Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

美しい夏、美しかった女たち

2010-05-31 14:56:16 | 日記


★ あのころはいつもお祭だった。家を出て通りを横切れば、もう夢中になれたし、何もかも美しくて、とくに夜にはそうだったから、死ぬほど疲れて帰ってきてもまだ何か起こらないかしら、火事にでもならないかしら、家に赤ん坊でも生まれないかしらと願っていた、あるいはいっそのこといきなり夜が明けて人びとがみな通りに出てくればよいのに、そしてそのまま歩きに歩き続けて牧場まで、丘のむこうにまで、行ければよいのに。「あなたたちは元気だから、若いから」と人には言われた、「まだ結婚していないから、苦労がないから、無理もないわ」でも娘たちのひとりの、片足を引きずって病院から出てきて、家にはろくに食べ物もなかったあのティーナ、彼女でさえわけもなく笑った、そしてある晩などは、小走りにみなのあとをついてきたのが、急に立ち止まって泣き出してしまった、だって眠るのはつまらないし楽しい時間を奪われてしまうから。
<パヴェーゼ;『美しい夏』(岩波文庫2006)、オリジナル1940)



★ 「愚かさゆえに滅ぶのは、《唯我論者国家》のめざすところではないでしょう?そうやって自分の体をばらばらにして、それで自分が不死身だとでも証明した気なの?遠近法を狂わせた記憶を自分に植えつけて、永遠に生きてきたつもりになっているわけ?わたしは、安っぽいまやかしの不死なんて願いさげよ。ほんものがほしいの」
<グレッグ・イーガン;『順列都市』(ハヤカワ文庫1999)、オリジナル1994)



★サン・マルタン・ヴェジュビ 1943年夏
水の音が聞えてくると、冬が終わったことを、彼女は知った。冬のあいだ、雪は村を蔽い、家々の屋根や牧草地は真白だった。軒端に氷がつららをつくった。やがて太陽が熱く燃えだし、雪が融け、軒端という軒端、梁という梁、また木々のすべての枝から、水が一滴々々滴り始め、水滴が集まって小さな流れとなり、流れは小川となり、水は、村の道という道を楽しげに、滝のように流れ下っていった。
いちばん古い思い出は、たぶんその水の音だろう。
<ル・クレジオ;『さまよえる星』(新潮社1994)、オリジナル1992>





さまよえる星
束の間の恋人よ
おまえの道をたどってゆけ
海を渡り大地をこえ
おまえの鎖を打ち壊せ
  ――ペルー民謡






本を読むロックロール・ニガー

2010-05-31 12:09:38 | 日記


<われわれは混血種である>というメッセージは、<国>を横断する。
<時代>を横断する。
<場所と時間>を“横切って”行くのだ。

“われわれ”には、<文化>の蓄積がある。
それが<日本>だろうと、<世界>だろうとかまわない。
イスラームだろうと仏教だろうとキリスト教だろうと、“かまわない”。
科学だろうと哲学だろうと文学だろうとかまわない。

カントだろうとへーゲルだろうとマルクスだろうとニーチェだろうとフッサールだろうとフロイトだろうとベンヤミンだろうとフーコーだろうとドゥルーズだろうとサイードだろうと柄谷行人だろうと宇野邦一だろうと立岩真也だろうと、かまわない。
シェクスピア、ダンテ、ゲーテ、バルザック、ドストエフスキー、カフカ、プルースト、ジョイス、フォークナー、デュラス、ビュトール、ギュンター・グラス、ル・クレジオ、大江健三郎、中上健次を、“読むべき”である。

ミステリをサイエンス・フィクションをハードボイルドを“時代劇”を“純文学”を“ノン・フィクション”を“ドキュメンタリー”を“伝記”を“日記”を“手紙”を横断すべきである。

“宇宙を科学し”、“世界を科学し”、“社会を科学し”、“生きて在ること”を探究すべきである。

今日も<メディア>は言う;
▼ 日本通のジョン・ダワー米MIT教授(71)が教職を退く。占領期を描いた著「敗北を抱きしめて」について「戦争直後、多くの日本人が様々なレベルで粘り強さと明るさを発揮し、軍事に頼らない平和をつくろうとした姿を描きたかった」。粘りと明るさ。今求められる二つである(天声人語)

しかしこの“粘りと明るさ”とは何か?

“粘りと明るさ”が、現在の<メディア>には、“ありえない”ことが問題なのである。
“メディアの言葉”こそ、敵の言葉であり、とっくに死を宣告された言葉である。

メディアの言葉は、徹頭徹尾、“われわれ”を痴呆化し、われわれの“なけなしの自由のイメージ”を奪う。
われわれの、“最後の場所”を奪いにくる。

メディアは、<事実>も<公共>も<正義>も<真実>も、気の抜けた“まがいもの”にする。
メディアは、<悪>に直面し<悪>について語ることを、いつも誤魔化し続けることによって、<悪>に加担している。

“すべて”を、既成事実の予定調和による“落としどころ”へと誘導する。

だれのために?
みずからの<利益>のために。

みずからの利益の<予定調和>のために“のみ”。

もしまだ人間に<魂>というようなものがあるならば、われわれは、“魂をまだ失っていないひと”の言葉を聞くべきである。

どこからも、<横断>を開始することはできる。

ぼくはこのところ読んでいなかった<小説>を読もうとしている(新しく読むもの、読みかけの本を継続するもの)、たとえば;

☆ グレッグ・イーガン『順列都市』(ハヤカワ文庫)
☆ ジョン・アーヴィング『ホテル・ニューハンプシャー』(新潮文庫)、『サイダーハウス・ルール』(文春文庫)
☆ ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』(集英社文庫)第3部→『玉ねぎの皮をむきながら』(集英社)
☆ 大江健三郎『作家自身を語る』(新潮社)→『僕が本当に若かった頃』(講談社学芸文庫)、『水死』(講談社)
☆ ジョン・ル・カレ『サラマンダーは炎のなかに』(光文社文庫)
☆ ウンベルト・エーコ『フーコーの振り子』(文春文庫)
☆ ル・クレジオ『さまよえる星』(新潮社)、『黄金探索者』(河出書房新社)、『はじまりの時』(原書房)
☆ 三島由紀夫『春の雪』
☆ 中上健次『化粧』(講談社文芸文庫)
☆ 青山真治『帰り道が消えた』(講談社)
☆ フォークナー『アブサロム、アブサロム!』(講談社文芸文庫)
☆ ジョイス『ダブリナーズ』(新潮文庫)、『ユリシーズ』(集英社文庫)
☆ ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』(光文社古典新訳文庫)
☆ デュラス『北の愛人』(河出文庫)→『戦争ノート』(河出書房新社)
☆ ビュトール『心変わり』(岩波文庫)、『時間割』(河出文庫)―再読




再録;ロックンロール・ニガー

2010-05-31 12:06:12 | 日記


ここに再録するブログをぼくは今年2月に書いた。

けれども、ぼくは毎日、Jimi Hendrixを聴いているのでは、ない。

このところの、ぼくの“テーマ”は、ニーノ・ロータによる、「太陽がいっぱい」のあるシーン(とても印象的なシーン)に使われていた“カンツォーネ”的なメロディーである。

<われわれは混血種である>というメッセージは、<国>を横断する。
<時代>を横断する。
<場所と時間>を“横切って”行くのだ;



“Jimi Hendrix , Rock’n’roll Nigger
Nigger, nigger,,nigger ,nigger , Rock’n’roll Nigger“

と、パティ・スミスは歌った。


ジミは純粋な“ニガー”ではない、チェロキー・インディアンの血をひく。
昨日ぼくが“知性がなければロックじゃない”と書いた時、そこに掲げる<写真>で考えた。
たとえば“知的なロッカー”の肖像なら、ボブ・ディランやジョン・レノンやブライアン・ウィルソンやジム・モリソンでもよかった。
ジミ・ヘンドリックスは“知的な”イメージではなかった。

彼の<詞>はこうだ;
《紫の煙がぼくのブレインにたちこめる》
《彼女はフォクシー・レディだ》
《次は火だ》(ギターに火を放つ)

彼のパフォーマンスは、“野蛮”であった。
彼のブルースには、“黒人の悲しみの屈折”が欠如していた(笑)

彼のギター、まさに彼のギターこそ、うねった、叫んだ。
彼の大観衆の前での最後のステージだったと思われるウッドストックにおいて、ヒット曲の演奏(そのなかには、あの星条旗をギターで引き裂く曲もあったが)の最後に彼が弾いたのはインディアンの旋律を彷彿とさせる曲だった。
(ウッドストック映画のエンドタイトルバックに流れ、ジミ・ヘン“ウッドストック”CDの最後で聴ける)

かつてボブ・ディランは、“All along the watchtower”のジミ・ヘンドリックスによるカヴァーを、“自分が表出したかったことを実現した演奏”と絶賛した。
ディランは、“ロック・オブ・ザ・フェイム”選出記念ライヴで、3人のギタリストによる“All along the watchtower”の演奏によって、ジミ・ヘンドリックスに“応えた”(すなわち3対1である、この演奏も素晴しかったが)
マイルス・デイヴィスが、“俺はその気になれば世界最高のロック・バンドを実現してみせる”と豪語したとき、かれが招くべきリード・ギタリストはジミ・ヘンドリックスであった。
ジミの死で、この夢はついえた。

<ロックン・ロール・ニガー>とは何か。

それは“黒人であること”でも“インディアンであること”でも”差別民であること“でもない。
ぼくらは“虐げられた人々”や“差別されるひと”や“ハンディを持ったひと”に同情したり、彼らを“差別しない”のでは、ない。
ぼくたち自身が、“そういうひとの一人”だからである。
それは他人の問題ではなく、自分の問題だからである。

ロックには、さまざまな<叫び>があった。

原始時代の人々は、動物のように叫んだだろうか。
その叫びのなかから、音楽や言葉が生まれたのだろうか。
ジミ・ヘンドリックスのギターは叫んでいた。
だが、バッハは叫ばなかっただろうか。
彼は、若い妻への“練習曲”として、あの鍵盤楽器曲を書いたのだろうか。

このメディアによる拡散とグローバル商業主義がすべてを<商品>にするとき、人間を<商品>とするとき、あらゆる亡霊のような叫び声が、よびかける。

“Jimi Hendrix , Rock’n’roll Nigger
Nigger, nigger,,nigger ,nigger , Rock’n’roll Nigger“


ニーチェが狂気とのたたかいのなかで夢見た<超人>は、“ナチス=純血種”においてではなく、<わたしたち=ロックンロール・ニガー=真理の犬=混血種>において実現する。

ぼくが考える<超人>とは、ミュータント的突然変異種ではなく、<人間の記憶=歴史>を保持したまま“人間を超えるもの”である。

<哲学>と<科学>は、生きるための<道具>であり、ジーンズのように履きつぶせばいい。

<文学(読むこと-書くこと)>は、生きていることの証し=ドキュメントである。

ぼくたちは、すでに、混血種である。


“Jimi Hendrix , Rock’n’roll Nigger
Nigger, nigger,,nigger ,nigger , Rock’n’roll Nigger“