ここに再録するブログをぼくは今年2月に書いた。
けれども、ぼくは毎日、Jimi Hendrixを聴いているのでは、ない。
このところの、ぼくの“テーマ”は、ニーノ・ロータによる、「太陽がいっぱい」のあるシーン(とても印象的なシーン)に使われていた“カンツォーネ”的なメロディーである。
<われわれは混血種である>というメッセージは、<国>を横断する。
<時代>を横断する。
<場所と時間>を“横切って”行くのだ;
“Jimi Hendrix , Rock’n’roll Nigger
Nigger, nigger,,nigger ,nigger , Rock’n’roll Nigger“
と、パティ・スミスは歌った。
ジミは純粋な“ニガー”ではない、チェロキー・インディアンの血をひく。
昨日ぼくが“知性がなければロックじゃない”と書いた時、そこに掲げる<写真>で考えた。
たとえば“知的なロッカー”の肖像なら、ボブ・ディランやジョン・レノンやブライアン・ウィルソンやジム・モリソンでもよかった。
ジミ・ヘンドリックスは“知的な”イメージではなかった。
彼の<詞>はこうだ;
《紫の煙がぼくのブレインにたちこめる》
《彼女はフォクシー・レディだ》
《次は火だ》(ギターに火を放つ)
彼のパフォーマンスは、“野蛮”であった。
彼のブルースには、“黒人の悲しみの屈折”が欠如していた(笑)
彼のギター、まさに彼のギターこそ、うねった、叫んだ。
彼の大観衆の前での最後のステージだったと思われるウッドストックにおいて、ヒット曲の演奏(そのなかには、あの星条旗をギターで引き裂く曲もあったが)の最後に彼が弾いたのはインディアンの旋律を彷彿とさせる曲だった。
(ウッドストック映画のエンドタイトルバックに流れ、ジミ・ヘン“ウッドストック”CDの最後で聴ける)
かつてボブ・ディランは、“All along the watchtower”のジミ・ヘンドリックスによるカヴァーを、“自分が表出したかったことを実現した演奏”と絶賛した。
ディランは、“ロック・オブ・ザ・フェイム”選出記念ライヴで、3人のギタリストによる“All along the watchtower”の演奏によって、ジミ・ヘンドリックスに“応えた”(すなわち3対1である、この演奏も素晴しかったが)
マイルス・デイヴィスが、“俺はその気になれば世界最高のロック・バンドを実現してみせる”と豪語したとき、かれが招くべきリード・ギタリストはジミ・ヘンドリックスであった。
ジミの死で、この夢はついえた。
<ロックン・ロール・ニガー>とは何か。
それは“黒人であること”でも“インディアンであること”でも”差別民であること“でもない。
ぼくらは“虐げられた人々”や“差別されるひと”や“ハンディを持ったひと”に同情したり、彼らを“差別しない”のでは、ない。
ぼくたち自身が、“そういうひとの一人”だからである。
それは他人の問題ではなく、自分の問題だからである。
ロックには、さまざまな<叫び>があった。
原始時代の人々は、動物のように叫んだだろうか。
その叫びのなかから、音楽や言葉が生まれたのだろうか。
ジミ・ヘンドリックスのギターは叫んでいた。
だが、バッハは叫ばなかっただろうか。
彼は、若い妻への“練習曲”として、あの鍵盤楽器曲を書いたのだろうか。
このメディアによる拡散とグローバル商業主義がすべてを<商品>にするとき、人間を<商品>とするとき、あらゆる亡霊のような叫び声が、よびかける。
“Jimi Hendrix , Rock’n’roll Nigger
Nigger, nigger,,nigger ,nigger , Rock’n’roll Nigger“
ニーチェが狂気とのたたかいのなかで夢見た<超人>は、“ナチス=純血種”においてではなく、<わたしたち=ロックンロール・ニガー=真理の犬=混血種>において実現する。
ぼくが考える<超人>とは、ミュータント的突然変異種ではなく、<人間の記憶=歴史>を保持したまま“人間を超えるもの”である。
<哲学>と<科学>は、生きるための<道具>であり、ジーンズのように履きつぶせばいい。
<文学(読むこと-書くこと)>は、生きていることの証し=ドキュメントである。
ぼくたちは、すでに、混血種である。
“Jimi Hendrix , Rock’n’roll Nigger
Nigger, nigger,,nigger ,nigger , Rock’n’roll Nigger“