ありふれたシチュエーションだろうか。
未来。
タウ・ケチ惑星に植民する人々(凍眠している)を載せた卵のような宇宙船。
コンピューター完全制御の中枢にあるのは人間の脳からつくられた“オーガニック・メンタル・コア(OMC;有機知能核)。
起きている“人間=乗組員”(クローンである)は、4名。
その宇宙船のOMCが原因不明のトラブルに陥り、乗組員はOMCを停止し、それに代替する“人工知能-意識”をみずから作り出さねばならない。
乗組員4人は、それぞれ物理学、化学、生物学、生理学・心理学、コンピューター・テクノロジーなどの専門家であり、“宗教”のスペシャリストもいる。
はたして、彼ら4人は、“人工知能”を作り出すことができ、この宇宙船と植民者を壊滅的な危機から救い出すことができるか?
フランク・ハーバート『ボイド-星の方舟』(1966、翻訳小学館1995)である。
“ボイドVOID”とは、“空(くう)の、空虚な、無駄な、無効な・・・・・・”などを意味する、“宇宙空間、虚空”を意味する。
フランク・ハーバート(1920-1986)は、SF史上の傑作『デユーン砂の惑星』の著者である。<注>
この物語は、この4人の科学者の会話と意識の声と危機に対応する行為のみから成り立っている。
ゆえに、“科学用語(概念)”が頻出し、それには”注“がつけられている。
しかし、ぼくはその注を読むのを途中でやめてしまった。
それを読まなくても(理解しなくても)面白い(理解できる)からである。
逆にここで使われている“科学用語”は、“ギミック”である。
そもそも“SF=サイエンス・フィクション”における“科学”というのは、ギミックであった。
ならば、この“科学を偽装した物語”は、科学ではない何を語ろうとしているのか。
まさにこれが、この小説(サイエンス・フィックション)のスリルである。
この物語の核心は、どうやったら“人間と同じ知性態”をつくりだせるかという問題なのだ。
この“人工知能”の定義は、指示がなくても自ら考え判断するということである。
そのためには、“人間とは何か”がわからなければならない。
しかも“完全に”わからなければ、それを“つくる”ことはできない。
これがどんなに困難な<難問>であるかが、この物語の展開なのだ。
これを説明していると長くなるので、要点をピックアップしよう(細部はあなたがこの本を買って読んでください;笑)
★ 完全なものには愛がない(完全なものには、不完全なものを認識することができない)→いかにして“欠点(欠陥)”をインプットできるか?
★ この“欠点”の重要な要素は、“殺戮本能(暴力)”である。
★ “意識”とは、“自己についての意識”とは?→《ぼくたちが自分たちのことで、真に客観的になれることなど、肉体の反応以外、何も存在しない》
★ 《鏡はそれ自体を映すことはできない》
★ 《次ぎの行動が過去の行動の結果からの絶対的、直接的因果関係を続けてゆくのなら、行為に意識の影響力などあり得なくなってしまう》(因果律は意識と適合しない)
★ “死”が地(背景)となっていなければ、そもそも“生”が描けない→“生”という認識(自分と他者とその関係を知るという知)が成り立たない。
この『ボイド』は普通の長さの小説である。
そこでの“思考”は、ある宇宙船内部での4人の科学者の“対話”と“内面の声”に限定されている(外からの声は、指令基地からのボイスだけである)
ハーバートは『デユーン砂の惑星』においては、長大な物語を展開していた。
しかし、その“スペース・オペラ”の設定においても、サイエンス(テクノロジー)と宗教(こころ)がテーマとなっていた。
これが、<環境>という問題にフォーカスされていたのだ。
すなわち、“人間のこころ”が、いかなる“未知の環境”において生存できるか(生きることができるか)が、問われていた。
未知の環境!
それは、“近未来”であり、“未来”であり、砂丘の連なる未知の惑星での生存である。
“砂虫(SAND WORM)“の棲息する世界。
そこには、圧倒的に<水>が欠乏し、その惑星を含む未来の世界系は、“カネ”よりも“麻薬(メランジ)”が流通、支配する世界であった(メランジは“意識”を拡張する!)
つまりこの世界、未知の世界は、“この世界”のアレゴリーであった。
だから、砂漠の民=フレーメン=テロリストも“予知”されていたのだ。
SFは、未来を読んだのである。
『デューン砂の惑星』は、1965年という過去において、2009年という“この未来”を読んでいたのだ。
すぐれたSFは、みな、未来を読んでいる。
それが、固定観念を“空想”するファンタジーとの差異である(つまりたとえばブラッドベリや「ソラリス」や「スカイ・クロラ」はSFであるが、「スター・ウォーズ」はSFではない)
“ボイド=虚空”とは、砂丘の連なる土地のように、ぼくたちの<環境>なのだ。
<水>は欠乏している。
ラクダにのって、卵形の宇宙船にのって、ぼくたちはこの旅にのりだす。
つまり、もう旅ははじまっている。
<注>
この物語を思い出すときに、スティングがでたデヴィット・リンチのバカげた映画を想起しないでほしい、原作を読むべきである。
(今、書いた)
未来。
タウ・ケチ惑星に植民する人々(凍眠している)を載せた卵のような宇宙船。
コンピューター完全制御の中枢にあるのは人間の脳からつくられた“オーガニック・メンタル・コア(OMC;有機知能核)。
起きている“人間=乗組員”(クローンである)は、4名。
その宇宙船のOMCが原因不明のトラブルに陥り、乗組員はOMCを停止し、それに代替する“人工知能-意識”をみずから作り出さねばならない。
乗組員4人は、それぞれ物理学、化学、生物学、生理学・心理学、コンピューター・テクノロジーなどの専門家であり、“宗教”のスペシャリストもいる。
はたして、彼ら4人は、“人工知能”を作り出すことができ、この宇宙船と植民者を壊滅的な危機から救い出すことができるか?
フランク・ハーバート『ボイド-星の方舟』(1966、翻訳小学館1995)である。
“ボイドVOID”とは、“空(くう)の、空虚な、無駄な、無効な・・・・・・”などを意味する、“宇宙空間、虚空”を意味する。
フランク・ハーバート(1920-1986)は、SF史上の傑作『デユーン砂の惑星』の著者である。<注>
この物語は、この4人の科学者の会話と意識の声と危機に対応する行為のみから成り立っている。
ゆえに、“科学用語(概念)”が頻出し、それには”注“がつけられている。
しかし、ぼくはその注を読むのを途中でやめてしまった。
それを読まなくても(理解しなくても)面白い(理解できる)からである。
逆にここで使われている“科学用語”は、“ギミック”である。
そもそも“SF=サイエンス・フィクション”における“科学”というのは、ギミックであった。
ならば、この“科学を偽装した物語”は、科学ではない何を語ろうとしているのか。
まさにこれが、この小説(サイエンス・フィックション)のスリルである。
この物語の核心は、どうやったら“人間と同じ知性態”をつくりだせるかという問題なのだ。
この“人工知能”の定義は、指示がなくても自ら考え判断するということである。
そのためには、“人間とは何か”がわからなければならない。
しかも“完全に”わからなければ、それを“つくる”ことはできない。
これがどんなに困難な<難問>であるかが、この物語の展開なのだ。
これを説明していると長くなるので、要点をピックアップしよう(細部はあなたがこの本を買って読んでください;笑)
★ 完全なものには愛がない(完全なものには、不完全なものを認識することができない)→いかにして“欠点(欠陥)”をインプットできるか?
★ この“欠点”の重要な要素は、“殺戮本能(暴力)”である。
★ “意識”とは、“自己についての意識”とは?→《ぼくたちが自分たちのことで、真に客観的になれることなど、肉体の反応以外、何も存在しない》
★ 《鏡はそれ自体を映すことはできない》
★ 《次ぎの行動が過去の行動の結果からの絶対的、直接的因果関係を続けてゆくのなら、行為に意識の影響力などあり得なくなってしまう》(因果律は意識と適合しない)
★ “死”が地(背景)となっていなければ、そもそも“生”が描けない→“生”という認識(自分と他者とその関係を知るという知)が成り立たない。
この『ボイド』は普通の長さの小説である。
そこでの“思考”は、ある宇宙船内部での4人の科学者の“対話”と“内面の声”に限定されている(外からの声は、指令基地からのボイスだけである)
ハーバートは『デユーン砂の惑星』においては、長大な物語を展開していた。
しかし、その“スペース・オペラ”の設定においても、サイエンス(テクノロジー)と宗教(こころ)がテーマとなっていた。
これが、<環境>という問題にフォーカスされていたのだ。
すなわち、“人間のこころ”が、いかなる“未知の環境”において生存できるか(生きることができるか)が、問われていた。
未知の環境!
それは、“近未来”であり、“未来”であり、砂丘の連なる未知の惑星での生存である。
“砂虫(SAND WORM)“の棲息する世界。
そこには、圧倒的に<水>が欠乏し、その惑星を含む未来の世界系は、“カネ”よりも“麻薬(メランジ)”が流通、支配する世界であった(メランジは“意識”を拡張する!)
つまりこの世界、未知の世界は、“この世界”のアレゴリーであった。
だから、砂漠の民=フレーメン=テロリストも“予知”されていたのだ。
SFは、未来を読んだのである。
『デューン砂の惑星』は、1965年という過去において、2009年という“この未来”を読んでいたのだ。
すぐれたSFは、みな、未来を読んでいる。
それが、固定観念を“空想”するファンタジーとの差異である(つまりたとえばブラッドベリや「ソラリス」や「スカイ・クロラ」はSFであるが、「スター・ウォーズ」はSFではない)
“ボイド=虚空”とは、砂丘の連なる土地のように、ぼくたちの<環境>なのだ。
<水>は欠乏している。
ラクダにのって、卵形の宇宙船にのって、ぼくたちはこの旅にのりだす。
つまり、もう旅ははじまっている。
<注>
この物語を思い出すときに、スティングがでたデヴィット・リンチのバカげた映画を想起しないでほしい、原作を読むべきである。
(今、書いた)