバック・マリガンが、シャボンの泡のはいっている椀を持って、階段のいちばん上から現れた。」というふうにも、「わたしの名はイシュメイルとしておこう。」というふうにも始まらず、すでに書かれた本をめぐって、あるいはすでに書かれた本を読みながら、そこに見出される言葉の格子を通じてのぞかれた世界をめぐって、書かれるのだろうか。

★ 生の直接性はあらかじめ失われている。

★ おそらく批評家は存在すべきではないし、批評は引き裂かれるべきなのだ。直接性はいたるところで間接性にからめとられているが、批評は、それでも間接性の迷路を、直接性に向けて変形し、どんなジャンルも保存しようとしない生成や移動や変化として機能しなければ、ジャンルによって直接性を奪い続ける間接性にまたも、してやられてしまうだろう。

★ 間接性にうめつくされたこの国で、停止しないためには、直接性の死と、死の直接性の接線のような場所に神経を触れ、拡げなければならないにちがいない。

★ だから、この本はやはり「Kが到着したのは、夜もおそくなってからであった。」というふうには、はじまらない。

<宇野邦一;『風のアポカリプス』>




ぼくたちは“アメリカ”を知らない

2010-05-05 12:07:43 | 日記


内田樹最新ブログから引用する;

《私のアメリカ論の中心テーマは「日本人はアメリカ人の気持ちになることができない」というものである。
つよい心理的な抑制がかかっていて、私たちはアメリカ人に共感することができない。
いや、私はアメリカ人のことがよくわかっている、とおっしゃる方も大勢おられるであろう。
彼らが言っているのは、「外から見たときの」ある種の「パターン」についてである。
私が訊きたいのは、そういうものではない。
アメリカの国民的なアイデンティティーの中核部分を形成している「西漸の情熱」「旧大陸への憎悪」「武装権」「キリスト教原理主義」「先住民虐殺事実の忘却」「ニューカマーへの組織的迫害」「女性嫌悪」といった一連の行動を生み出す「胎」のようなものに私たちの想像力は届くのか、ということである。
この「アメリカ的なものの胎」に触れることをめざす研究者は私の知る限りほとんどいない。
ほとんどのアメリカ専門家はすでに制度化し物質化した「アメリカ」については詳しい。けれども「アメリカ」をそのようなものたらしめた本源的な力については言及しない。
それは富士山の造型や植生や登山ルートについては詳しいが、富士山をそのようなものたらしめた地下のマグマの状態については何も語らない人に似ている。
その「胎」のごときものの蠢動を感知し、それに部分的に共振できるような身体をもつ人の語る「アメリカについての言葉」を私は聴きたい。》
(以上引用)


ここで述べられていることを、ぼくは基本的に了解する。

そのうえで言いたい。

ぼくたちは、“アメリカ”を知らない。
だが、ぼくたちは“日本”を知っているのか?

むしろ問題は、こういうことではないか。
同じ“知らない”であっても、“他国”を知らないことと、“自国”を知らないことには、大きな“差異”がある、と。

内田樹の言葉(概念)を参照すればぼくたちは、

《けれども「日本」をそのようなものたらしめた本源的な力については言及しない。
それは富士山の造型や植生や登山ルートについては詳しいが、富士山をそのようなものたらしめた地下のマグマの状態については何も語らない人に似ている。》

“自国を知らずして、他国を知ることはできない”などという、当たり前のことを、ぼくがわざわざ言う必要がどこにあるのか?
ぼくは<日本国>につての“雑学”にやたら詳しくなろう、などとは言わない。

“自国”があるのは、“他国”があるからである。

だから柄谷行人や宇野邦一が言っているように、ぼくたちが“考える”のは、“考えることができる”のは、他国と自国の<境界>に立つことによってのみである。

このことは、ぼくたちが“考える”のは、“考えることができる”のは、他者と私の<境界>に立つことによってのみである。


《その「胎」のごときものの蠢動を感知し、それに部分的に共振できるような身体をもつ人の語る「日本についての言葉」を私は聴きたい》

しかし、“そのような言葉”をこの国で、戦後語ったひとが、“いなかった”のでは、ない。

大江健三郎、中上健次。

今日も、柄谷行人、内田隆三、宇野邦一を、読むことが“できる”。




彼――きみはニッポンで何も見なかった。何も。

彼女――私はすべてを見たの。すべてを。





ダイアローグ

2010-05-05 10:05:18 | 日記


彼――きみはヒロシマで何も見なかった。何も。

彼女――私はすべてを見たの。すべてを。


<マルグリット・デュラス;『ヒロシマ私の恋人』(ちくま文庫1990)>
* 原著:“Hiroshima mon amour”1960
* アラン・レネによる映画1959







★ 歴史上のさまざまな破局が映像に記録され、映画によって語られてきた。戦争、破壊、虐殺、収容所の“真の”映像と、“真に迫る”映画の莫大な蓄積は、そのまま現代史であり、そのまま映画史を構成している。もはや資本主義の希望、あるいは社会主義の希望についての映画も、来るべき正義についての映画も、恐怖、革命、自由、恋愛についての映画も、映画についての映画さえも、つくるにはおよばない・・・・・・と書いたテクストを『トラック』をめぐる対談で読み上げるデュラスは、あのヒロシマについての映画のシナリオ作家でもあった。それは歴史的な災厄と暴力の非人称性を、あくまで顔をもち、感情をもつ個人対個人の次元に引き降ろそうとする不可能な試みであった。

<宇野邦一:『映像身体論』2008>





子供の映画;子供の日に

2010-05-05 09:47:45 | 日記


★ しかし子供の善意と大人の無理解が対立しているわけではない。ふたつの異なる時間と、異なる知覚が対立している。命令する言葉から脱落した時間と知覚が、徐々に広がっていく。日が暮れてくる。家のあいだの細い、曲がりくねった暗い道を、子供は歩いていく。たったひとり親切に友だちの家をさがしてくれる老人は、家具職人で、もう何十年も前から、美しい透かし彫りをほどこした窓を、近所の家のいたるところにつくっている。その透かし彫りから放たれる光の間を、子供と老人は歩いていく。友だちの家は結局見つからない。見つかったのは、別の時間であり、別の世界である。ひとつの世界そのもの、透かし彫りの窓から漏れてくる光、そこから来るまなざしのようなものである。そのまなざしの刻印であるかのように、老人は小さな花を子供に贈り、友だちのノートに挿ませる。

★ それにしても、これはまるで他愛のない、些細な「友だち」の物語だとしても、それが「友」をめぐる物語であることは重要なのだ。「友」は別な時間、別の知覚を示している。そういう時間と知覚のなかに入っていかなければ、友は得られない。それを「神」と呼ぶ人もあるかもしれない。しかしこの「神」が父であるのと、友であるのとでは、まったく事情が異なってくる。

★ 透かし窓を通じて漏れてくる光、単純だけれど繊細な装飾模様の繰り返しによって形とリズムを得た穏やかな光の波は、『恋する虜』のなかでジャン・ジュネがイスタンブールで見たという不思議な光を思い出させるのだ。長い、奇妙な孤独を通過したあと、ジュネは「他人の眼差し」に「われわれみんなを結びつけるべき絹の細い糸をさがしているようだった」。そういう状況のなかで、彼の個的存在は、ほとんど表面も体積も失っている。

★ 子供が老人とともに曲がりくねった細い道を歩くときの、あの透かし窓に透過され、形とリズムを与えられた光こそが、「友」であったといってもいい。子供と老人のまなざしを通じて、その光は、映画のなかに射し込んでくる。それは神の啓示などでなくてもいい。子供と老人の目に映るこの光は、大人も照らしているのに、それは大人には見えてこない。子供はそれを見ているのに、それが何か知らないまま大人になっていく。『友だちのうちはどこ?』は、そういう光の物語であるといってもいいのだ。

★ 多くの場合、イランの地方の民衆や子供の生活を、<そのまま>映画にするかのようなキアロスタミの芸術にとって、<民衆>とはいったい何だろうか。日本の都会で、彼の映画を見る私たちは、ただ素朴な民衆の生活に憧れ、あるいは懐かしみ、癒されているにすぎないのか。

★ 民衆、庶民、人民、群集、プロレタリアート、マイノリティ・・・・・・群れや集団を示すあらゆる言葉が、よれよれになり、擦り切れそうになっている。映画の状況は、このこととけっして無関係ではありえない。

★ そしてキアロスタミの場合、<子供>の映画であるということが、<民衆>の映画であるという要請に重なる。(略)子供のまなざし、身振りは、社会的なものの外から社会を見つめている。子供は純朴な天使ではなく、野生の群であり、社会の外にありながら、みずから集団を形成する力をそなえているように感じられる。子供は、宿題を強制される。宿題の目的とは、学習である以上に、規律、命令に服従しうる身体を形成することなのだ。子供の身体は、そのような規律や命令の外の、別の学習を求めているのだ。

★ 子供が「なぜ」と問うとき、「なぜ空は青いの」「誰が地震を起こすの」と問うとき、子供は大人以上に無知であるわけではない。子供は何かを感じているが、ただ感覚に満たされたまま言葉の外にいて、しかも質問するための言葉をもっている。たとえ大人の答えが納得のいかないものでも、問いに答えるという行為さえしてくれるなら、それで十分なのだ。子供はしだいに感覚ではなく、言葉で満たされていく。子供は、言葉と感覚の境界にいる。映画は、この境界の経験に降りていくことができるかもしれない。

<宇野邦一;『映像身体論』(みすず書房2008>




ジュネ『シャティラの四時間』について

★「誰も、何も、どんな物語のテクニックも、ヨルダンのジェラシュとアジルーンの山岳地帯でフェダインたちが過ごした6ヶ月、とりわけ最初の数週間がどんなふうだったか伝えることはできないだろう」。ジャン・ジュネは、レバノンのパレスチナ人が無差別に虐殺された直後に、その凄惨な場面を目撃して、こう書き始めている。ジュネがパレスチナの兵士たちと過ごした最初の数週間とは、いわば軽やかさ、透明さ、至福のときである。それから始め、やがて彼はパレスチナ人たちをおそった惨劇について、折り重なる死体について何とか書こうとするのである。「愛と死、この二つの言葉は、どちらか一つ書くとたちまち結びつく。愛の猥雑さと死の猥雑さに気づくために、私はシャティラに行かなくてはならなかった。どちらの場合も身体はもう何一つ隠すものがない」。


ゴダール『JLG/自画像』について

★ ゴダール自身のナレーション、さまざまな書物の朗読、学習ノートに書かれた文字、テレビに映った映画のシーン、映像なしに音声だけ流される映画のシーン、画家たちの描いた女性像、電話のベル、湖の風景、鴎の鳴き声、ゴダール自身の叫び、こういった要素が、めまぐるしく交差し、やがて私たちは映像を聴き、音声を見るようになっている。
★ はじめに子供のジャン=リュックとおぼしいモノクロ写真が映っている。語り始めるゴダールは、いつも影の中にあり、ときに幽霊のような息絶え絶えの声で語る。弦楽四重奏がそれにかぶさる。子供の写真をのぞけば、この映画がゴダール自身についての映画であることは、ほとんど明示されない。回想も、物語も、自己分析もない。ヨーロッパ統合や文化産業への批判が述べられるが、それが中心のテーマであるというわけでもない。しかし、死について、愛についての省察の方は、まじめに受けとるしかない。

<宇野邦一;『破局と渦の考察』(岩波書店2004)>