ある小説を読み始めることは、ある未知のひとつの世界へ入っていくことである。
書きはじめの光景で、その世界へ入っていけるかどうかが決定する。
それは微妙である。
それは旅に似ている。
その小説の“風景”(自然の、社会的な)が魅惑するだろうか、登場人物の個性であろうか、それともその“会話”の言葉やタイミング(息つぎ)だろうか。
あるフランス人公務員が休暇で、一緒に暮らしているが結婚してない女をともなってイタリアに来ている。
ピサからフィレンツェへ移動しようとしたが汽車が満席で(戦後2年目のことだ)、ピサまでトラックで働きに出ている労働者一行の(帰りの)トラックに同乗させてもらう。
助手席に乗ったこのフランス人公務員の男とトラック運転手の会話;
★ 「それであんたは、どんな職業なんだい?」と彼がたずねた。
「植民地省さ。公務員だよ」
「その仕事は面白いかい?」
「ひでえもんだよ」
「どんなことしてるんだい?」
「出産や死亡の証明書をコピーしてるんさ」
「なるほど。もう長いんか?」
「8年」
「おれには」と彼はしばらくしていった。「とてもできないね」
「そうさ、あんたには無理だね」
「だけどね、石工ってのもつらいよ。冬は寒いし、夏は暑い。それでも、年中コピーするなんて、おれにはできんな」
「ぼくだってできないよ」
「だけどやってるんだろう?」
「やってるよ。最初のうちは死にそうに思ったけど、それでもやってるんだ。きみにはわかるだろう」
「で、いまでもそう思ってるんかい?」
「死にそうだとかい?うん、他の連中を見てるとそうだけど、自分ではもう感じないよ」
「年中コピーするなんて、ひでえことだろうな」と彼はゆっくりいった。
★ 「彼女はどんな女なんだい?」
「ごらんの通りさ。いつも満足して、陽気なんだ。楽天家だよ」
「なるほど」と彼はいって、顔をしかめた。「おれはいつも満足している女はあまり好きじゃないね。そういう女は……」彼は言葉を探していた。
「疲れさせるよ」
「そう、疲れさせるんだ」彼はぼくの方を向いて微笑した。
「ぼくの考えではね、満足するためだけだったら、なにも人生全体にかかわるような重大な理由を持つ必要はないよ。もし三つか四つの小さな条件がそろえば、どんな場合だって……」
彼はぼくの方を向いて、また微笑した。
「たしかに小さな条件は必要だよ」と彼はいった。「だけど人生では、満足するだけでは充分でないんだ。時には、もう少し多くのものが必要なんだよね」
「それは何だい?」
「幸福になることさ。そのためには愛情が役に立つ、そう思わないかい?」
「ぼくにはわからんね」
「いやちがう。あんたは知ってるんだ」
ぼくは返事しなかった。
<以上引用はマルグリット・デュラス『ジブラルタルの水夫』1952>