Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ジブラルタルの水夫

2009-03-31 10:51:54 | 日記

ある小説を読み始めることは、ある未知のひとつの世界へ入っていくことである。

書きはじめの光景で、その世界へ入っていけるかどうかが決定する。
それは微妙である。
それは旅に似ている。
その小説の“風景”(自然の、社会的な)が魅惑するだろうか、登場人物の個性であろうか、それともその“会話”の言葉やタイミング(息つぎ)だろうか。


あるフランス人公務員が休暇で、一緒に暮らしているが結婚してない女をともなってイタリアに来ている。
ピサからフィレンツェへ移動しようとしたが汽車が満席で(戦後2年目のことだ)、ピサまでトラックで働きに出ている労働者一行の(帰りの)トラックに同乗させてもらう。
助手席に乗ったこのフランス人公務員の男とトラック運転手の会話;

★ 「それであんたは、どんな職業なんだい?」と彼がたずねた。
「植民地省さ。公務員だよ」
「その仕事は面白いかい?」
「ひでえもんだよ」
「どんなことしてるんだい?」
「出産や死亡の証明書をコピーしてるんさ」
「なるほど。もう長いんか?」
「8年」
「おれには」と彼はしばらくしていった。「とてもできないね」
「そうさ、あんたには無理だね」
「だけどね、石工ってのもつらいよ。冬は寒いし、夏は暑い。それでも、年中コピーするなんて、おれにはできんな」
「ぼくだってできないよ」
「だけどやってるんだろう?」
「やってるよ。最初のうちは死にそうに思ったけど、それでもやってるんだ。きみにはわかるだろう」
「で、いまでもそう思ってるんかい?」
「死にそうだとかい?うん、他の連中を見てるとそうだけど、自分ではもう感じないよ」
「年中コピーするなんて、ひでえことだろうな」と彼はゆっくりいった。


★ 「彼女はどんな女なんだい?」
「ごらんの通りさ。いつも満足して、陽気なんだ。楽天家だよ」
「なるほど」と彼はいって、顔をしかめた。「おれはいつも満足している女はあまり好きじゃないね。そういう女は……」彼は言葉を探していた。
「疲れさせるよ」
「そう、疲れさせるんだ」彼はぼくの方を向いて微笑した。
「ぼくの考えではね、満足するためだけだったら、なにも人生全体にかかわるような重大な理由を持つ必要はないよ。もし三つか四つの小さな条件がそろえば、どんな場合だって……」
彼はぼくの方を向いて、また微笑した。
「たしかに小さな条件は必要だよ」と彼はいった。「だけど人生では、満足するだけでは充分でないんだ。時には、もう少し多くのものが必要なんだよね」
「それは何だい?」
「幸福になることさ。そのためには愛情が役に立つ、そう思わないかい?」
「ぼくにはわからんね」
「いやちがう。あんたは知ってるんだ」
ぼくは返事しなかった。

<以上引用はマルグリット・デュラス『ジブラルタルの水夫』1952>


いま、ここにある、危機

2009-03-31 08:10:46 | 日記
下記ブログに関連して。

ぼくが“現在”について、なによりも“奇怪”だと思うのは、メディアも政治家も学者先生も普通の人々も、“危機”のなかにいると言いながら、彼らにはさっぱり“危機感”が感じれないということ自体である。

ぼくは、それを一種の“感覚マヒ”症状ではないかと診断する。

この“日本”という国全体を、“感覚マヒ症状”が覆っている。
(いったいこの危機に対して“イチローの言葉”がどうしたというのであろうか!、ぼくは別にイチローが嫌いなのではない)
それは、客観的“危機”が増大すればするほど、その危機を認識することができなくなるという、死に至る病である。

そのサンプルを掲げよう;

★望むのは贅沢(ぜいたく)ではなく「尊厳ある老後」である。翻訳すれば「身の納まり」という、つつましい言葉にほかならない。それに応えるきめ細かい助けの網が、この社会にほしい。(昨日天声人語)

★ 〈おまえがた本降りだよと邪魔がられ〉という句もある。「本降りだからあきらめて濡れて行きな」と、軒先を追われる人を詠んでいる。与野党の主役ふたり「おまえがた」の、いずれが先に世論から邪魔がられるのかは知らない。(今日読売・編集手帳)

★ 朝起きて、『グラン・トリノ』の映画評を書き上げて、『AERA』の来週号の600字エッセイを書いて送稿。『中央公論』の時評の原稿を書いて送稿。そこに新潮社のアダチさんから「100字で5万円」という“おいしい”コピー仕事が入ってきたので、3分間で100字さらさらと書いて送稿。
こういう仕事が毎日あると笑いが止まらないのであるが、世の中そういうものではない。
こういうペースで毎日仕事をしているので、日記の更新さえままならぬのである。(3/26内田樹の研究室)


以上のような文章に“危機感がない”ことを説明する必要を感じない。
要するに、こういう文章を書いているひとには、危機感がないのである。
こういう人々は、周りになにが起ころうと(この世界がどうであろうと)自分の人生だけは安泰であると信じていられるのである。

だから、ぼくはこういう人々が、庶民の苦しみを語り、世界の悲惨な人々を語り、わけのわからない(1000年1日の)ヒューマン言説を語ろうと信用しない。
内田樹がレヴィナスについて語っても信用しない(笑)


まさにこの“鈍感”こそが、“言葉の死”である。


“「100字で5万円」という“おいしい”コピー仕事“をしているひとや、毎日”字数“だけを気にして気の効いた文章を書けてしまうひとには、”言葉なんかおぼえるんじゃなかった“という深い覚醒は決して訪れない。


ぼくたちは今、“昭和”という“終わった時代”について語る。
しかし、ぼくたちは、“西暦で考える”べきである。
なぜなら昭和21年と2009年を瞬時に比較できないからである。
昭和64年でもよい。
ぼくたちは、“世界史”のなかで生きている。
(ちなみに昭和21年とはぼくが生まれた年である;笑、あるいは日本国憲法が公布された年である、文句あっか!)


歴史は現在にある。
歴史的なすべての言葉は、この現在に収斂される。
ぼくたちの言葉=言説は、このダイナミズムのなかにある。


ぼくたちは、けっして“鈍感”であることはできない。




<さらに>

いま、“言説を売るものたち”が、“言葉のプロ”として、大量の言葉を撒き散らしている。

ぼくは、そのひとり内田樹氏について、“言葉なんかおぼえるんじゃなかった”という田村隆一氏の言葉を対置した。

内田樹というひとを目の敵にしているのではない。
“内田樹”というのは、現在、“代入可能な”どうでもいい<名>のひとつにすぎない。

ただぼくが、“ブログ”で発信していることの矜持にもとづき、ブログで発信するすべての<無名の>ひとびとに呼びかけたい。

“プロの堕落”を監視せよ。
“多数の言葉”を監視せよ。

不充分であっても、自分の言葉を鍛えよ。
自分の言葉で立て。



”すっぴん”にガッカリ 

2009-03-31 06:01:13 | 日記
昨日、アサヒコムに“全国世論調査”というのが出ている。
リード文以下の通り;

<「昭和」といえば何を思い浮かべますか… 全国世論調査 アサヒコム2009年3月30日17時18分>
「昭和」といえば何を思い浮かべますか? 朝日新聞社が2月~3月中旬に全国3千人を対象に郵送で実施した世論調査(有効回収率79%)で、時代のイメージを聞いてみた。人物なら(1)昭和天皇(2)田中角栄(3)美空ひばり、出来事では(1)高度成長(2)戦争(3)バブル景気が上位に。右肩上がりが当たり前だった昭和時代は、先行き不透明な平成時代に比べて、前向きで明るいイメージが強いようだ。(金光尚)


いま“昭和”のイメージについて調査するのは、この現在=平成との比較をするためだろう。

本文にこうある;

●戦前・戦後の昭和と平成はどういう感じの時代か(8項目から二つ選択)
 上位3位までを見ると、戦後の昭和は「活気のある」「進歩的」「動揺した」と、肯定的なイメージが先行。戦前の昭和は「保守的」「暗い」「動揺」で対照的だ。
 その戦前の昭和より、平成の方がさらに否定的イメージが強い。「動揺」「沈滞」「暗い」が上位に並び、中でも「動揺」「沈滞」は平成の方が多い。平成に入り不景気が長く、世界同時不況で先の見えない現状の反映だろう。
 今回と同じ質問をした1968年の世論調査(面接)では、戦後の昭和は「進歩的」43%、「明るい」32%、「活気のある」23%だった。調査方法が違うため単純な比較はできないが、今回は「活気のある」が57%と2倍以上に増えている。昭和を古き良き時代として懐かしむ気持ちが広まっているのかもしれない。 (引用)


つまり、この“平成”は、“「動揺」「沈滞」”であり、“昭和を古き良き時代として懐かしむ気持ちが広まっているのかもしれない”のである。


さて、現在のヤフー・ニュース・アクセス・ランキング(総合)のベスト5を掲げよう;

1位;アノ暴行“行列弁護士”がバッジ紛失隠し!1年以上も3月30日16時56分配信 夕刊フジ
2位;陣内、ベッド写真流された!浮気相手が暴露3月27日7時52分配信 サンケイスポーツ
3位;男性の4割「すっぴん」にガッカリ 彼氏に見せるタイミングに悩む3月29日17時5分配信 J-CASTニュース
4位;キムタクついに“圏外”に…TVタレントイメージ調査3月28日16時57分配信 夕刊フジ
5位;センバツ出場の球児、ブログで対戦校侮辱3月30日3時5分配信 読売新聞


なるほど(笑)


たしかに、“昭和”時代には、“大衆”が、どんなニュースに関心をもっているかが、刻々わかることなどなかったのである。

“大衆”は、マスメディアがしゃかりきに報道している“お堅いニュース(政治-経済-外交)”などには、トンと関心がないのである。

大衆は“スポーツ・芸能ニュース”にしか関心がないのである。
あとは、“「すっぴん」にガッカリ”するくらいである。

しかしこの“「すっぴん」にガッカリ”というのは、けっこう“象徴的”なことなのだ。

たとえば、あの昭和の“戦後”に、多くの日本人は、“天皇”という存在が“すっぴん”になったのに、がっかりしたのであった。

それで、“アメリカ”という幻想(化粧顔)や“高度成長”という派手な顔を追い続けたのであった。

はてさて、そのなれの果ての平成という現在にわれわれはいる。

新たな“厚化粧”を求めて。
テレビを見ていればいいのである。
テレビは“すっぴん”だけはうつさない、幻想の宝庫であるから。

つまり、われわれは、“「すっぴん」にガッカリ”したいのである。




<追記>

しかし、このぼくは”すっぴん”な言葉がすきである。

たとえばすぐれた”戦後詩人”の言葉である;

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

<田村隆一:”帰途”部分>


この詩の言葉には、むずかしい”日本語”はひとつもない。

なにひとつ”理解しがたい”観念はないのである。

たしかに”最小のレトリック”はある。

しかしこの最小の言葉は、炸裂しているのだ。

つまり、あなたがこの言葉を記憶するなら、その言葉は、あなたの人生の肝心な時に、あなたの内部で静かに炸裂し、閃光を放つであろう。