平成25年7月13日(土)
最近、仕事が忙しくて、体を動かしていないし、また、暑い日が続いているから家から出たくないと、引きこもりがちになってしまう。
そこで、仕事が一段落着いたのを機に、かねてから、この辺(町田辺り)にも古戦場(井出の沢古戦場)があったと前回のウォーキング(分倍河原辺り)で買った本「武蔵府中と鎌倉街道」に書いてあって、興味を持っていたので、行ってみた。
行ってみて、間違った解釈をしていたんだなと気がついたことがあった。
それは、私はてっきり、新田義貞が高崎から南下して鎌倉を攻める前に、七国山で井戸(新田井戸)を掘って、馬や兵士を休ませ、この井出の沢古戦場で戦ってから、鎌倉を攻め滅ぼした(1333年)と思っていたが、古戦場の説明がきには、鎌倉を滅ぼした二年後の戦い(1335年)で、足利直義と一旦は滅ぼされ信濃に逃げていた北条高時の子時行が鎌倉をもう一度奪回しようとしての戦いであったと、書いてあった。
新田義貞はこの井戸で兵士らを休ませ、そのまま鎌倉まで突入したらしいのである。
井出の沢古戦場を中心に探索してみると、この辺りは、七国山(ななくにやま)という山があり、下野の方から鎌倉に通じる街道(上の道)が通っている。その一番高いところに新田井戸があった。
井戸の脇から藪の中に入り、七国山の標高点も確認してきた。でも木が覆っていて、周りの景色は見えづらかった。
物資の流通だけでなく、思想もいち早く発展した地域であるらしい。
大きな建物の「自由民権運動資料館」なるものがあった。
自由民権運動に貢献した石阪昌孝氏がこの七国山あたりの出身だそうで、そこかしこに石坂姓のお店や表式があった。
薬師池公園の中には、自由民権の碑があり、鐘が釣り下がっていた。薬師池公園は北条氏照の領地であったと書いてあった。
帰りは、菅原神社(井出の沢古戦場碑はこの境内にある)からに町田駅まで鎌倉街道に沿って歩いてきた。
町田駅の久美堂近くの広場に何やら説明看板と碑があり、よく見ると何と、「絹の道」とある。小さい時からこの町田に親しんできたが、こんな看板があるのに気がついたのは初めてである。ということは、この間、八王子の遣水の「絹の道資料館」へ行った時に見た「絹の道」とこの町田の「絹の道」がつながって、鎌倉街道と交わって、一方は横浜方面へ、一方は鎌倉へと続いていく。この町田はホント昔から物資の流通や人々が行き交う重要な要所だったと伺えた。
今回も新しい発見があり、楽しいウォーキングとなった。
こうやってできることに感謝をしながら、筆をおく。
19029歩(約11キロ)
最近、仕事が忙しくて、体を動かしていないし、また、暑い日が続いているから家から出たくないと、引きこもりがちになってしまう。
そこで、仕事が一段落着いたのを機に、かねてから、この辺(町田辺り)にも古戦場(井出の沢古戦場)があったと前回のウォーキング(分倍河原辺り)で買った本「武蔵府中と鎌倉街道」に書いてあって、興味を持っていたので、行ってみた。
行ってみて、間違った解釈をしていたんだなと気がついたことがあった。
それは、私はてっきり、新田義貞が高崎から南下して鎌倉を攻める前に、七国山で井戸(新田井戸)を掘って、馬や兵士を休ませ、この井出の沢古戦場で戦ってから、鎌倉を攻め滅ぼした(1333年)と思っていたが、古戦場の説明がきには、鎌倉を滅ぼした二年後の戦い(1335年)で、足利直義と一旦は滅ぼされ信濃に逃げていた北条高時の子時行が鎌倉をもう一度奪回しようとしての戦いであったと、書いてあった。
新田義貞はこの井戸で兵士らを休ませ、そのまま鎌倉まで突入したらしいのである。
井出の沢古戦場を中心に探索してみると、この辺りは、七国山(ななくにやま)という山があり、下野の方から鎌倉に通じる街道(上の道)が通っている。その一番高いところに新田井戸があった。
井戸の脇から藪の中に入り、七国山の標高点も確認してきた。でも木が覆っていて、周りの景色は見えづらかった。
物資の流通だけでなく、思想もいち早く発展した地域であるらしい。
大きな建物の「自由民権運動資料館」なるものがあった。
自由民権運動に貢献した石阪昌孝氏がこの七国山あたりの出身だそうで、そこかしこに石坂姓のお店や表式があった。
薬師池公園の中には、自由民権の碑があり、鐘が釣り下がっていた。薬師池公園は北条氏照の領地であったと書いてあった。
帰りは、菅原神社(井出の沢古戦場碑はこの境内にある)からに町田駅まで鎌倉街道に沿って歩いてきた。
町田駅の久美堂近くの広場に何やら説明看板と碑があり、よく見ると何と、「絹の道」とある。小さい時からこの町田に親しんできたが、こんな看板があるのに気がついたのは初めてである。ということは、この間、八王子の遣水の「絹の道資料館」へ行った時に見た「絹の道」とこの町田の「絹の道」がつながって、鎌倉街道と交わって、一方は横浜方面へ、一方は鎌倉へと続いていく。この町田はホント昔から物資の流通や人々が行き交う重要な要所だったと伺えた。
今回も新しい発見があり、楽しいウォーキングとなった。
こうやってできることに感謝をしながら、筆をおく。
19029歩(約11キロ)
さて、今回は七国山近辺を歩かれたということで大変お疲れ様です!!平坦な相模原台地と異なり町田は谷戸と呼ばれる多摩丘陵地帯ですので歩かれるのは大変だったのでは!?ブログを読ませていただき鎌倉街道や絹の道についておおく知ることができました。自分深く歴史を勉強したくなりました。
福島からたぶっちゃんです。
絹の道にまつわる町田、知らなかったなぁー。
とても興味深く読ませてもらいました。
私も身近なところで歴史探訪。
URLは、和室ではなく福島観光情報の「赤ベコ日記」
市内に、石仏を見つました。
東京・神奈川にもあるのかなぁ。
仏教美術が好きなんで、
この夏は、会津方面に出かけようと思っています。
ではまた楽しい夏休みを
東小でも昔は、蚕農家が多かったと聞きますから、相模原で作られた絹も西の地に運ばれたんでしょうね。当たり前のことなんだけど、日本のどの土地にも歴史が流れていて、どこを歩いても歴史と出会うことができるんだということを改めて実感です。