wakuwakuな生活

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三増合戦(みませがっせん)と毛利季光(もうりすえみつ)

2015-02-15 11:07:30 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
平成17年2月7日(土) ウオーキングには最高の天気の中、近郊の歴史名所巡りを行った。

一つは、武田信玄と北条氏照や氏邦が戦った三増合戦。
小田原城を攻めた武田信玄は、攻めきれずに、戻って来ると中に、この三増で挟み撃ちにあうはずだった。
昔読んだ本の中で、小田原城にいる北条氏康が高齢のため、機敏に動けず、まごまごしているうちに、戦いの火蓋が切って下ろされてしまい、間に合わなかった書いてあった。北条氏康らの本隊は厚木の荻野で引き返したとあるから、あと一日早かったら、結果が違っていたかもしれない。
信玄が旗を立てたという「旗立松」は、ゴルフ場の中に残っていた。超キツイ坂だった。
勝敗を決したといわれている山県某の戦いは、志田峠から北条の背後に回って、戦ったそうだ。その志田峠にも行ってきた。自転車で登ってくる人がいて、知る人ぞ知るサイクリングロードになっている。
            


2つめは、毛利氏発祥の地である毛利庄。
以前、私たちが行った歴史探索の一つに、鎌倉の頼朝の墓がある。それはそれで、よかったんだが、その近くに、うっそうと木々が生い茂っている山の中に、大江広元の墓があった。その墓には、なんと、薩摩幡と長州藩が作った墓が両はじを挟んで建っていた。何なんだろうな?と、二人してずーと疑問に思っていたところ、千ちゃんが、これを解明してくれた。その地がここであるのだ。

毛利季光というのは、大江広元の四男で、父の所領のうち、相模国毛利荘を相続し、そこに居を構えていた。そこの地名を苗字にしたのである。承久の乱にて後鳥羽上皇と呼応する勢力と戦い、武功をあげ、安芸郡吉田荘の地頭となり、毛利の祖となる。
季光は、宝治合戦で北条と戦う時、はじめは鎌倉幕府の評定衆であるから北条に付いていたが、戦いに行く段になって、妻から実家の三浦に味方して欲しいと言われ、三浦氏について戦った。その結果、負けてしまい、命を落とすが、四男の経光(つねみつ)は、越後毛利に行っていたため難を逃れ、生き残った。三本の矢で有名な毛利元就は、この経光の子孫である。
季光の館があったとされる三島神社には巴の家紋のお賽銭箱があった。
       

この辺が毛利家の発祥の地なんだなと思うと感慨深かった。

ではもう一つの薩摩藩はというと、
鎌倉幕府の御家人であった島津忠久の母親は、丹後局(たんごのつぼね)で比企の尼(頼朝の乳母)であり、この忠久は頼朝の子どもではないかとといわれている。そして、薩摩の地頭に任命されて、赴いている。だから、薩摩藩もつくっているのである。
ほう、なるほど。
だから大江広元の墓には、薩摩藩や長州藩がその墓を見守るように立っているんだね。

今回は、本厚木駅からバスで上志田というところに行き、次に、上古沢というところに行った。どちらもまだまだ自然が多い田園地域でした。

歩数 22398歩、約13キロかな

近場にこんな歴史的なところがあるなんて、そして今までの疑問が解決できたなんて、千ちゃんに感謝である。
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