平成24年7月29日(日)、義経が頼朝に送った「腰越状」を書いたところの満福寺と護良親王が幽閉されていた鎌倉宮を千ちゃんが見たいというので、いつもながら晴天のこの日、大学時代以降乗っていない江ノ電にも乗ってみたいという願いも重なって、鎌倉ウオーキングの運びとなった。
実は私は以前行ったことがあるのだが、はたまた、行ってみて、新しい発見があったり、歴史的なつながりを確認できたりしたので、改めて鎌倉は歴史の宝庫だな~と思った。
この見出しのところの宝戒寺(ほうかいじ)や元八幡(もとはちまん)は最初は全く知らなかったところであるが、鎌倉駅前にいた鎌倉観光案内ボランテイアの方と話すことによって、私たちが興味を持っていることとつながりがあることを教えてくれ、実際そこに足を運ぶことができた。人に聞いて教えてもらうことで知り得る情報がいっぱいあるんだということも知った一コマだった。
では、前置きはが長くなったが、最初から振り返ってみよう。
まずは、町田駅の窓口で「江ノ島・鎌倉フリーパス」990円を買う。一日小田急線や江ノ電が乗り放題なので割安である。
藤沢から江ノ電に乗り換えて、「腰越」で降りる。そこから「満福寺」までは歩いて5分くらいである。
「腰越状」は弁慶が下書きをしたものと伝えられている。それでも、平家を滅ぼした武将の誇りや兄頼朝への思慕、素直に兄に受け入れてもらえぬ義経の苛立ちが現れているそうです。実際展示したものを見ても、何が書いてあるのか読めないが、達筆な文字や草書の行間からは、一所懸命思いを伝える姿勢が感じられ、頼朝という人物をほとんど理解していないことによる悲劇が感じられた。
義経は1185年壇ノ浦で平家を滅ぼしたのに、頼朝は義経に対して勝手な行動をすると立腹していた。この満福寺までは来れたが、鎌倉に入ることは許されなかった。兄の疑惑を晴らすために「腰越状」を書いたのだが、あて先は「大江広元」(片倉城の城主であり、毛利家の先祖であると千ちゃん云く)。この人選がまずかったのか結局願いは叶わず、京都へ引き返すことになった。
その時通った道が、職場近くにある鎌倉街道で、鶴間には義経が、休憩を取った時、鶴が舞っているのを見て、「鶴は自由に鎌倉へ行き来できるが、私はもう行くことはできない」と嘆いたとされ、地名が「鶴が舞う」から「鶴間」になったと、言い継がれている。
実は義経はこの腰越の地に戻ってくる。塩漬けになった首だけで。その時はもう、頼朝は奥州の藤原氏を倒すのが本来の目的だから、一人の九郎義経なぞ、どうでもいいことになっていたのだ。首実検は和田義盛や梶原景時に任せ、自分は立ち会わなかったとされる。満福寺での首実検に派遣された義盛は、お労しい(おいたわしい)お姿に涙を流したとされる。
昼食は江ノ島は「しらす」が名物だそうで、その満福寺横の階段を上ったところにある「義経庵」で食す。
余談だが、この満福寺で買った冊子に、腰越の海岸に小動岬(こゆるぎみさき)があるが、そこで太宰治が心中未遂事件を起こしたと書いてあった。
鎌倉駅に着いた時に観光案内のボランデイアの方がいたので、「頼朝の墓や鎌倉宮へ行きたいが、効率よく行けるには?」と聞いたら、とても親切な方で、大江広元の墓もあるとか、北条九代が住んでいた館があるとか、鶴岡八幡宮の前の幕府があったところがあるとか教えてくれた。さすが現地の人である。
若宮大路を通って、頼朝の墓に行く。近くには白旗神社(源氏は白旗である)もあった。この場所は鎌倉幕府の東のはずれにあり、西は朝比奈小学校があった。
少し離れた所に、大江広元の墓だろうというところが小高いところにあった。その大江広元の墓は一つではなく三つ並んで建っていた。不思議だなと思い、そこを掃除している50代の男の人に、こんなところを掃除している人だから何か縁があるのかと思い、「大江広元の子孫の方ですか?」と質問してみた。そしたら大変、その方は、全く歴史を知らない奴がまた来たという顔をして、「これは薩摩藩と毛利藩が作ったもので、だからこのところは区切ってあるんだ。」から始まり、「大江広元には子どもが何人もいたけど、幕府に謀反を起こした人もいてやっと命だけは助けてもらえた。本来なら家名断絶だ。」とかなんとかたくさんの知識を話してくれた。でも、専門的すぎてわかりづらかったので、早く退散したかったが、千ちゃんが思いのほか聞き入っていて、向こうもこの時とばかりに饒舌になって話していた。
大江広元は、頼朝に招かれた幕府官僚で、守護地頭の設置を進言するなど鎌倉幕府の基礎作りに功績があったとされる。でも、墓自体ははっきりしていない。
やっと退散して、いざ、鎌倉宮へ。ここは、護良親王が幽閉されていた石牢を見たり、護良親王の身代わりになって死んでいった村上義光(むらかみよしてる)が身代わり地蔵となって彫られていたりもした。
次に、鎌倉駅の方へ帰る途中に「宝戒寺」がある。北条執権の代々の屋敷とされる。鎌倉幕府が滅亡した際、北条の霊を弔うために、後醍醐天皇が足利尊氏につくらせたお寺であるとされる。
そして、大河ドラマ「平清盛」でこの人が登場したことで少しは視聴率を上げたと言われている玉置宏が演じた「源義朝」が住んでいたとされる「寿福寺」に行く。そこには偶然にも北条政子や源実朝の墓を見ることができた。
一通り行きたいところは見たが、まだ時間が早いので、「元八幡」に行った。そこでまた、新しい発見があったから、面白い。
最初はこの元八幡の地に幕府の中心・政務を行うところをおいたが、手狭になったので、鶴岡八幡に移したという。それまでここは幕府の中心地であった。
そしてなんと、時は移って大正時代。この元八幡一帯は別荘地であったといことで、芥川龍之介の別荘もあったという。「ある阿呆の一生」ではこの海が近い場所で平和に暮らしたと一節が載っているということである。少し歩いてみたが、その面影は皆無であったが。
江ノ電に乗るために、歩いて和田塚駅を目指す。そこで、和田塚と言うんだから和田義盛に関することが塚でもあるかと思って、人力車を引いている人に聞いてみたら、そういうのはないという。その代わり「どちらへ行くのですか?」と尋ねられたので、「極楽寺の切通です。」と答えたら、私は見ていなかったけど千ちゃんはよく見ていた中井貴一と小泉今日子のテレビドラマのロケに使われたところですよ。と教えてくれた。そういうふうにプラスアルファーがあると俄然興味が湧いてくる。心なしか千ちゃんの足取りも軽くなっていったようだ。
江ノ電はほんと家の軒先をかすめていく。線路と町が一体化している。
極楽寺では、駅のすぐそばに「極楽寺」がある。もう夕暮れが迫ってきているので、あたりは薄暗い。
ちょうどお店を閉めて、帰ろうとしている人に、切通しを尋ねる。その人に聞いたのが、大正解で、切通しの場所やロケのよく使った場所、そして中井貴一や小泉今日子の見た感想等を話してくれた。二人ともテレビに出ている通りの人で、特に小泉今日子さんの方はとっても若くて素敵だったと言っていた。ロケによく使われたお饅頭屋さんは閉まっていた。「御霊神社」は線路の向こう側にあった。なかなか由緒がありそうだ。
以前に稲村ヶ崎に行った時に、新田義貞がこんな絶壁の海岸沿いを潮が引いたからって通れるわけないよなと思いながら見たのを思い出す。この極楽寺坂切通しは、その稲村ヶ崎を越えた新田勢が次に通った道である。きっと敵が待ち受けていて、大きな戦いが繰り広げられたのであろう。そう思うとこの場所を通り過ぎた時、思わず手を合わせていた。
鎌倉はそこかしこに歴史的な史実が散らばっていると感心しながら、江ノ電に乗り、帰宅の地に着く。今回もよく歩いた。
25489歩(約15キロ)である。
いつものよう健康にそしてこうやって好きなことができることに感謝して、筆を置きたいと思う。
実は私は以前行ったことがあるのだが、はたまた、行ってみて、新しい発見があったり、歴史的なつながりを確認できたりしたので、改めて鎌倉は歴史の宝庫だな~と思った。
この見出しのところの宝戒寺(ほうかいじ)や元八幡(もとはちまん)は最初は全く知らなかったところであるが、鎌倉駅前にいた鎌倉観光案内ボランテイアの方と話すことによって、私たちが興味を持っていることとつながりがあることを教えてくれ、実際そこに足を運ぶことができた。人に聞いて教えてもらうことで知り得る情報がいっぱいあるんだということも知った一コマだった。
では、前置きはが長くなったが、最初から振り返ってみよう。
まずは、町田駅の窓口で「江ノ島・鎌倉フリーパス」990円を買う。一日小田急線や江ノ電が乗り放題なので割安である。
藤沢から江ノ電に乗り換えて、「腰越」で降りる。そこから「満福寺」までは歩いて5分くらいである。
「腰越状」は弁慶が下書きをしたものと伝えられている。それでも、平家を滅ぼした武将の誇りや兄頼朝への思慕、素直に兄に受け入れてもらえぬ義経の苛立ちが現れているそうです。実際展示したものを見ても、何が書いてあるのか読めないが、達筆な文字や草書の行間からは、一所懸命思いを伝える姿勢が感じられ、頼朝という人物をほとんど理解していないことによる悲劇が感じられた。
義経は1185年壇ノ浦で平家を滅ぼしたのに、頼朝は義経に対して勝手な行動をすると立腹していた。この満福寺までは来れたが、鎌倉に入ることは許されなかった。兄の疑惑を晴らすために「腰越状」を書いたのだが、あて先は「大江広元」(片倉城の城主であり、毛利家の先祖であると千ちゃん云く)。この人選がまずかったのか結局願いは叶わず、京都へ引き返すことになった。
その時通った道が、職場近くにある鎌倉街道で、鶴間には義経が、休憩を取った時、鶴が舞っているのを見て、「鶴は自由に鎌倉へ行き来できるが、私はもう行くことはできない」と嘆いたとされ、地名が「鶴が舞う」から「鶴間」になったと、言い継がれている。
実は義経はこの腰越の地に戻ってくる。塩漬けになった首だけで。その時はもう、頼朝は奥州の藤原氏を倒すのが本来の目的だから、一人の九郎義経なぞ、どうでもいいことになっていたのだ。首実検は和田義盛や梶原景時に任せ、自分は立ち会わなかったとされる。満福寺での首実検に派遣された義盛は、お労しい(おいたわしい)お姿に涙を流したとされる。
昼食は江ノ島は「しらす」が名物だそうで、その満福寺横の階段を上ったところにある「義経庵」で食す。
余談だが、この満福寺で買った冊子に、腰越の海岸に小動岬(こゆるぎみさき)があるが、そこで太宰治が心中未遂事件を起こしたと書いてあった。
鎌倉駅に着いた時に観光案内のボランデイアの方がいたので、「頼朝の墓や鎌倉宮へ行きたいが、効率よく行けるには?」と聞いたら、とても親切な方で、大江広元の墓もあるとか、北条九代が住んでいた館があるとか、鶴岡八幡宮の前の幕府があったところがあるとか教えてくれた。さすが現地の人である。
若宮大路を通って、頼朝の墓に行く。近くには白旗神社(源氏は白旗である)もあった。この場所は鎌倉幕府の東のはずれにあり、西は朝比奈小学校があった。
少し離れた所に、大江広元の墓だろうというところが小高いところにあった。その大江広元の墓は一つではなく三つ並んで建っていた。不思議だなと思い、そこを掃除している50代の男の人に、こんなところを掃除している人だから何か縁があるのかと思い、「大江広元の子孫の方ですか?」と質問してみた。そしたら大変、その方は、全く歴史を知らない奴がまた来たという顔をして、「これは薩摩藩と毛利藩が作ったもので、だからこのところは区切ってあるんだ。」から始まり、「大江広元には子どもが何人もいたけど、幕府に謀反を起こした人もいてやっと命だけは助けてもらえた。本来なら家名断絶だ。」とかなんとかたくさんの知識を話してくれた。でも、専門的すぎてわかりづらかったので、早く退散したかったが、千ちゃんが思いのほか聞き入っていて、向こうもこの時とばかりに饒舌になって話していた。
大江広元は、頼朝に招かれた幕府官僚で、守護地頭の設置を進言するなど鎌倉幕府の基礎作りに功績があったとされる。でも、墓自体ははっきりしていない。
やっと退散して、いざ、鎌倉宮へ。ここは、護良親王が幽閉されていた石牢を見たり、護良親王の身代わりになって死んでいった村上義光(むらかみよしてる)が身代わり地蔵となって彫られていたりもした。
次に、鎌倉駅の方へ帰る途中に「宝戒寺」がある。北条執権の代々の屋敷とされる。鎌倉幕府が滅亡した際、北条の霊を弔うために、後醍醐天皇が足利尊氏につくらせたお寺であるとされる。
そして、大河ドラマ「平清盛」でこの人が登場したことで少しは視聴率を上げたと言われている玉置宏が演じた「源義朝」が住んでいたとされる「寿福寺」に行く。そこには偶然にも北条政子や源実朝の墓を見ることができた。
一通り行きたいところは見たが、まだ時間が早いので、「元八幡」に行った。そこでまた、新しい発見があったから、面白い。
最初はこの元八幡の地に幕府の中心・政務を行うところをおいたが、手狭になったので、鶴岡八幡に移したという。それまでここは幕府の中心地であった。
そしてなんと、時は移って大正時代。この元八幡一帯は別荘地であったといことで、芥川龍之介の別荘もあったという。「ある阿呆の一生」ではこの海が近い場所で平和に暮らしたと一節が載っているということである。少し歩いてみたが、その面影は皆無であったが。
江ノ電に乗るために、歩いて和田塚駅を目指す。そこで、和田塚と言うんだから和田義盛に関することが塚でもあるかと思って、人力車を引いている人に聞いてみたら、そういうのはないという。その代わり「どちらへ行くのですか?」と尋ねられたので、「極楽寺の切通です。」と答えたら、私は見ていなかったけど千ちゃんはよく見ていた中井貴一と小泉今日子のテレビドラマのロケに使われたところですよ。と教えてくれた。そういうふうにプラスアルファーがあると俄然興味が湧いてくる。心なしか千ちゃんの足取りも軽くなっていったようだ。
江ノ電はほんと家の軒先をかすめていく。線路と町が一体化している。
極楽寺では、駅のすぐそばに「極楽寺」がある。もう夕暮れが迫ってきているので、あたりは薄暗い。
ちょうどお店を閉めて、帰ろうとしている人に、切通しを尋ねる。その人に聞いたのが、大正解で、切通しの場所やロケのよく使った場所、そして中井貴一や小泉今日子の見た感想等を話してくれた。二人ともテレビに出ている通りの人で、特に小泉今日子さんの方はとっても若くて素敵だったと言っていた。ロケによく使われたお饅頭屋さんは閉まっていた。「御霊神社」は線路の向こう側にあった。なかなか由緒がありそうだ。
以前に稲村ヶ崎に行った時に、新田義貞がこんな絶壁の海岸沿いを潮が引いたからって通れるわけないよなと思いながら見たのを思い出す。この極楽寺坂切通しは、その稲村ヶ崎を越えた新田勢が次に通った道である。きっと敵が待ち受けていて、大きな戦いが繰り広げられたのであろう。そう思うとこの場所を通り過ぎた時、思わず手を合わせていた。
鎌倉はそこかしこに歴史的な史実が散らばっていると感心しながら、江ノ電に乗り、帰宅の地に着く。今回もよく歩いた。
25489歩(約15キロ)である。
いつものよう健康にそしてこうやって好きなことができることに感謝して、筆を置きたいと思う。
鎌倉は、どこを歩いても歴史の勉強になりそうですね。「鶴間」の地名は、昔、鶴がよく飛んでいたからそんな地名がついたのだろうぐらいに思っていたのですが、義経の嘆きの言葉と結びついているなんて・・・。改めて、今は過去とのつながりの中で生きていることを実感。今回の旅は、タイムリーなガイドさんとの出会いが良かったね。