★ 世界が、もはや信じるにたりないひとつの悪しき映画になってしまったとすれば、真の映画は、消えた世界と身体を信じる理由をわれわれが取り戻すのに寄与することができるのではないか。
――ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』(宇野邦一『映像身体論』から引用)
★映画の最高のテーマのひとつは、いまでも<悪>である。
――宇野邦一(『映像身体論』)
<雑感>
☆ ここからは<引用>ではなく(笑)、ぼく=warmgunの感想もしくは意見である。
☆上記の宇野邦一の言葉について。
もちろん、なにを<悪>と呼ぶのかは、明確でない。
すなわち、なにを<善>と呼ぶのかも、明瞭でない。
☆ “この世界”を、“悪のグラデーションのように”想像=認識することも、できる。
☆ 悪を、“悪の枢軸”と呼ぶように、自分とはちがった“個人”や、ある人々の集団とかシステムだと考えることも、できる。
☆ あるいは、悪を、だれにも“ある程度”あるものと、考えることも、できる。
☆ だから、“悪をテーマとする”(思考の、創作の)というのは、ただしい。
☆ この世界や人が、“究極に(終末に、ENDに)”悪であるか、善であるかが、結論づけられているのではない。
☆ これは、“あたりまえ”ではない。
多くの“思想”は、“すでに”この結論を持っている。
☆ おおくのひとは、この世界や他者が“善意である”と結論づけたがっている(ではないか?)
☆ むしろ“この世界”に、事件としての悪が、頻出すればするだけ、“善意の人々”は、世界の究極に<善>が約束されていると、“言おうとする”。
☆ あるいは、“悪の相対性”について、シニックに(冷笑的に)語る。
☆あるいは”悪も善もなく”、すべてにバカ笑いしている(”笑っていいとも!”)
☆ そのような“態度”に対して、<悪をテーマとする>ことは、真実への探究を手放さない態度である。
☆ いま、宇野邦一の『意味の果てへの旅』に次ぐ2番目の本『風のアポカリプス』(青土社1985)がAmazonマーケットプレイスから届く。
☆ “1985年”は昔である(笑)、ぼくはこの本を持っていたことがあるような気がする。
だが、すでに、手元になかった。
この本の最初=“ゲームの規則”に宇野氏は書いた;
★ なぜ批評なのだろうか。
★ なぜこの本は、「押し出しのいい、ふとっちょのバック・マリガンが、シャボンの泡のはいっている椀を持って、階段のいちばん上から現れた。」というふうにも、「わたしの名はイシュメイルとしておこう。」というふうにも始まらず、すでに書かれた本をめぐって、あるいはすでに書かれた本を読みながら、そこに見出される言葉の格子を通じてのぞかれた世界をめぐって、書かれるのだろうか。
★ 生の直接性はあらかじめ失われている。
★ おそらく批評家は存在すべきではないし、批評は引き裂かれるべきなのだ。直接性はいたるところで間接性にからめとられているが、批評は、それでも間接性の迷路を、直接性に向けて変形し、どんなジャンルも保存しようとしない生成や移動や変化として機能しなければ、ジャンルによって直接性を奪い続ける間接性にまたも、してやられてしまうだろう。
★ 間接性にうめつくされたこの国で、停止しないためには、直接性の死と、死の直接性の接線のような場所に神経を触れ、拡げなければならないにちがいない。
★ だから、この本はやはり「Kが到着したのは、夜もおそくなってからであった。」というふうには、はじまらない。
<宇野邦一;『風のアポカリプス』>