下手の横好き日記

色々な趣味や興味に関する雑記を書いていきます。
ミステリ・競馬・ピアノ・スポーツなどがメイン記事です。

【パロディ】イギリス風庭園の謎(上)

2007-05-02 23:59:59 | 
 私は冷蔵庫の中身を確認した後、友人に顔を向けて言った。
「なあ火村、この話をどう思う? 俺はこのままで済みそうにないと思うてる。だからお前の知恵が借りたいんやけど……腹が減っては戦はできんから、ちょっと前のコンビニまで買い出しに行ってくるわ」
 火村英生はソファーでキャメルをゆっくりとふかしていたが、突然さっと足を組んで気取ったように言った。
「実に単純な問題だよ、アリス君。改めて考えてみるまでもないね。君が今日は蕎麦を食べたいと思ったが蕎麦の買い置きがなかったという事実と同様に明らかなことさ」
 私は呆気に取られて火村の顔を見つめた。火村が苦笑する。
「俺の顔に何か付いているか、アリス。俺は別におかしくなったわけじゃねえよ。ちょっとお前のお気に入りのホームズ氏の真似をしてみただけさ」
「あほか」私は反射的につっこんだが、火村の蕎麦についての指摘が的を射ていたので驚いた。「けど、なんで俺が蕎麦を食いたがってるってわかったんや?」
 犯罪学者はにやにやしながら言う。
「たいした推理じゃない。お前がさっき冷蔵庫を開けて蕎麦つゆのビンを確認したのを見たし、食器棚のざるに目をやったのも見た。その前に、戸棚の乾物置き場をがさごそやってがっかりした顔をしていたのも知っているからな」
「なるほど……って、そんなことはどうでもええ。お前もう事件の見通しがついたのか?」
「まあな」
 臨床犯罪学者として数々の難事件を解決してきた火村の推理力には一目置いているが、こんなにすぐに結論が出るとは思わなかった。しかも今日はちっとも考え込みもしていないではないか。
 私は半信半疑の目を火村に向けた。

 事件……と呼べる程のものかも分からないが、その発端は朝井小夜子女史からもたらされた。小夜子は私の推理作家としての先輩で、京都在住である。彼女から焦った声で電話がかかってきたのは三日前――。
「どうしよう! あたし狙われてるみたい」
 寝起きに昼食を取っていた私の耳元で、いきなり悲鳴のような声がする。
「落ち着いて下さい。何があったんですか?」
 程なく冷静になった小夜子から聞いたのは次のような話だった。
 近作で取り上げたからか、最近ガーデニングを始めようと思った彼女は喜々として色んなものを買い込み、ささやかな春の庭を整備していった。そして、いよいよメインの花壇にちょっと手間のかかる花を植えたのだそうだ。
「蘭ほどではないけど、養分やら温度やら大変なんよ。でもきれいに根付いたら見栄えのする種類なわけ。値段も割と高いのよ」
 やや深めに穴を掘り、砂利を混ぜた土を敷き、その上に油かすをしいて腐葉土を乗せたところに植える。メインの花壇だから、二十も植えたと言う。
 ところが、その作業を午前中に終え、調べものをしに図書館に出かけて帰ってきたら、花壇は無残にも荒らされていた。
「腹立つんはね、花を全部引き抜いて、土を掘り返してそのままにしていく手口よ。花を盗っていくんならまだ花泥棒やって諦めもつくけど、これじゃまるっきり嫌がらせやないの!」
 話しているうちに怒りを思い出したようだ。私は火に油を注がぬよう聞き役に徹した。
 そんな嫌がらせにへこたれる小夜子ではない。駄目になってしまった花を処分し、次の朝再び同じ花を買ってきて植えた。その日は外出もせずに家にいたが、創作に没頭して夕刻に庭を見ると、前日の惨状が再現されていた。
 さすがに落ちこんだそうだ。なんせ仕事をしているすぐ横で花壇を荒らされたのに気づかなかったのだから。しかし大胆不敵な犯人もいたものだ。ガラリと窓を開けられたら、いやチラリと窓から覗かれたら見つかるのに。

【パロディ】イギリス風庭園の謎(中)

2007-05-02 23:59:59 | 
 翌日は朝から雨だったが、夕方の晴れ間に薄暗い中作業をして彼女はまた花壇にその花を植えた。(すごい根性だ!)そして夜こそ犯人の思うままだと警戒して、カーテンの隙間から夜明け近くまで庭を監視していた(!)が、降り続く雨で断念したのか怪しい者は現れない。そのうち、雨が上がった。
「ちょっとの仮眠のつもりが結構寝てしもうてて、起きたんは九時頃やったわ。焦って表を見たら……」
「まさか、やられてたんですか?」
「そう」
 とんでもない犯人だ。まるで朝井女史の行動を読んでいるみたいではないか。
 ところが、この日肩を落として庭を片付けに出た彼女は、とんでもない事実を発見した。庭には犯人の足跡が全く無かったのである。
「これでも推理作家の端くれやから、すぐ足跡を探したんよ。前回までは晴れ続きやったから足跡は残ってへんかったけど、今回は雨上がりでしょ。あたしが前日の夕方につけた跡は雨で消えてしもうてたから、残ってるんは犯人のしかないはずやん」
 だが、無かったのである。一つも足跡を残さずに花壇の花を抜くなどという芸当が、果たして出来るものだろうか。小夜子もさすがに気味悪くなってきた。そこで花壇の方はちょっと間を置いてみることにした。
「で、今日。さっき! お天気がええから、風を当てておこう思うて、スプリングコートを二階のベランダで陰干ししてたんよ。そしたら」
 取り込もうとした彼女は驚愕する。コートのボタンが全部、引き千切られていたのだ。パニックになった彼女は、こんなときに役に立ちそうな後輩作家の有栖川に取り敢えず電話した、というわけなのだった。
 話を聞いた私は、京都まで遠征して小夜子の家に向かった。頼られた以上、力になるのが男の道であろう。
「現場」は無残なもので、花壇はボロボロだし、コートもボロボロだし、小夜子の落ち込みもひどかった。
「お気に入りのコートやったのに……」
「何か心当たりは無いんですか。人に恨まれるような……」
「あたしが誰かに恨まれるような人間や言うの!」
「いえ、俺は単に可能性の……」
「ごめん」小夜子はしょんぼりした。
 二人して庭をうろうろしたり、ベランダを調べてみたりしたが、さっぱり見当がつかない。近所にも疑えるような人はいないと言う。五里霧中、八方塞がりだ。
 火村は九州の学会に出張中であることを知っていたので、私は二日後に彼が戻ったら相談してみると小夜子に告げた。そして協議の結果、彼女は友人の家にしばらく泊まらせてもらうことになったのだ。
 火村にはその夜に電話し、学会の帰りに大阪で降りて私のマンションに寄ってもらうことになった。

【パロディ】イギリス風庭園の謎(下)

2007-05-02 23:59:59 | 
「おい、本当にわかったのか?」
 まだ半信半疑の私に火村はしれっとした表情で答えた。
「疑り深いな。さすが推理作家先生だ」
「けど、あんな怪奇な事件、容疑者リストも無いのに分かる言うのが納得できん」
「じゃあ、裏づけに一つだけ質問がある。コートのボタンはどんなものだった?」
「そんなことが事件に関係あるんか? ええと、確か……金ボタン言うてたな」
「ほらな」
 何が「ほらな」だ! しかし私にはさっぱり分からないのだ。謎が解けない自分に内心忸怩たるものを感じながら、私は火村に解答を請うた。くそう。
「カラスだよ」犯罪学者の口から動物学者みたいな名前が出る。
「なんやて?」
「肥料の油かすを食ってたのさ。あれはカラスに限らず、色んな鳥の好物なんだ。賢くて目のいい鳥だから、朝井さんがせっせと穴に撒いていたのを狙ってたんだろう。で、学習した。あの花の下には油かすがあるってな」
「じゃ、じゃあコートのボタンも」
「カラスは昔から金ぴかコレクションで有名だからな。一つ言えるのは、人間を恐れなくなった奴らを止める術は無いってことだ。犯人は分かっても捕まえられないんじゃ仕方ない。根気よく役所に対策を頼むしかねえだろうな」
 全国あちこちでカラスの害についてのニュースを聞くが、まさかこんな事件を起こすとは。人騒がせ、では済まないよな。小夜子にどう伝えようかと思案していると、火村がネクタイをだらしなく緩めながら言った。
「アリス、蕎麦」
 はいはい。
                                           (終)



☆ ご、ごめんなさ~い! 似ても似つかぬ文体で、勝手にパロってしまいました。
 真剣なファンの人。禁断症状に苦しむ者のうわ言として、見逃して下さいませ。
 ちなみに、花の植え方の知識皆無です。カラスの知識も皆無です。
 シャレですので、つっこまないで下さい(^^;

【物語】『春の雪~別れの曲~』

2007-03-26 23:39:18 | 
 地方都市のJRの駅。週末でもない平日の夜の最終間際ともなれば、数えるほどの人通りしかない。しかも今日は厳しい冷え込みで、まるで冬に戻ったかのようだった。早仕舞いすればいいのに、と駅の喫茶店でバイトをしている美由紀は思う。店内にはもう客はいないのだし、いつもならとっくに帰り支度をしているはずだ。BGMのクラシック音楽だけが虚しく空間を漂っている。
「さっさと仕舞えばいいのにと、思ってるんだろう?」
 初老の人のいいマスターが、美由紀の心の中を察したように言う。「でも今夜は、駄目なんだ」
「今夜は、ですか?」マスターの真意を量りかねて、美由紀は首をかしげた。
「今日は三月七日だろう。予約客がいるからね……そろそろだと思うんだが」
 半信半疑で片付けかけたグラスを取り出していると、ドアベルのカラカラという乾いた音がした。
「まだ構いませんでしょうか?」
 入ってきたのは、まだ若いながらも落ち着いた雰囲気の美しい女だった。ボストンバッグを持っている。
「いらっしゃいませ。まだ閉店までには時間がありますから、ゆっくりなさって下さい」
 マスターは、愛想良く女に微笑む。美由紀も慌てて「いらっしゃいませ」と声をかけると、グラスに水を入れてテーブルに案内した。
 奥の落ち着いた場所に案内しようとする美由紀に、窓際の席を指差すと「ここにお願いします」と女は言う。なるほど、誰かと待ち合わせなのだろう。外が見えるように、彼女は腰を下ろした。
 注文のコーヒーがテーブルに運ばれるまでも、そして運ばれてからも、女はずっと外を見ている。
 静かに時間が流れていく。マスターも何も言わないし、美由紀は仕方なしに見るともなく客の様子を見ていた。
 窓に女の表情が映っている。時折夢見るような幸福感を漂わせることもあれば、落ち着きの無い不安な瞳を泳がせて。長い睫毛が力なく伏せられたかと思えば、強い光のこもった眼差しを夜の闇に向ける。
 美由紀はいつしか、女に同調しながら何かを待っている自分に気づいた。見知らぬ深夜の女性客の待っているもの――もちろん恋人だ、と美由紀は思う。相手の男はいったい何をしているんだろう……こんなに美しい人を待たせて。
 ふとマスター見ると、彼もまた少し悲しげな様子で女を見守っていた。誰にも聞こえないような小さな吐息を漏らす。
 と、海の底から聞こえるように、ベルの音が小さく響いてきた。最終列車の発車ベルだ。美由紀ははっとして客を見るが、彼女は変わらぬ様子で窓の外を見ていた。
「最終が……」小さくつぶやく美由紀の声に、マスターは口の前で人差し指を立てる。
 来なかった……。女の気持ちを思いやりながら、美由紀は心の中で同情する。
 ふっと間が空いて、音楽が変わった。閉店前、最後に流れるこの曲は、ショパンの『別れの曲』である。そのあまりにも有名なメロディーは、清清しさをも感じさせる諦めを漂わせて店内を満たした。
 美由紀の胸が痛んだ。こんなシチュエーションに、悲しすぎるじゃない……。
 と、ガタンと音がして、女が椅子から立ち上がった。はっとして窓の外を見ると、薄いグレイのスーツを着てボストンバッグを持った若い男がこちらに向かって手を振っている。来た!
 美由紀は笑顔でマスターを振り返った――が、マスターは目を見張って、信じられないものを見たかのように固まっている。
「お勘定、ここに置きますね! ごめんなさい、急ぐので」弾むような声で女がレジ横を通り過ぎる。
「ありがとうございました……お幸せに」
 我に返ったマスターが、慈愛に満ちた声をかけた。ドアの前で女は振り返って、笑顔で会釈した。

「良かったですね! 最終には乗り遅れちゃったけど」
 美由紀はマスターを振り返って明るく言った。他人事なのに、ものすごく嬉しかった。
「十年だよ……もう諦めてたんだがね」しみじみと、マスターが言う。「本当に、良かった」
「十年?」
 ポカンとして聞き返す。マスターは何かを知っているのだろうか。そう言えば予約客って……。
「彼女は十年間待ってたんだ」
 そう言って彼が話したのは――。
 十年前の三月七日。最終列車が発車した駅の構内で、一人の女が死んだ。駆け落ち相手の男が現れなかったことを悲観しての自殺だった。一抹の不安を抱いていたのだろうか、毒薬を持っていたらしい。
 哀れな女の死……そんな興味が街にはびころうとしたとき、思いがけない事実が明らかになった。相手の男は、駅に向かう途中で交通事故に遭っていたのだ。結局、男は二日間生死の境をさまよい、彼女の名前をつぶやきながら天に召された。
「死んだ日の晩も、あの席に座ってずっと外を見ていたんだ。最終のベルの後、魂の抜けたようになってこの店を出た人が自殺したって聞いて、ショックだったよ」
 マスターはその当時の気分を思い出したかのように、暗い表情になった。
「翌年の三月七日に彼女が現れたときはもちろん驚いたんだが、心の内で納得する部分もあった。心が残ってるんだな、と。それから、毎年同じ日に彼女は現れた。最初の頃は、本当のことを教えてあげたい気もしたよ。彼は裏切ったんじゃないってな。でも、実際に目の前でじっと男を待っている彼女には、何も言えなかった」
 美由紀には理解できた。彼女は待っている間、幸せだったのだろうから。
「十年も経って、今夜二人が会えたのは何故なんでしょうね」
 この夜に、この場に居合わせたことを喜びながら、美由紀は疑問を口にした。
「神様の贈り物……ほら、雪だ」
 言われて窓の外に目をやると、チラチラと春の雪が舞っている。「あの夜も、雪が降ってたんだ」
 運命の気まぐれと残酷さ、そして優しさを思い、二人は黙りこむ。『別れの曲』は再び最初の主題に戻って、哀しくも美しい恋人達の逃避行を物語る。
 遠くの方で、発車ベルの音が聞こえたような気がした。思わず振り返った美由紀に、マスターは独り言のようにしてつぶやいた。
「二人だけの最終列車だな……」
 季節外れの雪は、何も知らぬふうに、ただ降り続いていた。      (了)

【物語】『春風のレクイエム』

2007-03-19 23:35:43 | 
 受話器をゆっくりと戻すと、香奈は由梨の方を見ないようにしながら告げた。
「姉さん。捜索が打ち切られたって……」
 聞こえたのか聞こえていないのか、由梨は小さな庭に下りて、まだ新しい花壇に水を撒いているようだ。
香奈は二週間前に起こってしまった悲劇を思う。義兄の隆志が山で遭難したという事実を。それは由梨にとっても、そして他ならぬ香奈にとっても大きな出来事だった。まるで、うねり絡まった一株の蔦が、根元でふつりと切られて立ち枯れていくような。
「姉さん。義兄さんの……」
 絞り出すような香奈の再びの声を遮るように、由梨は言った。「聞こえたわ」
 はっとして顔を上げる。由梨はいつの間にか香奈の目の前に立っていて、微かに笑った。
――綺麗だ……。
香奈は心の中で張りつめていたものが一つ崩れたように、体から力が抜けるのを感じた。

 由梨と香奈は二歳違いの姉妹である。おっとりした姉の由梨に対して、元気者の香奈。香奈の我侭めいた言動を苦笑しながらも受け止めてくれる由梨のおかげで、仲の良い姉妹でいられた。
 姉が結婚相手として隆志を紹介してくれたとき、香奈は素直に二人を祝福した。山男でもある隆志は包容力に溢れ、ある意味世渡り下手な由梨を支えてくれると思ったからだ。実際、二人に誘われて一緒に夏山の初心者コースを登ったときも、義兄の細やかな心配りに香奈はひたすら感心した。子供のように義兄に甘えている姉の姿を見て、新鮮な驚きに目を見張りながら。
 いくつかの季節が通り過ぎていった。香奈はいつしか隆志を愛してしまっている自分に気がついた。自らの恋愛を省みても、相手の男を常に隆志の存在と比べている自分がいる。自覚してしまった感情を心の底に隠しておけるなら、香奈はそんなにも悩まなかったに違いない。そしてある日、生来の性格は一線を越えさせた。
 ずるい女だと香奈は自嘲する。単に隆志の優しすぎるという欠点を利用したにすぎない。そして彼は、妻への愛情ゆえに香奈と決別することができない羽目に陥った。香奈が、言外に由梨への告白を匂わせたから。
 だが、有頂天の期間は瞬く間に去っていった。手に入れたものと、失ったもの――香奈は秤にかけることすら拒否した。初めて怖いという感情を知った。息をしているだけで、真っ黒な底無しの深遠に落ちこんでしまいそうな。
 由梨は……気づいていたのだろうか?

 三月の最初の土曜日。隆志は急に思い立って一人で山に向かったという。かなりの登山上級者である隆志にとって、単独で近場の山に登ることはさして困難なことではなかったのだ。
 しかし、暖冬による影響か緩みかけた雪中の単独登山は、最悪の結果を迎えてしまった。帰ってこない夫の身を案じた由梨が警察や山岳救助隊へ連絡してすぐ捜索は始まったが、有望な手がかりは得られなかった。同じ日に山にいた二、三のパーティーも隆志には会わなかったという。山の比較的入り口付近に隆志のネームが入った携帯品が落ちていて、それが彼の残した唯一の足跡だった。
 由梨から連絡を受けたとき、隆志から何も聞いていなかった香奈は耳を疑った。姉に付き添って、捜索隊の詰め所で待っている間も何が起きたのか理解できなかった。――何が? どうして?
 自分の犯した罪がこのような形で天罰となって下ったのだ――ふと、そんな考えが浮かぶ。もうまともに姉の顔を見ることができない。こらえても、自らを責める涙がこぼれる。
 と、由梨は黙って香奈の肩に手を置いた。その手は温かく、香奈に無邪気な子供だった頃を思い出させる。
(姉さん、ごめんなさい……)香奈は心の中で、由梨に侘びた。

 捜索は続けられたが、規模は縮小されていった。山での遭難の場合、遺体が見つからない場合も少なくない。そして、自宅で経過報告を待つことになった香奈たちのもとに、捜索打ち切りの電話はかかってきたのである。
「分かっていたことだったから、私は大丈夫よ」由梨は言う。「もう終わってしまったことだし……」
 この二週間という時間が、ゆっくりと姉の覚悟を決めさせていたのだろうか。まだ不安定な気持ちのままでいる香奈には、由梨の強さが驚きでもあったし救いでもあった。
「紅茶でも入れてくるわね」
 由梨はサイレント映画の美しい主人公のように、静かに部屋を出て行った。後ろ姿をぼんやりと見送る。
 すうっと開け放した窓から少し強い風が吹き込んで、レースのカーテンを揺らした。
 何気なく見やったその裾に、薄い光を放つ丸いものが落ちている。ざわざわと胸が騒ぐ。一歩二歩。かがんで手に取ると、ソファーの下にもう一つ落ちていた。
 小さな穴の空いた天然石。縁起のいいパワーストーンだと言って、隆志が肌身離さぬようにして着けていたブレスレットの石だ。
二つの石を手のひらの上で転がす。耳の奥に隆志の声がよみがえる。
「お守りみたいなものさ。山で困難な目にあっても、これを見ると力が湧いてくる」
 
 気配を感じて顔を上げると、由梨がティーカップを乗せたトレイを持って立っていた。
「姉さん、これ……」
 由梨はそれには答えず、トレイをテーブルの隅に置く。「ミルクティーで良かったわよね?」
 香奈はその石の意味を考え、混乱していた。――ブレスレットが切れた? そして、それを直さぬまま――もちろん石が二つも欠けていては直せるはずがない――大事なお守りを着けずに隆志が山に出発するだろうか……?
 隆志は本当に山へ登ったのか?という疑問を抱きかけて、香奈は首を横に振る。隆志の携帯品が山に残っていた事実がある。確かに隆志は山に登ったのだ。逆に考えれば、お守りであるブレスレットをせずに登ったから、あんな事故が起こったのかもしれない。
 暗い気持ちで役に立たなかった石を弄んでいると、前にティーカップが置かれた。
「ねえ、香奈。山の夜明けって、本当にきれいなのよ」唐突に、由梨が言う。
「え?」
「雪の山の厳しい寒さの中、ふと暗い空を見るとね、地平線に近い方からうっすらと色が変わっていくの。何色って言い表せない……そして、不意にすうっと周りが白くなるの」
 香奈は思考を止めたまま、由梨の顔を見つめた。うっとりと目を閉じた姉の顔を。
「ああ、神様だって思ったわ。どんな罪も許されるような冷たい白さ……隆志の罪も、私の罪も、そしてあなたの罪も」
 そう言うと、由梨は真っ直ぐ香奈を見た。一瞬鋭い氷のかけらになった視線がふと緩むと、唇だけで微笑む。
 声にならない悲鳴が香奈の喉から漏れた。姉が――あれを置いてきた!?
「姉さん、まさか……山に」
 
――隆志は、山に行かなかった。この家を……出なかった。

 香奈の頭の中に、見たくもない映像が勝手に再生される。飛び散るブレスレットの石、呻き声。
「姉さん、が」
 絶句する香奈を不思議そうに見やると、由梨は小首をかしげた。「紅茶、冷めちゃうわよ」
 ふわりと吹き込んだ風に一房の髪が揺れ落ちる。それをそっとかき上げる姉の顔は、山の朝に染められたかのように白かった。再び思う――とても、綺麗だ。
(由梨ちゃん)
 小さな子供の頃、姉をそう呼んでいたことをふと思い出す。父母が呼んでいたのを真似したのだろう。一人で先に走っていく姉、必死で追いかける香奈。どんどん遠ざかり、見えなくなる。
「由梨ちゃん! 由梨ちゃん!」
 べそをかきながら、なおも走っていくと、にっこり笑ってちゃんと先で待っていてくれた……。

 ――風が吹き込んだ。まだ肌寒いその中にも、確かな春の息がある。
「終わったんだ」香奈はつぶやく。そう――悪夢のような日々は。
「お花いっぱいにしなくちゃね」
 由梨は掘り返した土の色もまだ新しい花壇を見て、少し淋しそうに微笑んだ。      (了)