Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

あなたは、“抽象的、観念的”に生きていますか?

2009-03-17 22:36:23 | 日記


とても重要な判決が報じられた(09/02/26);

<靖国合祀取り消し認めず=遺族の法的利益侵害なし-大阪地裁>時事ドットコム
 靖国神社に合祀(ごうし)された戦没者の遺族9人が「勝手に英霊として祭られ精神的苦痛を受けた」として、同神社に合祀者名簿からの削除と1人100万円の慰謝料を求めた訴訟の判決が26日、大阪地裁であった。村岡寛裁判長は「法的利益の侵害がない」として請求を棄却する一方、「合祀には遺族の同意を得ることが望ましい」と述べた。
 戦没者の氏名などを神社に通知し、合祀に協力したとする国への慰謝料請求も退けた。原告側は控訴の方針。
 靖国神社を相手取った合祀取り消し請求訴訟の判決は初めて。同様の訴訟は東京、那覇両地裁でも係争中。
 村岡裁判長は「原告が主張する敬愛追慕の情に基づく人格権は、合祀への不快感や神社への嫌悪感にすぎず、法的に保護すべきだとは認められない」と判断した。
 その上で「合祀は、靖国神社が信教の自由に基づき自由に行うことができる抽象的、観念的行為で、他者への強制や不利益を伴わない」として権利侵害を否定した。
 一方、「遺族以外の者が慰霊行為をする場合、遺族の同意、承認を得ることが社会的儀礼として望ましい」と付言した。
 国の情報提供については、合祀に強制とみられる影響力はなかったとして違法性を否定した。
 原告は、大阪府のほか石川、島根、香川各県などに住む64-82歳の遺族9人。父や兄、叔父ら親族計11人が太平洋戦争で旧日本軍に従軍し、戦死するなどして合祀された。
 遺族は戦没者の氏名を記した霊璽簿(れいじぼ)などから11人の氏名を削除するよう要求したが、神社側は応じなかった。(2009/02/26-12:44)



まず以上のようなニュースの意味を、正確に理解する必要がある。

いらぬお世話であるが、たとえば“ごうし(合祀)”という言葉を、読んだだけで正確に理解できるひとがどれだけいるのか?

すくなくともこのWordは、“ごうし”を変換できない。

ぼくの電子辞書・広辞苑には、この言葉<合祀>がある、引用する;
★ 二柱以上の神・霊を一社に合わせまつること。またある神社の祭神を他の神に合わせまつること。「殉難者を―する」


これを読んで、あなた、わかりますか?(爆)
なんか見慣れない言葉が頻出している;“二柱”、“霊”、“一社”、“合わせまつる”、“祭神”、“殉難者”― ?????????????

“広辞苑”は、もっと分かりやすい“日本語”で説明できないのだろうか!


ついでに新明解国語辞典(1989年版)で“ごうし”を引いてみる;
★ 幾柱かの神・霊を一つの神社に一緒にして祭ること。

短いのは良いが(笑)、なんか、わかったようなわからないような説明である。


上記で分かったのは、“神・霊”というのを数えるのには、“柱”という単位を用いるということ“のみ”であった。

しかし、ぼくに分からないのは、“神・霊”というのはいったいなんのことなのかということ自体である。

もし靖国神社に“ごうし”することが正しいなら、そこに“祀られている”戦争の死者たちは、すべて“神とか霊”に“なった”のであろうか。

これがぼくの“本質的疑問”である。


こんどの判決がおかしいのは、上記の記事では、以下の部分が核心である;

★原告が主張する敬愛追慕の情に基づく人格権は、合祀への不快感や神社への嫌悪感にすぎず、法的に保護すべきだとは認められない
★ 合祀は、靖国神社が信教の自由に基づき自由に行うことができる抽象的、観念的行為で、他者への強制や不利益を伴わない
★ 国の情報提供については、合祀に強制とみられる影響力はなかったとして違法性を否定した。
(いずれも村岡裁判長“判断”)


この裁判はそもそも、靖国神社に自分の愛するひとが“合祀”されていることを認めない人々がおこしたものである。

それが“人格権”ということである。

それを認めない判決は、“人格権”を認めないということだ。

いくら“他者への強制や不利益を伴わない”と判決されても、この“人格権”が認められないなら、その判決は、“他者への強制や不利益”を強制しているではないか。

またその“強制や不利益”をもたらしているものが、この“判決”に具体化されているような、判決としての国家の権力であることも明瞭である。

以上の“ぼくの理屈”は、なにか間違っているだろうか?(笑)
そう思うひとはコメントください。


<追記>

《合祀は、靖国神社が信教の自由に基づき自由に行うことができる抽象的、観念的行為で、他者への強制や不利益を伴わない》


この判決文は何度読んでも不可解である(笑)

①“靖国神社が信教の自由に基づき自由に行うことができる抽象的、観念的行為”
とは、いったいどういう<意味>なのだろうか?

②“抽象的、観念的行為”というのは、なにを“意味する”のだろうか?
“抽象的、観念的行為”というものがあり(定義してほしい)、そうでない“行為”があるのだろうか。
そうならば、“そうでない行為”と“抽象的、観念的行為”の“ちがい”を説明してほしい。

③その上で、なぜ“抽象的、観念的行為”は、“他者への強制や不利益を伴わない”ことになるのだろうか?
まさに<現実>というのは、“抽象的、観念的行為”が、“他者への強制や不利益になる”ということを日々、刻々示しているではないか!


(2/26記)


普通の神経

2009-03-17 08:46:15 | 日記
辞任した久保伸太郎日テレ社長発言;

《「岐阜県や重ねて調査を受けた方々におわび申し上げたい」と陳謝。「テレビ報道とはこの程度のものかと視聴者に評価されたのではないか。その点について心苦しく思っている」と語った》


“心苦しい”

そうですか(笑)

ぼくは、“テレビ報道とはこの程度のものか”とかねがね思っているので、驚きません。


《テレビ報道については、「この十数年で影響力が増大し、注目度が高くなった」と指摘。社内の危機意識の薄さが辞任につながったことを示唆した》(アサヒコム)

“注目度が高くなった”から“危機意識”がなくなるのね。



今日の言葉;

★ 普通の神経なら粗衣粗食で失態を恥じるところだが、ウォール街流は違うらしい。賞与の最高額が6億円超と聞けば、「欲に手足」ぶりも極まった感がある(天声人語)

★ この歳月、私たちは何を手にし、何をなくしたのだろう(読売・編集手帳)


もちろん“普通の神経”なんかないのさ。

飽食して、“神経”がマヒしたマスメディア。



ブンガクが分かる人とは誰か

2009-03-17 00:20:37 | 日記
今日(2/19)の“わが国を代表するメディア”の“へそ”を読もう;

まず読売新聞;

<2月19日付 編集手帳>
 原作の小説は夢中で読みふけったのに、映画には食指が動かない、そういう作品がある。猟奇殺人を描いたT・ハリス「羊たちの沈黙」や、恐竜が人を襲うM・クライトン「ジュラシック・パーク」は映画では見ていない。流血の場面を苦手にしている◆「いい年をして」「男のくせに」とばかにされても映画ならば見ずに済ます手もあるが、裁判員になるとそうもいかない。動悸(どうき)にあえぐ経験もするだろう◆東京都江東区のマンション自室で2部屋隣に住む女性を殺害した男に、きのう、東京地裁で無期懲役の判決が言い渡されたが、証拠調べでは遺体断片の写真が大型モニターに映し出されたという。そういう法廷にも裁判員は立ち会うことになる◆「市民の社会常識」をプロの裁判官が自前で身につけてくれさえすれば、心臓に悪い経験を市民が味わう必要もないわけで、アマの手を煩わせないと職務が全うできないプロとは何なのさ…と、制度の始まる前から愚痴のひとつも言ってみたくなる◆裁判員に選ばれたらきっと残酷な場面にも耐性ができて、見る映画の間口が広がるだろう。別に、うれしくもない。
(以上全文引用)

<感想>
まず、“「いい年をして」「男のくせに」”とばかにしたい。
ぼくはこうことを言う“男”が信じられない。
なぜ“流血の場面”を本で読むのは耐えられるのに、映画で見るのは耐えられないのだろうか?
しかもそれを裁判での“心臓に悪い経験”に結びつける。
しかし、裁判員制度の問題点はそんなところにはない。
もしそんなことで、裁判員制度から逃げるなら、ぼくたちは“現実”から逃げることになる。
“ガザ”では(あるいは世界の無数の場所で)、“残酷な場面”が日々現前している。
あるいは“残酷な場面”は、流血の惨事のみではない。
少なくともマスメディアで文章を書く人間が、“現実の残酷さ”から眼を背けて、いったいなにが“書ける”のか。

しかも、それだけではない。
この文章を書いている人は、“読書体験”と“映像体験”について、少しも考えていない。
それはどう違うのか、違わないのか。
この“映像”の時代に、この問題についてまったく鈍感であることは、あらゆる問題について鈍感であることである。
この筆者は“現代”に生きていない。
マスメディアで何かを書く人が、“現代の問題”に対する感性をまったく喪失して文章を書き続けることこそ、“眼を背けたくなる”場面なのである。

“残酷な場面を見ること”、残酷な場面を(文章であろうが、映像であろうが、想像であろうが)“直視すること”こそ必要である。
それは“残酷な場面にも耐性ができて、見る映画の間口が広がるだろう”などということとは、まったく違う。
それは<世界>を認識することによって、この世界の残虐を阻止するための第一歩にすぎない。
まさに、ほんとうに“残酷な場面”を<見る>ならば、けっして、それに対する“耐性”などというものが形成されるはずがない。
多くの映画の残酷な場面など、ただの赤インキをぶちまけた映像にすぎない。
“残酷な場面”を見ること、それに対する想像力を持ちうることこそ、“人間”としての最低のモラル(尊厳)である。
それを回避するのは、“ジャーナリスト”失格であるだけでなく、もちろん、 “男=man”であるはずがない。



次は天声人語;

ドイツの作家で医師でもあったカロッサは、第1次大戦に従軍して『ルーマニア日記』を書いた。軍医として人と戦争を冷静に見つめた日記を読んで、ある一節に傍線を引いたことがある▼それは一人の兵が、「無意味な榴弾(りゅうだん)の爆発のためにたちまち破裂してしまうようなものが、どんな精神的統一体だというのだ?」と、人間のはかなさを嘆く言葉である(高橋健二訳)。尊厳にみちた精神と肉体が、わずかな火薬で粉々に消える――。深い嘆きは、戦争という虚無への呪いでもあっただろう▼その一節を、イスラエルの文学賞、エルサレム賞を受賞した村上春樹さんの記念講演で思い出した。村上さんは人間を「壊れやすい卵」にたとえた。パレスチナ自治区ガザへの攻撃などで失われた命に、「割れた卵」を重ね合わせたようである▼透き通るような殻に、人を人たらしめるものが詰まっている。それが比喩(ひゆ)のイメージだろう。卵を砕く体制のことは「壁」になぞらえた。「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」と強調したそうだ。そう、割れた卵は二度と元に戻らない▼イスラエルによるガザ攻撃では1300人が死亡した。受賞辞退を求める声も出たが、「沈黙より、メッセージを伝えることを選んだ」という。表現者としての重い決断だったに違いない▼殻より薄い皮膚に包まれた命を思えば、人が武器を向け合うむごさに想像の至らぬはずはない。村上さんの言葉が、憎悪の連鎖を断ち切れない大地に深く染みていってほしいと願う。
(以上全文引用)

<感想>
ぼくは村上春樹氏の発言が報じられてから、それを天声人語がどう扱うかを楽しみにしていた。

予想通りの文章が出た(笑)

天声人語はぼくの予想通り、村上氏の発言を、“読み間違えた”。
先日の村上氏の発言を再引用する;

★体制を壁に、個人を卵に例えて、「高い壁に挟まれ、壁にぶつかって壊れる卵」を思い浮かべた時、「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」と強調した。
 また「壁は私たちを守ってくれると思われるが、私たちを殺し、また他人を冷淡に効率よく殺す理由にもなる」と述べた。
(アサヒコム自体から引用)

★わたしが小説を書くとき常に心に留めているのは、高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵のことだ。どちらが正しいか歴史が決めるにしても、わたしは常に卵の側に立つ。壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか。
★高い壁とは戦車だったりロケット弾、白リン弾だったりする。卵は非武装の民間人で、押しつぶされ、撃たれる。
★さらに深い意味がある。わたしたち一人一人は卵であり、壊れやすい殻に入った独自の精神を持ち、壁に直面している。壁の名前は、制度である。制度はわたしたちを守るはずのものだが、時に自己増殖してわたしたちを殺し、わたしたちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させる。
★ 壁はあまりに高く、強大に見えてわたしたちは希望を失いがちだ。しかし、わたしたち一人一人は、制度にはない、生きた精神を持っている。制度がわたしたちを利用し、増殖するのを許してはならない。制度がわたしたちをつくったのでなく、わたしたちが制度をつくったのだ。
(中國新聞掲載の発言要旨)


村上氏の“卵の比喩”は、たんに“壊れやすい”などということを言ってはいない。
卵が壊れやすいことは、わざわざ言うまでもないことである。
あるいはそれは、“人間のはかなさ”とか、“戦争という虚無”を詠嘆した言葉でもない。

まったくない。
それを読まなかったら、村上氏のこの発言を読んだことにはならない。

もし“この村上氏の発言の要旨を述べよ”という受験問題が出されたなら、天使人語の“読み”は落第である。

アサヒコムと中國新聞発言要旨では、ニュアンスのちがいがある(どっちが正確かはぼくにはわからないが)

アサヒコム記事では、村上氏が《どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ》と言ったとある。
ならば、“どんなに卵が間違っていても”という言葉に注目すべきだ。

また中國新聞記事には、《壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか》という発言がある。
《わたしたち一人一人は卵であり、壊れやすい殻に入った独自の精神を持ち、壁に直面している。壁の名前は、制度である》

《壁はあまりに高く、強大に見えてわたしたちは希望を失いがちだ。しかし、わたしたち一人一人は、制度にはない、生きた精神を持っている。制度がわたしたちを利用し、増殖するのを許してはならない。制度がわたしたちをつくったのでなく、わたしたちが制度をつくったのだ》

非常に明確なメッセージが発せられている。

にもかかわらず、天声人語は、このように明確なメッセージさえ、“読み損なう”のだ。

村上氏のメッセージは、天声人語の言う“憎悪の連鎖”というような言葉の抽象性を拒否するために発せられている。

日々、読売=編集手帳や朝日=天声人語が発する言葉こそ、言葉を抽象化し(言葉から具体性を奪い)、すべてを曖昧な“庶民のたわごと(諦観)”に解消し、あらゆる現実を回避し(眼をそむけ)、結局、<壁=制度>の側に立ち、壁を補強し続けているのだ。

現在のマスメディアとは、<壁>の構成物に成り下がったのだ。
このいつもいつも“正しい”者たちは。


(2/19記)



<追記>

長いブログになって恐縮だが、上記を書いたあと二つのことを補足する必要を感じる。

① 上記でぼくは村上春樹の受賞スピーチを“支持し”、天声人語はそれを曲解した(理解していない)と書いた。
だが、ぼくは村上氏について、“このスピーチ”を支持したのであって、村上氏の“作品”がこのスピーチのような世界観を表出しているか否かについては、疑問をもっている。
ぼくは現在小森陽一氏の『村上春樹論』(平凡社新書2006)における、『海辺のカフカ』批判を読みかけである。
ぼくも『海辺のカフカ』には、はげしい違和感を感じた。
このことについては、村上氏の初夏に出ることが予告されている新長編を読んでから考えて見たい。


②“内田樹の研究室”ブログがこの村上春樹スピーチを取り上げている;

《そして、たいへん印象的な「壁と卵」の比喩に続く。
Between a high solid wall and a small egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg. Yes, no matter how right the wall may be, how wrong the egg, I will be standing with the egg.
「高く堅牢な壁とそれにぶつかって砕ける卵の間で、私はどんな場合でも卵の側につきます。そうです。壁がどれほど正しくても、卵がどれほど間違っていても、私は卵の味方です。」
このスピーチが興味深いのは「私は弱いものの味方である。なぜなら弱いものは正しいからだ」と言っていないことである。
たとえ間違っていても私は弱いものの側につく、村上春樹はそう言う。
こういう言葉は左翼的な「政治的正しさ」にしがみつく人間の口からは決して出てくることがない。
彼らは必ず「弱いものは正しい」と言う。
しかし、弱いものがつねに正しいわけではない。
経験的に言って、人間はしばしば弱く、かつ間違っている。
そして、間違っているがゆえに弱く、弱いせいでさらに間違いを犯すという出口のないループのうちに絡め取られている。
それが「本態的に弱い」ということである。
村上春樹が語っているのは、「正しさ」についてではなく、人間を蝕む「本態的な弱さ」についてである。
それは政治学の用語や哲学の用語では語ることができない。
「物語」だけが、それをかろうじて語ることができる。
弱さは文学だけが扱うことのできる特権的な主題である。
そして、村上春樹は間違いなく人間の「本態的な弱さ」を、あらゆる作品で、執拗なまでに書き続けてきた作家である。
『風の歌を聴け』にその最初の印象的なフレーズはすでに書き込まれている。
物語の中で、「僕」は「鼠」にこう告げる。
「強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ」
あらゆる人間は弱いのだ、と「僕」は“一般論”として言う。
「鼠」はその言葉に深く傷つく。
それは「鼠」は、「一般的な弱さ」とは異質な、酸のように人間を腐らせてゆく、残酷で無慈悲な弱さについて「僕」よりは多少多くを知っていたからである。
「ひとつ質問していいか?」
僕は肯いた。
「あんたは本当にそう信じてる?」  
「ああ。」  
鼠はしばらく黙りこんでビールグラスをじっと眺めていた。  
「嘘だと言ってくれないか?」  
鼠は真剣にそう言った。
(『風の歌を聴け』) 》
(以上引用)



内田樹氏は、“自分は文学がわかる”と言いたいらしい(笑)
たしかに内田氏は、天声人語より“文学がわかる”。
だが、そんなことは、なんの自慢にもならない。

ここで内田氏は、当然、村上春樹発言の、
《壁がどれほど正しくても、卵がどれほど間違っていても、私は卵の味方です。》
に注目している(ぼくと同じだ)

しかし、その後がいただけない。

《それは「鼠」は、「一般的な弱さ」とは異質な、酸のように人間を腐らせてゆく、残酷で無慈悲な弱さについて「僕」よりは多少多くを知っていたからである》
『風の歌を聴け』おける、主人公と“鼠”の会話である。

そうだろうか?
村上春樹は、『風の歌を聴け』を書いていた当時、“一般的な弱さ」とは異質な、酸のように人間を腐らせてゆく、残酷で無慈悲な弱さ”について、どれほど“知っていた”だろうか?
あるいは、春樹は、そのキャリアの過程で、そして『海辺のカフカ』にいたる“現在”において、“一般的でない弱さ”をどう認識し、それにどう立ち向っているのか。

ぼくが、他の現代作家たち(三島由紀夫や大江健三郎や中上健次や辺見庸など)を参照しながら“考えたい”のは、このことである。
つまり内田氏の言う;

《それは政治学の用語や哲学の用語では語ることができない。
「物語」だけが、それをかろうじて語ることができる。
弱さは文学だけが扱うことのできる特権的な主題である》

ということを、“文学”の内部だけでなく、“政治学や哲学の用語”との衝突のなかで、また、“ぼくの日常のこの現実”との衝突のなかで考え続けることを意味する。


(2/19記)


痛み

2009-03-17 00:15:13 | 日記


ぼくは、ぼくたちは、“言葉”によって語る。
あるいは、“言葉”について語る。

“言葉”によって、伝えたい、理解しあいたいと思う。
“私”の独自の体験と、そこから発する“思い”を誰かに伝えたい。
あるいは、私が知りもしない他者の言葉を“想像して”理解したいと思う。

だが、うまくいかない。
なぜなのだろうか。

“日常の言葉”は、伝わっているか伝わっていないか、を無視して無数に飛び散っている。
そこでは、言葉は、“伝わるはず”のものなのだ。

たしかにそこにも、“テクニック”とか、“正しさ”への配慮もあるだろう。
言葉は“道具”のように使いこなすものなのである。
あるコミュニケーションのレベルが想定されており、この言葉なら“伝わるはずだ”という言葉が想定されている。

そうでない“言葉”を発することは、端的に無駄である。
もしそうでない言葉を、“発してしまう”なら、あなたは“変人”もしくは“きちがい”と認定されるだけである(笑)

だから、私は、あなたに理解される言葉のみを求める。

多少の“レトリック”をテクニックとして用いると、“あのひとは文学的なんだ”と思われるかもしれない(笑)

つまり“日本語”には、流通すべき“平明で透明な水準”があると、そういう“規範”があると、多くの人は考えている。

それは二重である。
ひとつは、“感情的な共感”のレベルである。
ひとつは、“論理的な正しさ”のレベルである。
あるいは、“モラル的な正しさ”のレベルである。

この“感情-論理-モラル”が、ある言説のなかで、どう関係しているかが、興味深い。

つまり、あるひとの話を聞くとき、あるひとの文章を読むとき、その“関係”をこそ、ぼくは読んでいる。


今朝のアサヒコムで村上春樹のエルサレム賞授賞式での発言を読んだ。
ぼくはこのブログで、“村上春樹はイスラエルへ行くのか?”と疑問を提示し、もし行くなら、彼はその根拠について発言すべきだとした。
このスピーチについては、このアサヒコム記事以上のものをぼくは読んでいない。
けれども村上氏が、その根拠を述べることを無視しなかったことは、評価したい。

アサヒコム記事の発言部分は以下の通り;

村上さんは、授賞式への出席について迷ったと述べ、エルサレムに来たのは「メッセージを伝えるためだ」と説明。体制を壁に、個人を卵に例えて、「高い壁に挟まれ、壁にぶつかって壊れる卵」を思い浮かべた時、「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」と強調した。
 また「壁は私たちを守ってくれると思われるが、私たちを殺し、また他人を冷淡に効率よく殺す理由にもなる」と述べた。イスラエルが進めるパレスチナとの分離壁の建設を意識した発言とみられる。
(以上引用)


《どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ》
という言葉は、“文学的な”言葉である。

ぼくはこの言葉を支持する。
もし現在の“パレスチナ”においては、壁はあきらかな悪であってもである。
なぜなら、ぼくは“パレスチナ情勢”のみに関心があるのではない。

ぼくが、ブログを書いていて、自己嫌悪におちいるのは、自分が正義であるかのように語ってしまうときである。

まさに“悪”や“不正義”が、あまりにも露骨に存在する時(すなわちこのリアル・ワールドに)こそ、自分の“正義”が疑わしい。

ぼくは“麻生の支持率が10%を切った”とか、“食事の時の喫煙者は迷惑である”(2/16天声人語)というような“圧倒的多数”の世論にのって、“かさにかかって”その対象を“非難”するような言説の“うすぎたなさ”をこそ嫌悪する。
それは、ぼくが喫煙者であり、ぼくがまったく麻生を支持しないこととは、“関係ない”。


ある言葉が、“リアル”であるか否かは、とてもむずかしい。
自分の言葉が、リアルであるか否かこそが問題なのだ。


ぼくにこのブログを書かせるきっかけになったのは、村上春樹のスピーチと共に、買ってずっと放っておいた辺見庸『たんば色の覚書』(毎日新聞社2007)“あとがきのかわりに;痛みについて”)を読んだからだ。
一部カットして引用する;

★ 私たちの日常とは痛みの掩蔽(えんぺい)のうえに流れる滑らかな時間のことである。または、痛みの掩蔽のうえにしか滑らかに流れない不思議な時間のことである。日常を語るには、したがって、痛みを語るほかない。

★ 「だれしも私の(あるいは他者の)苦しみを苦しむことはできない」とうそぶいて自分を閉じてしまうことは、しかし、それぞれの自己憐憫の繭にこもるのに似て、なにかいじましくはないか。自他の痛みを定量分析して軽重を断じるのは、痛みの主が人間という矛盾と謎だらけの生き物である以上は、やってはならないことだろう。さりとて、みずからを閉じて他者の痛みとの関係を絶ってしまうのでは、じつのところ激しい痛みに満ちた私たちの日常の切断面から故意に眼をそらすことになる。撓み(たわみ)狂ぶれた(たぶれた)日常の永続を願う者らの、それこそが思うつぼである。

★ 私固有の痛みとはるかな他者のそれには、やはりなにかの縁があり、ときには果てしない距離を置いてたがいに鈍く重く疼きあうこともありえようと私は思っている。二つの異なった痛みをつなぐのは、私的痛覚を出発点にした他者の痛みへの想像力にほかならない。むろん、おおかたそれは容易に届きはしない。翻って、他者の想像力も私の痛みの核にたやすく達しはすまい。痛みはだから、いつも孤独の底で声を抑えて泣くのだ。しかし、それでもなお、私の痛さが遠い他者の痛さにめげずに近づこうとするとき、おそらく想像の射程だけが異なった痛みに架橋していくただひとつのよすがなのである。私たちの日常の襞に埋もれたたくさんの死と、姿はるけし他者の痛みを、私の痛みをきっかけにして想像するのをやめないのは、徒労のようでいて少しも徒労ではありえない。むしろ、それが痛みというものの他にはない優れた特性であるべきである。

(以上引用)



以上のような“言葉”は、なんのコメントも必要としていない。

だから“蛇足”をのべる。

この文章で中心となっている“言葉”はもちろん、<痛み>である。
そして次に<日常>である。

<痛み>については、これが“観念的でない”ものであることに注意を喚起したい。
この‘あとがきのかわりに’自体が“2007年10月、都内の病院で”書かれている。

むかしデビューしたばかりのル・クレジオの短篇に、歯が痛いだけで“世界が崩壊してしまう”主人公が描かれていたような気がする(笑)

つまり、その主人公が“弱い”というようなことではないのだ。

このような“日常の痛み”から、“他者としての世界の痛み”を想像しえるか否かが、<文学>の言葉であった。



(2/16記)