読書日和

お気に入りの小説やマンガをご紹介。
好きな小説は青春もの。
日々のできごとやフォトギャラリーなどもお届けします。

ご挨拶

2018-12-31 23:59:00 | ウェブ日記


「読書日和」にお越しいただきありがとうございます。
このブログでは主に小説やエッセイのレビュー、街のフォトギャラリーなどを作っています。
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イカのパワー

2018-02-17 15:15:55 | ウェブ日記


写真はうどんのお店のイカの天ぷらです。
最近、イカが健康に良い優れた食材だと知りました。

まずイカは低カロリーで高たんぱく質なため、カロリーの摂りすぎにならずにパワーを付けられます。
さらにイカが持つタウリンは肝機能向上効果と疲労回復効果があります。
肝機能向上効果があるためお酒のおつまみに最適とのことです。
疲労回復効果があるのは嬉しく、タウリンは栄養ドリンクの「リポビタンD」などにも入っています。

健康に良い優れた食材だと知ったので、最近はうどんのお店に行くとよくイカの天ぷらを食べるようになりました。
イカの天ぷらは高たんぱく質なのにあっさりとした食べ心地で美味しいです。
特に揚げたてだとかなり柔らかみもあります。
豚肉が豊富に持つビタミンB1も疲労回復効果があり、肉と海産物それぞれに疲労回復効果の高い食材があるのは嬉しいです。
疲れを感じている時はどちらを食べて疲労回復したいです
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「海賊とよばれた男 (下)」百田尚樹

2018-02-12 22:32:18 | 小説


今回ご紹介するのは「海賊とよばれた男 (下)」(著:百田尚樹)です。

-----内容-----
当代一のストーリーテラーが放つ歴史ドキュメント小説の傑作!
敵は七人の魔女(セブン・シスターズ)、待ち構えるのは、英国海軍。
ホルムズ海峡封鎖を突破せよ!
第10回本屋大賞受賞作。

-----感想-----
※「海賊とよばれた男 (上)」の感想記事をご覧になる方はこちらをどうぞ。

「第三章 白秋 昭和二十二年~昭和二十八年」
昭和22年11月、国岡商店はついに石油販売業務を再開します。
この年、生死不明だった末弟の正明が満州から帰国します。
満州に攻め込んだソ連軍に捕まって二年近く収容所に入っていて、哀れなほど痩せすっかり弱り切っていたとありました。
ソ連に捕まると「シベリア抑留」のような恐ろしい仕打ちもあるので、よく生きて帰ってこられたと思います。
正明は帰国後は国岡商店の社員になります。

昭和23年8月、アメリカの石油会社「カルテックス」日本支社が国岡商店と提携したいと言ってきます。
石油配給公団からわずかな石油しか配給されず、売る油が足りない国岡商店にとって「我が社と提携すれば石油はいくらでも入れる」という提携の誘いはとても魅力的でした。
そしてカルテックスにとっても国岡商店の圧倒的な販売力は魅力でした。
しかしカルテックスは業務提携ではなく株式の譲渡を要求し、国岡商店の役員にカルテックスの人間を送り込んで子会社化しようとしたため、鐡造が激怒して交渉は決裂します。
カルテックスは代わりに最大手の日邦石油と提携します。
鐡造はその提携の条件を見て呆れた。何と、日邦石油は株式の50パーセントをカルテックスに委ねていたからだ。これほど屈辱的な提携があるだろうか。おそらく経営陣には多数のアメリカ人が乗り込んでくることだろう。
そして鐡造は国岡商店創業以来長く親会社だった日邦石油が外油に乗っ取られてしまったことを悲しみます。

9月、GHQが「石油配給公団を翌年3月末までに解散し、4月から民間の石油元売会社が石油製品の輸入および販売を行うように」と指示を出し、民間の石油元売会社が石油製品を輸入して販売できるようになります。
ただし元売会社の条件に「石油タンクを持っていること」とありました。
今の国岡商店には石油タンクがなく、公団の解散から逆算するとあと三ヶ月のうちにタンクを手に入れる必要がありました。
この時鐡造が「三ヶ月でタンクを手に入れることは、不可能だ」と初めて弱気な姿を見せ、重役達は驚きます。
重役になった東雲が「店主、希望は捨ててはいけません」と言うと鐡造は弱々しい笑みを浮かべ「いや、今度ばかりは無理だ」と言います。
すると東雲が凄く印象的なことを言います。
「店主がそんな弱気なことを言えば、長谷川さんに怒られますよ」
鐡造はかつて長谷川を後継者にしようと思っていましたが太平洋戦争(大東亜戦争)で帰らぬ人となりました。
私は東雲の言葉を見て、東雲は第一章で鐡造が「国岡商店の次代を担う男にしたい」と言っていたとおりの存在になったと思いました。
鐡造は東雲の言葉で目を覚まし何としてもタンクを手に入れようと決意を新たにします。

やがて旧三井物産のタンクが公開入札になるチャンスを見つけます。
しかし確実に競り落とすには資金が4千万円は必要で、鐡造はふと東京銀行に行ってみようと思います。
旧知の仲の営業部長の太田に「大江清常務に会ってみてはどうか」と勧められ、大江に会い4千万円の融資の相談をすると、何と大江はあっさり承諾してくれてこれには鐡造も驚きます。
大江は二年前、門司支店に出張に行った時に佐世保の旧海軍のタンク底で働く国岡商店の社員達の姿を見て衝撃を受けてました。
このような若者たちがいるかぎり、日本は必ず立ち直れると確信した。
銀行はこういう男たちがいる会社こそ援助しなくてはならないのではないかー。

その時のことがあり、鐡造が融資の相談に来たと知った瞬間に額がどれだけになろうと融資をしようと決めたとありました。
第二章では銀行の融資担当者や重役が鐡造の人間性に感銘を受けて助けてくれることが何度もあったのですが、今回は国岡商店の社員達の働きぶりが大江の心を動かしていました。
圧倒的な人間性を持つ鐡造の元に集う社員達の働きぶりもまた素晴らしいです。
融資を得て参加した入札で、国岡商店は14基のタンクを手に入れます。

昭和24年、石油配給公団の解散準備委員会が開かれますが、GHQがスタンバック、カルテックス、シェルの外油三社の代表を参加させろと要請してきます。
外油三社の代表は「元売会社の資格要件」を出してきて、その要件の一つに「将来、輸入販売について外油社と提携を有するもの」とありました。
外油との提携は日邦石油が会社を乗っ取られたように、ただの業務提携ではなく株式を譲渡して子会社になるということです。
また「元売会社の資格要件」には明らかに国岡商店を除外するために作った項目もあり、東雲は日本のために懸命に戦っている国岡商店を外油と手を結んだ同胞達が寄ってたかって潰そうとしていることに憤ります。
国岡商店以外の日本の石油会社は自分達の会社が儲かるためなら日本の石油産業が外油に支配されても構わないと言っているのと同じで酷いと思います。

しかし3月の初めに再び開かれた解散準備委員会にて、商工省石油課長の人見孝が反対してくれます。
人見は、外油の出した「資格要件」は外油が日本の石油業界を支配しようという意図を持っていることを見抜いていた。そしてこれは何としても阻止しなければならないと考えていた。石油は日本の復興になくてはならないものである。そのもっとも重要な物資を外国資本に握られてしまえば、日本に真の復興はない。
人見も鐡造と同じように日本全体のことを考えていました。
人見の反対によって外国三社が出してきた「元売会社の資格要件」は取り下げられます。
鐡造は人見のことを次のように言います。
「たとえ九十九人の馬鹿がいても、正義を貫く男がひとりいれば、けっして間違った世の中にはならない。そういう男がひとりもいなくなったときこそ、日本は終わる」
これを見て、もし商工省に人見がいなければ腐敗した人達によって石油業界は完全に外国資本に支配されていたと思いました。

ついに国岡商店が元売会社の一つに指定されます。
翌日、国岡商店と同じく元売会社に指定されたスタンバックの重役のダニエル・コッドが国岡館を訪ねて祝福してくれます。
コッドは第一章、第二章にも登場していて、最初は鐡造を敵視していましたが途中から人間性を認めていました。
「これからは同じリングで相見(あいまみ)える者同士となったが、互いにベストを尽くして戦おう」と言っていて、この人も立派だと思いました。

昭和24年3月31日、石油配給公団が解散します。
国岡商店は圧倒的な販売力を見せ、焦った外油は日本の石油会社との提携を急ぎ、日本の大手石油会社は子会社にされるのと同然の提携を結びました。
そして日本の石油会社を呑み込んだ外油は国岡商店に対して総攻撃を仕掛けてくるに違いなく、鐡造は外油の包囲網をいかにして打ち破るかを考えます。
外油の中でも巨大な石油会社は「メジャー」と呼ばれ、特に次の七つのメジャーは「セブン・シスターズ(七人の魔女)」と呼ばれ戦後長きに渡り世界の石油を支配します。

スタンダード・オイル・オブ・ニュージャージー
ロイヤル・ダッチ・シェル
アングロ・ペルシャ(アングロ・イラニアン)
スタンダード・オイル・オブ・ニューヨーク
スタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア
ガルフ
テキサコ

鐡造が外油の包囲網を打ち破るために求めた力はタンカーを造ることでした。
しかしタンカーの建造計画を握る経済安定本部(後の経済企画庁)がタンカー建造を認めてくれず鐡造は焦ります。

この頃、長男の昭一が大学受験に続けて失敗して浪人生活を送っていました。
鐡造は半分は国岡商店を立て直すために奔走し家族に目を向ける余裕のなかった自分のせいだと思います。
鐡造は思い切って昭一をアメリカに留学させます。
アメリカは憎い敵ではあるが、すぐれたところもある。
昭一に「アメリカの素晴らしいところを学んできてもらいたい」と言っていて、憎くても優れたところがあるのを認められるのも鐡造の器の大きいところです。

資源庁が鐡造の主張を支持し、運輸省海運局と経済安定本部長官に宛ててタンカーを追加造船する要望書を出してくれます。
これにより二隻のタンカーが建造されることが決定しますが、一つはタンカー業界大手の飯野海運に決まります。
残り一隻のタンカーを何としても手にしたい鐡造は正明とともに経済安定本部金融局の財政金融局長、内田常雄を訪ねます。
そして鐡造は国際石油カルテルによる日本経済支配と戦う決意を語ります。
鐡造の思いが通じ、国岡商店がタンカーを持つことに決まります。

再び東雲が鐡造の後継者だと感じる場面がありました。
国際石油カルテルの国岡商店を潰すための策謀に鐡造よりも先に気づきます。
策謀によってアメリカから重油を輸入すると赤字になるのが確実なため、東雲は鐡造に輸入を中止しましょうと言います。
すると鐡造が凄いことを言います。
「戦後、国岡商店は廃油を浚うためにタンク底に潜った。この過酷なる事業で国岡商店は多大なる赤字を出したが、これによりGHQから日本政府に石油が供給された。つまりわれわれは日本のために役立ったのだ」
「われわれはもう一度タンク底に戻るべきではないかと思う。日本は今、重油を必要としている。そのために国岡商店は立つ。利益は考える必要はない」

東雲は鐡造の器の大きさに胸が熱くなります。
国際石油カルテルの策謀で赤字になるのが分かっていても、日本が重油が足りなくて困っているのだから輸入するというのは凄い決断だと思います。
ただの商売人には絶対できない決断です。
しかしこの輸入で赤字が出て、国岡商店は国内外合わせて13社もの敵に斬りかかられながら何とか耐えています。
日本のために尽くしている会社がそうではない会社達に寄ってたかって斬りかかられるのは酷いです。

昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約が結ばれ日本の主権が承認されます。
そして12月22日、ついにタンカー「日章丸」二代目が完成します。

昭和27年1月、常務になった武知は部下の宇佐美課長とともに日章丸に積み込む重油と軽油を買い付けにアメリカに行きます。
サンフランシスコ港に到着した日章丸の船上では航海の成功を祝うパーティーが開かれ、当時世界最大の銀行だったバンク・オブ・アメリカ(BOA)の極東担当部長のハリー・クィネルと、国岡商店の代表者として出席していた正明が出会います。
クィネルは国岡商店に好意を持っていて融資の相談にも乗ると言っていました。
石油業界では国内外の会社が寄ってたかって国岡商店を潰そうとしていますが銀行の人からは好意を持たれることが多いのがとても印象的です。
石油利権に染まっていない人は国岡商店の行いをきちんと見てくれているのだと思います。

昭和27年5月、日章丸がロスアンジェルスに着き、武知と宇佐美が用意していたガソリンを持ち帰ります。
武知は日本に進出しているメジャーの目を逃れ、現地で独立系のサンオイルという小さな石油会社との契約に成功していました。
日章丸が持ち帰ったガソリンを鐡造は「アポロ」と名付けて全国の国岡商店の営業所で驚くほどの低価格で販売します。
アポロガソリンは日本国内で売られていたガソリンとは性能がまるで違い消費者を驚かせ、飛ぶように売れて国岡商店は飛ぶ鳥を落とす勢いになります。
しかしメジャーがサンオイルに圧力をかけ、突然「商談を取り止めたい」という電報がきます。
「アメリカでメジャーに逆らって生き延びる道はない。」とあり恐ろしいなと思いました。
武知と宇佐美はすぐにヒューストンにある小さな石油会社と新たに契約を結びます。
しかしヒューストンにもメジャーの手が回り、鐡造はメジャーの包囲網を突破するには尋常の手段では無理だと悟ります。

昭和27年3月、正明はブリヂストンタイヤの社長、石橋正二郎(しょうじろう)から家に来てくれないかと電話を受けます。
正明が石橋の家に行くとモルテザ・ホスロブシャヒというイラン人がいて、イランの石油を買わないかと言ってきます。
イランの油田は1900年代初めにイギリスが開発し、長年に渡ってイギリスの国策会社アングロ・イラニアン(現ブリティッシュ・ペトロリウム=BP)のものでした。
しかし1951年、イランは石油国有化法案を国民議会で通過させ、アングロ・イラニアンの全施設を接収します。
イギリスはこれを認めず、軍艦をペルシャ湾に出動させ威嚇します。
イギリス政府は「イランの石油はイギリスのものである」と宣言し、国際司法裁判所に提訴し、さらに世界の国に対して「イランの石油を買わないように」と警告を発していました。

正明は一度鐡造にイランの石油を買うかどうか相談しますが当初はイランがイギリスの油田を盗んだと考えていたため買わないことにしました。
ただし昭和27年4月にアメリカがイランと技術援助協定を結び、これはアメリカがイランの石油国有化を認めたのと同じことで、状況が変わります。
アメリカはこの機を利用して新たな原油資本を得ようとしていて、やることがせこいなと思います。
正明は鐡造に「ぼくらが知らされている情報は全部、イギリスからのもので、実情はかなり違うらしい」と言います。
鐡造は常務になった東雲にイランの国情と石油国有化の事件を調べさせます。

その結果、イギリスは石油1トン当たりの支払額がイランには他の中東諸国の三分の一前後しか払っていないことが明らかになります。
さらに第二次世界対戦で戦後の経済開発を約束してイランを連合国として参戦させましたがその約束も反故にしていました。
鐡造の「大英帝国のやりそうなことだな」は印象的でした。
「鬼畜米英」の「英」は伊達ではなかったのだなと思いました。

鐡造は日章丸が誕生しようとしていたまさにそのとき、はるか海のかなたでイランがアングロ・イラニアンの接収を開始したのは偶然ではないと思います。
ふと思い立って東京銀行に行ったら巨額の融資をしてもらえたことのように、鐡造の人生には運命の導きのようなことがよく起きます。
イギリスは世界各国に「イランと石油を取引する者に対しては、必要と思われるあらゆる措置をとる」と警告を発していて、民間船を武力で制圧するとも受け取れるため、どの国もイランから石油を買えずにいます。
この経済封鎖によってイランは危機的な状況になっています。

7月、鐡造の元をウィリウス・マホニーというアメリカ人が訪ねてきます。
マホニーはコンサルタント会社のメンバーで弁護士でもあり、一時はGHQの法務局員も務めていました。
マホニーは国際司法裁判所が「イランの石油はイギリスのものではない」とイランに有利な判決を下したと教えてくれます。
これを聞いて鐡造はこの機を逃してはならないと思います。
鐡造はマホニーのボスであるスタンダード・リサーチ・コンサルタントの社長、ポール・B・コフマンとも会い、イランの石油を買う決意を固めます。
イギリスが何をするか分からず危険ではないかと言う重役達に鐡造は言います。
「君たちはイランとの取引で、国岡商店の未来を心配しているようだが、これは未来を切り拓くための取引である。国岡商店は今、国際石油カルテルの包囲網の中でもがいている。彼らは配下におさめた日本の石油会社と手を結び、国岡商店をつぶそうとしている。このわれわれの状況はまさに、国際社会におけるイランと同じ状況である」
「イランの苦しみは、わが国岡商店の苦しみでもある。イラン国民は今、塗炭の苦しみに耐えながら、タンカーが来るのを一日千秋の思いで、祈るように待っている。これをおこなうのが日本人である。そして、わが国岡商店に課せられた使命である」


9月の終わり、鐡造は正明と武知をイランの首都テヘランに送り込むことを決めます。
これは一部の重役だけが知る超極秘事項です。

鐡造はイランから石油を運ぶために日章丸は使わず飯野海運からタンカーを借ります。
日章丸には莫大なお金がかかっていて、もしイギリスに拿捕されれば国岡商店は倒産してしまうからです。

11月、正明と武知が羽田空港から出発します。
テヘランに着いた二人は首相官邸でモサデク首相と会談します。
しかし石油購入を巡っての話し合いはなかなかまとまらず、次にハシビイという石油販売に関しての権限を持つ国会議員との交渉になります。
ハシビイは値段について無理難題を言っていて、さらに国岡商店のことを嘘をついたり誤魔化したりする会社という発言をしたため武知が激怒します。
「国岡商店は七年前、戦争に負けてすべてを失った。日本中に失業者が一千万人も出た中、店主は千人の店員をひとりも首を切らなかった。利益の追求を第一に考える会社がそんなことができるか!」
12月30日、ついに契約の草案ができます。
そして2月、正式に契約書に調印します。

その頃、飯野海運が突如タンカー「日南丸」のチャーターを断ってきます。
まさかの事態に鐡造は日章丸をイランのアバダン港に送ることを決断します。
日章丸が拿捕されれば国岡商店は倒産することになるが、日本人が信義を果たす国民であることをイランの国民は知るであろう。そして、このことは必ず両国の今後の友好関係にとって大きな力となる。
国岡商店が倒産した時の社員達の身の振り方も考えていて、国岡商店の社員の販売力は圧倒的なので、鐡造が石油業界に頭を下げて回れば新たな職を得ることができるとありました。
ただし国内外の石油会社から敵視されている鐡造に再就職の道はないため、東雲に「乞食になる」と言っていました。
すると東雲は真面目な顔で「そのときはお供いたします」と言っていて、私はこれを見て鐡造は良い後継者を持ったと思いました。

鐡造が日章丸船長の新田に「イランのアバダンに行ってもらいたい」と言うと新田は快諾してくれます。
新田は肝が据わっていて、鐡造が「今回の航海は今までの航海とは違い、万が一の時には船が沈むかも知れない」と言うと不敵に笑っていました。

3月23日、日章丸の出発の日を迎えます。
イランに行くのは極秘のため、新田と機関長の竹中幹次郎(みきじろう)以外の船員はサウジアラビアに行くと思っています。
見送りにきた船員の家族もそう思っているため、鐡造はそのことを心苦しく思っていました。

4月5日、日章丸がセイロン(現・スリランカ)の南、コロンボ沖に差し掛かった時、国岡商店から「アバダンに行け」の暗号文の無電が入ります。
この暗号が届いたらただちに行き先をイランに変えることになっていました。
新田が全員をキャビンに集め鐡造からあずかっていた手紙を読むと、緊張とともに船員達の士気が一気に上がります。

4月9日の昼過ぎ、日章丸はシャット・アル・アラブ河口に着きます。
河口を約三時間航行していくとアバダン港があり、新田達はアバダン製油所の物凄い光景を目にします。
タンクの数は無数とも言えるほどの数だった。これほど巨大な製油所はアメリカでも見たことがない。岸一面、まさしく見渡すかぎり、地平線のかなたまで製油所の施設が立ち並んでいる。世界一の製油所というのは嘘ではなかった。
私はここを読んでいて胸が高鳴りました。
河口を進んでいて目の前にこんな光景が見えてきたら圧倒されてワクワクした気持ちになると思います。

日章丸がアバダンに着いたというニュースは世界に衝撃を与えます。
鐡造は国岡館で記者会見を開きます。
記者達の多くは国岡商店に対して好意を抱いてくれていました。
鐡造の語った次の言葉は印象的でした。
「私は国岡商店のためにおこなったのではない。そんな小さなことのために、日章丸の五十五名の生命を賭けることはできない。このことが、必ずや日本の将来のためになると信じたからこそ、彼らをアバダンへ送ったのです」
鐡造は必ず目の前の損得よりも日本の将来を考えていて、一貫したこの信念は素晴らしいと思います。

日章丸にガソリンを積み終わると、船上でイラン国営石油会社の社長や重役、地元の有名人達を招いてパーティーが開かれます。
そして宴が終わり、イギリスが死に物狂いで追ってくることが予想される復路に向けて新田は気迫をみなぎらせます。

日章丸がアバダン港を出港して8日目の4月23日、新田と一等航海士の大塚が航路の話をしていて「イギリス領のシンガポール」とあったのは印象的でした。
この時点ではまだイギリスの植民地だったのかとしみじみとしました。
新田はイギリス軍の裏をかくために出口にシンガポールがあるマラッカ海峡は通らずに、スマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡を通ります。

イギリスのアングロ・イラニアン社は激怒して訴訟代理人を日本に送り込んできていて、裁判は避けられない様相となります。
イギリスの狙いは裁判所に申請して日章丸からガソリンを陸揚げできないように仮処分を出してもらうことで、正明と武知は国際弁護士として活躍している柳井恒夫に相談して仮処分阻止に動きます。

5月9日、川崎沖に日章丸が姿を現します。
そこにはたくさんの報道陣や見物客、国岡商店の重役達、乗組員の家族、イラン政府の代表団が詰め掛けていました。

その頃、東京地裁では日章丸の石油仮処分の口頭弁論が行われ、国岡商店が有利になります。
また国民の大多数は国岡商店を応援していました。

そして5月27日、「仮処分申請を却下する」という判決が出て国岡商店は勝訴します。
さらにイラン政府はイギリスの威嚇に屈せず日章丸をイランに出港させた国岡商店の勇気に敬意を表し、国岡商店と破格の好条件でガソリン取引することを世界に向けて発表します。
国岡商店は半世紀以上に渡って世界を支配してきた国際石油カルテルの一角を見事に突き崩しました。


「第四章 玄冬 昭和二十八年~昭和四十九年」
昭和28年8月19日、イランでクーデターが起きてモサデク首相が解任される大事件が起きます。
クーデターはアメリカのCIAが仕掛けたものでした。
イギリスが秘密裏にアメリカと交渉し、アメリカがモサデク政権を打倒する代償にイラン石油の40%の利権を譲渡するという密約をしていました。

鐡造はイラン国営石油会社との契約は大丈夫なのか確認するために正明と武知をイランに行かせます。
9月の終わり、正明と武知がイラン国営石油会社を訪れるとバヤット社長は国岡商店との契約は心配ないと言ってくれます。
ところがアメリカが国際コンソーシアム(出資者連合)を作ってイラン国営石油会社を支配しようとして動き出します。
「セブン・シスターズ(七人の魔女)」に戦後急速に力を伸ばした「フランス石油会社(CFP)」が加わり、八つの頭を持つ「やまたの大蛇」のような国際的大石油会社が生まれます。
そしてイラン国営石油会社はこのコンソーシアムの子会社にされてしまいます。
さらにイラン国営石油会社は今までの契約を反故にして国岡商店が圧倒的に不利になる取引条件を通告してきます。

コンソーシアムによってイランとの取引を不可能にされた鐡造は危機感を持ちます。
もし国岡商店がつぶれれば、日本の石油市場は完全にメジャーに乗っ取られるだろう。今や近代国家にとって最大のエネルギーとなった石油を支配されることは、日本の産業界すべてが支配されることを意味する。そうなれば、日本が欧米に対抗することは永遠に不可能となるだろう。
国岡商店よりも日本の行く末を案じているところが鐡造らしいです。
鐡造の目にはメジャーに喰いつかれて危機的な日本の石油市場の姿が常に映っているのだと思います。

それでもイラン国営石油会社との一年半の取引で国岡商店は完全に甦っていました。
また「今や押しも押されもせぬ大企業となった国岡商店」という言葉を見て、国岡商店がとても大きな会社になったのを実感しました。
第三章までの国岡商店は第二章で勢いのあった時期を除けば常に劣勢に立たされていましたが、第四章は国内外の大石油会社と対等に戦う力を得た国岡商店の話なのだと思いました。

鐡造はメジャーに対抗するには原産国から直接原油を仕入れ、自社で精製して石油製品にして販売するしかないと考え、製油所の建設を急ぎます。
昭和30年10月、70歳になった鐡造はBOAに融資のお願いをするために武知を連れてアメリカに行きます。
そして副社長のジョージ・カランと会って話をすると何と1千万ドルもの融資をしてもらえます。
この時武知は次のように胸中で語っていました。
イラン国営石油会社をあのような汚い手口で乗っ取ってしまうメジャーもアメリカ人なら、BOAのように国岡商店の経営理念に多額の融資をするのもアメリカ人ということに、アメリカという国の持つ底知れぬスケールを見たような気がした。店主はそんなアメリカ人の気質を自分よりももっと早くわかっていたのだろう。息子をアメリカに学ばせたのも、おそらくはそのためだ。
これはアメリカ人は良くも悪くも利益を第一にし、さらに素晴らしいものは素直に素晴らしいと評価するということではと思います。
アメリカのメジャーにとって国岡商店は敵と知ってはいても、カランは国岡商店の経営理念を評価して多額の融資をしていました。

次に二人はピッツバーグに行き、セブン・シスターズの一つ「ガルフ」を訪れます。
ガルフはアジアに進出していなかったため国岡商店とは一度も競合したことのない会社でした。
ガルフはクウェートに油田を持っていて、鐡造はガルフからクウェートの原油を輸入することを考えていて、アジアに進出していないガルフにとっても国岡商店とのビジネスは大歓迎でした。

次に二人はシカゴに行き、石油精製工場の開発会社である「ユニバーサル・オイル・プロダクト・コーポレーション(UOP)」を訪れて山口県の徳山に精製工場の建設を依頼します。
鐡造は精製工場にこだわりがあり、次のように言っていました。
「徳山は瀬戸内海に面した美しいところです。この美しい光景は住民たちのものであるべきです。いや、日本の国民の共通の財産です。ですから、この街に精製工場を作るときは、無味乾燥な冷たい工場ではなく、見た目も美しい工場にしたい」
このこだわりは素晴らしいと思いました。
UOPのベネマ社長も共感して「世界で最も美しい製油所を作る」と言ってくれます。

昭和31年3月、起工式を済ませると鐡造は東雲を建設本部長に任命します。
鐡造は何と通常は三年かかる工事を5月に着工してから10ヶ月で完成させろと言います。
なぜか工事を急ぐ鐡造を見て東雲は、鐡造が自身が亡き後のことを考えていて、製油所があれば国岡商店はやっていけると思っているのではと思い、工場の早期完成を決意します。

工事では山陽本線沿いに長い緑地帯を作り、樹木や花を植えて市民が散歩できるように遊歩道を作ったとありました。
私は山陽に住んでいたことがあるのでこの工場は見てみたかったと思いました。

そして昭和32年3月、何と本当に10ヶ月で製油所が完成します。
鐡造がなぜ工事を急いでいたのかの真の理由も明らかになります。
今や押しも押されもせぬ大企業になっても鐡造は常に挑戦者の気持ちを持っているのがよく分かりました。
鐡造は工事に携わった国岡商店の社員と下請けの労働者達の働きを労いながら東雲に次のように言います。
「これが日本人の力だ。こういう日本人がいるかぎり、日本は必ず復興する。いつの日か、もう一度、欧米と肩を並べる国になる日が来る。いや、その日はもう遠くない」

製油所を工事中の昭和31年8月、ガルフとの間に正式に契約を結びます。
これまでセブン・シスターズと提携した日本の石油会社が株式のかなりを譲渡させられたり経営陣に乗り込まれたりという屈辱的な契約だったのに対し、国岡商店は株式も経営権もいっさい口出しさせない対等な契約を結んでいてそこが大きな違いでした。

徳山製油所には徳山港の海が浅くて大型のタンカーが接岸できないという欠点があるため、鐡造は資材課長の重森俊雄に「大型のタンカーが入れるようにしろ」と命じます。
重森は沖に停泊しているタンカーの原油を海底パイプで製油所に送り込む「シー・バース方式」という方法を見出し、海底パイプを施設する工事を行います。
昭和33年は原油輸入、石油製品生産、そして販売の三部門を手にした国岡商店がいよいよ本格的に動き始めた年でもあったとありました。
ここから国岡商店はどんどん業績を伸ばします。

昭和36年、好景気に支えられ石油の需要が増え続け、徳山製油所をフル稼働しても需要を賄いきれないため、鐡造は東洋最大の製油所建設を計画し、千葉県の姉崎(あねがさき)海岸に徳山製油所の6倍以上の広大な土地を取得します。
また徳山に一大石油化学コンビナートを作る計画も立てていました。
次々と新しい構想とアイデアを生み出し、それを実行に移していく鐡造を、優秀な重役たちがサポートした。中でも、武知、正明、東雲の三人は、同業他社の者たちからその凄腕を怖れられた存在だった。いずれも他社にいれば素晴らしい経営トップになれたであろうと言われていた。
私はついに国岡商店がここまで凄い存在になったのかと嬉しくなりました。

昭和36年9月、国岡商店は東銀座から丸の内に本社を移転します。
会社があまりに大きくなったため、もはや国岡館では機能が果たせなくなっていました。

11月、国岡商店は50周年を迎え式典を開きます。
しかしその直後、日田重太郎の病が重いという知らせが届きます。
戦後、日田は自由が丘にある鐡造が用意した家で息子夫婦と暮らして87歳になっていました。
日田の生活費や彼の身の回りの世話をするお手伝いさんの給料も全て鐡造が払い、さらに日田のために軽井沢に別荘も作ったとあり、鐡造がいかに日田に大恩を感じているかが分かりました。
昭和37年2月、日田が亡くなります。
死の間際、故郷の淡路に帰りたいと言っていた日田のために鐡造は葬儀を淡路島で国岡商店の社葬として執り行います。
鐡造の弔辞は美しく悲しく、鐡造と日田が麗らかな春の日差しを受けて歩いている場面が浮かんできて、読んでいて涙が出ました。

日田の葬儀から間もなく、政府が「石油業法」という法律を成立させます。
この法律は自由貿易に歯止めをかけ、石油業界を統制して生産調整をしようというもので、明らかに国岡商店を抑え込むためのものでした。
鐡造はこの法律はいずれ「消費者不在」「官僚の統制」につながると見て反対を表明しますが他の多くの石油会社は国岡商店を抑え込めることから賛成します。
しかし鐡造は珍しくあっさり引き下がっていて、東雲はなぜ徹底抗戦しないのか気にしていました。
鐡造はこの頃、引退を考えていました。

昭和37年の暮れ、日本を異常寒波が襲い全国的に灯油が足りなくなり、さらに跳ね上がる電力需要に火力発電所の重油が不足する事態が起こります。
ところが「石油業法」があるために国岡商店の徳山製油所のタンクには有り余るほどの原油があるのにそれを製品にして販売することができませんでした。
石油業法による生産調整の失敗は誰の目にも明らかでしたが政府と石油連盟は生産調整を続けようとします。
この事態を見て鐡造は消費者のために立つことを決意します。
これが生涯最後の戦いになるだろうとありました。

石油連盟も通産省も国岡商店に対して生産調整の協定に従うように言ってきて鐡造と重役達は激怒します。
鐡造は石油連盟脱退を決断し、記者会見で堂々と語ります。
「われわれは何も怖れていない。生産調整は間違っている。国岡商店は、常に消費者の立場に立って、正しく行動しているのであるから、なんら疚しいことも恥じることもない」
「政府の石油業界に対する干渉はあまりに強すぎる。消費者の立場を完全に忘れ、供給制限をやるのは間違いである。まして輸入自由化に逆行する統制強化は時代錯誤も甚だしい」


国岡商店の徹底抗戦によって、ついに福田一通産大臣が「生産調整をできるだけ早いうちに廃止し、石油市場を自由化して消費者の立場も尊重する」と発言します。
昭和41年8月、ついに生産調整が廃止されます。
「「統制の時代」が、この日をもって幕を閉じた。」とあり、市場経済の下で石油を自由に販売できるようになりました。

昭和41年9月、鐡造は国岡商店の本社を日比谷の国際ビルに移し、その翌日に正明を社長に、東雲を副社長に任命します。
鐡造は隠居するつもりでしたが正明に「社長を辞めても、店主は辞めることはできません」と言われ会長になります。

昭和43年5月、71歳になっていた専務の武知が引退します。
物語の終盤は大きな戦いもなくゆったりとした気持ちで読めました。

鐡造は「会長」という肩書が嫌なため、会社の定款に「当会社は創始者国岡鐡造を店主と称する」という一文を入れ、正式に「店主」になります。
昭和46年、国岡商店は創業60周年の式典を開きます。
鐡造は86歳になっていましたがまだまだ矍鑠(かくしゃく)としていました。
昭和47年、72歳の正明が社長を退き63歳の東雲が新社長になります。
鐡造は重役達の顔を見渡し、どの顔もたくましい顔つきをしているのを頼もしく思います。
自分が死んでも、この男たちがいるかぎり国岡商店は大丈夫だろう。
最後の「終章」で鐡造は95年の生涯を閉じます。


ドキュメンタリー小説の良さは、かつて日本にはこんなに偉大な人がいたというのを小説で後世に語り継げることだと思います。
私は鐡造の生涯を無理とは思いますが大河ドラマで見たいと思いました。
明治、大正、昭和を生き、小さな商店での勤務から始まり、独立して国岡商店を開き、幾度もの苦難に見舞われながら、やがて押しも押されもせぬ大企業になる生涯はとても面白かったです。
大河で見たいと思わせてくれるような偉大な人物の生涯を描いた作品を読むことができて良かったです。


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ブログ開設から4000日

2018-02-07 21:38:59 | メモリアル
今日でブログの開設から4000日になりました。
2007年2月25日にブログを始めてからちょうど11年経っています。

11年の間に、直前の記事の内容から見て、もしかしてこの人はもうこの世にいないのかなと思ったことがありました。
ある時を境にブログの時間が止まっていて、しかしその時までは確かにその人がこの世にいたことを示しているブログは、独特の静けさを持っています。
砂漠や廃墟といった言葉が思い浮かびます。
ネットの世界であっても生と死の温度差は伝わってくるなと思います。

この11年、私自身も色々なことがありました。
死にたいと思ったこともありますし、生きたいと思ったこともあります。
その繰り返しが人生なのかなと最近ふと思いました。
死にたい思いと生きたい思いは正反対なようでいて、互いにつながっていると思います。
死にたいと思っている時は生きたい気持ちが「待て、死ぬな」と生きるほうに引っ張っていきます。
生きたいと思っている時は、絶えず死にたい気持ちが後ろで気配を忍ばせていて、何かの拍子に落ち込んだ時はすかさず引っ張り込もうとします。
互いに引っ張り合っていて、自分自身の中にはどちらの気持ちもあるというのを認めてあげることが、自分自身を受け入れてあげるということかなと思いました。
常に生きる気持ちだけを持っていなくてはいけないのだ、死にたい気持ちなどわずかでもあってはならないのだと強迫観念のように思うよりは、健全な状態ではと思います。

11年、4000日ブログを見たり書いたりしてきた中で、ブログにはその人の魂が宿っているのを何度も実感しました。
他の人のブログでは根っからの明るさ、朗らかさを感じる文章が私の好きな文章で、これは私にはなかなか書けない文章だからです。
やはり生まれ持った性格の違いは自然と文章に現れると思います。
そしてどんな人にも「その人の特徴」があり、他の人の特徴を真似したり無理に偉そうな文章を使うより、自身の特徴を生かして書く文章がその人にとって一番良いと思います。
これからもこの気持ちを大事にしてブログを続けていこうと思います。
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ブログの日

2018-02-06 23:06:19 | ウェブ日記
今日は2月6日で「ブログの日」とのことです。
「アメーバブログ」のサイバーエージェント社がブログの普及のために2007年に制定しました。
今まで意識したことはなくて、今年はツイッターで「今日はブログの日」という情報が流れてきたのを見て知りました。

私がブログを始めたのも2007年の2月で、偶然にも普及に向けてブログの日が制定された月にブログを始めました。
ブログは広く普及しましたが2018年までの間には何度か新型のネットワークサービスの登場で勢いに陰りが見られるかなと感じる場面がありました。

2009~2010年頃はツイッターが猛烈な勢いで普及していきました。
私も興味を持ち2010年の4月にツイッターを始めました。
リアルタイム性に優れ、一つのツイート(つぶやき)につき最大140文字でブログよりもお手軽なため、これはブログの時代ではなくなるかも知れないなと思いました。

2012年頃になると今度はフェイスブックが広く普及します。
同じ頃、ラインもスマートフォンの普及に合わせて広く普及しました。
インスタグラムもこの頃には広く普及していたと思います。

ブログはサービスの提供を終了する企業もあり、やはり最盛期に比べると勢いはなくなりました。
ただし次々と新型のネットワークサービスが普及していった中でも依然としてたくさんの人が活用しているのは凄いことです。
新型のネットワークサービス達と比べてブログは「総合力の高さ」が大きな武器のような気がします。
文字数は少なくても多くても良く、写真はあってもなくても良く、この組み合わせによって幅のある表現をすることができます。
ラインに見られる「既読にしたのだから早く返信しろ。それをなかなか返信しないとは、お前は友達ではない」のような、返信の早さを強要する歪んだ関係性もブログにはないです。

「140文字に特化したツイッター」、「写真に特化したインスタグラム」のように何かに特化しているわけではないですが総合力の高さで依然として高い人気があるのだと思います。
私もブロガーの一員としてこれからもマイペースに記事を書いたり他の人のブログを見に行ったりして楽しんでいきたいと思います
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「海賊とよばれた男 (上)」百田尚樹

2018-02-05 00:21:53 | 小説


今回ご紹介するのは「海賊とよばれた男 (上)」(著:百田尚樹)です。

-----内容-----
1945年8月15日、男の戦いは0(ゼロ)からはじまった…
戦後忘却の堆積に埋もれていた驚愕の史実。
なにもかも失った経営者が命がけで守ったものは社員だった。
出光興産の創業者・出光佐三をモデルにしたドキュメント小説!
第10回本屋大賞受賞作。

-----感想-----
普段読む小説なら「この物語はフィクションです。」とあるところに「この物語に登場する男たちは実在した。」とありました。
短い言葉から力強さが伝わってきて、実在した男達の大活躍が予感されました。

「序章」
国岡鐡造(てつぞう)が小学校の校庭でラジオの玉音放送を聞き、日本が戦争に負けたのを知るところから物語は始まります。
東京への空襲が激化したこの年の5月、栃木県の松田(現・足利市)に小さな家を借り、妻の多津子と娘4人を疎開させ、東京では都立一中(現・日比谷高校)に通う17歳の長男、昭一と二人で生活していました。
鐡造は60歳で国岡商店という石油販売会社の経営者で、東京の銀座に本社の「国岡館」があります。
空襲によって銀座もビルの大半が瓦礫と化しましたが国岡館は奇跡的に焼失を免れていました。
国岡商店は鐡造が一代で築き上げ、社員達からは「店主」と呼ばれ、国内の営業所が8店、海外の営業所が62店あり、社員数は1千人います。
そのうちの700名弱は海外支店と営業所にいて、200名弱は軍隊に応召中とありました。
「戦前戦中、活動の大部分を海外に置いていた。戦争に負けたということは、それらの資産がすべて失われるということを意味していた。」とあり、国岡商店は存亡の危機に立たされていました。
しかし本社での訓示で、鐡造は社員達が国岡商店の終わりを告げられるのを覚悟する中、毅然として次のように言いました。
「日本には三千年の歴史がある。戦争に負けたからといって、大国民の誇りを失ってはならない。すべてを失おうとも、日本人がいるかぎり、この国は必ずや再び立ち上がる日が来る」
ここから国岡商店の立て直しに向けた苦闘が始まります。


「第一章 朱夏 昭和二十年~昭和二十二年」
9月の終わりに国岡商店で重役会議が開かれ、重役達が「社員の首を切りましょう」と言います。
国岡商店は終戦後は石油を手に入れるルートを失い開店休業状態になっています。
海外の資産は全て消失し莫大な借金だけが残り、まずは社員の首を切らなければどうにもならないというのが重役達の主張です。
しかし鐡造は「ひとりの馘首(かくしゅ)もならん」と言います。
重役の一人がなおも「社歴が浅い若い者だけでも辞めてもらうというのはどうでしょう」と言うと、鐡造は激怒して次のように言っていました。
「店員は家族と同然である。社歴の浅い深いは関係ない。君たちは家が苦しくなったら、幼い家族を切り捨てるのか」
これは凄まじい覚悟のある言葉だと思います。
社員を使い捨てにするブラック企業の社長や幹部に聞いてほしい言葉です。

「国岡商店は何もかも失ったという者もいるが、それはとんでもない間違いだ。国岡商店のいちばんの財産はほとんど残っている
鐡造が全社員の名簿を見ながら常務の甲賀治作(じさく)に言ったこの言葉は良い言葉だと思います。
たしかに人がいなければ何もできないです。
会社の仕事が消失した状態での人を「邪魔な存在」ではなく「これから新しく始める仕事をしてくれる大事な人材」と捉えているのが鐡造の凄いところだと思います。
戦国時代きっての名将、甲斐の虎・武田信玄の「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」の言葉が思い浮かびました。
情けを深く持って人に接すればその人は城のごとく殿を守ってくれる頼れる存在になりますが、薄情に接して仇に思われるようだと、いざという時に頼れるどころか裏切られるという意味です。
鐡造は外地から社員が引き上げてくるといったん忸怩(じくじ)たる思いで自宅待機を命じた後、自ら全国の社員達のもとを訪ね歩き、「必ず、仕事を作るから、今しばらく待っていてくれ」と言い当座の生活資金を与えていました。
鐡造の社員を守ろうとする姿を目の当たりにしたら社員達も国岡商店復活に向けて尽力してくれるのではと思いました。

妻もまた傑物でした。
会社の仕事が消失した中で社員の給料を払うために「財産を全部失ってもいいか」「お前が嫁に来るときに持ってきた着物も売り払うことになるかもしれん」と言う鐡造に笑って快諾していました。
これは以前読んだ河合隼雄さんの本に「夫婦の功績は半々」とあったのが思い浮かびました。
妻の多津子の支えがあってこそ、敗戦後の鐡造の活躍はあったのだと思います。

窮地に立たされている国岡商店にラジオ修理の仕事が舞い込みます。
元海軍大佐の藤本壮平という男が鐡造に面会を申し込み話を持ってきました。
日本を占領しているGHQ(連合国軍最高司令官司令部)が財閥解体や農地改革をはじめ様々な政策を打ち出し、それを日本各地に知らしめるために、放送施設の整備とラジオの普及を日本政府に命じました。
しかし空襲で通信機を作っていた工場は大半が焼けてしまい新規のラジオ製作が不可能なため、代わりに壊れているラジオの修理を急ぐように命じました。
逓信院は一旦壊れている2百万台のラジオの修理を民間に委託することにし、藤本はそれを国岡商店がやらないかと言ってきました。
鐡造の決断は凄く、ラジオ修理の事業をやるとその場で決めただけでなく、藤本をラジオ部の部長にして入社させました。

藤本は事業に必要な500万円(昭和20年ではかなりの高額)を銀行から融資してもらおうとしますが、応対した人から藤本の元海軍大佐の経歴をあげつらわれ、「だらしない海軍、そんなことだから戦争に負けたんだ」のようなひどいことを言われます。
ただし藤本は自ら元海軍大佐と名乗りどこかその経歴を誇る気持ちがあったことに気づき恥じ入ります。
「俺は今日から元海軍大佐という過去をいっさい忘れることにした。国岡商店の商人となって一から修行する」と決意を新たにしていました。
そして目の前でラジオの修理を実演して見せた熱意が通じ、ついに融資をしてもらえることになり、年が明けてラジオ修理の事業が始まります。

藤本が胸中を語っていて「死に場所」という言葉が二回続けて出たのは印象的でした。
一回目に死に場所と思ったのは戦場で二回目は国岡商店です。
戦争中、戦場を死に場所と覚悟した藤本ですが、戦争が終わった今は企業人として長く働いていこうとしています。
これは冒頭で鐡造が語っていた「昨日まで日本人は戦う国民であったが、今日からは平和を愛する国民になる」に重なると思います。

2月、南方からの初めての帰還船である旧海軍の駆逐艦「神風」に、復員兵士達に混じって国岡商店の社員17人が乗って第一便として帰還します。
続々と社員が帰還する中、鐡造は決意を新たにします。
日本は一刻も早く主権を取り戻し、独立を勝ち取らねばならない。それこそ鐡造の悲願であった。それには経済の復興が不可欠だった。国岡商店の使命もそこにあった。
単に国岡商店の存続だけを考えているのではなく、日本の主権回復、経済の復興を考え、そこに国岡商店も貢献したいと考えているのが鐡造の凄いところです。

鐡造はラジオ修理は素晴らしい事業だと思っていますが、頭の中にはやはり創業以来35年間一筋にやってきた石油のことがあります。
GHQは日本への石油の輸入を一切認めず、太平洋沿岸にある製油所も全て操業を中止させています。
日本政府は「現状のままでは日本人の生活が成り立たない」とGHQに石油輸入の要請をしますが、GHQは「旧海軍のタンクの底にたまっている油を浚(さら)え。これを使わない限り、新たに石油は配給しない」と言ってきます。
これは明らかな日本への嫌がらせで、タンクの底に残っている油は海軍の屈強な軍人でさえも汲み出せなかったとありました。

3月、商工省(現・経済産業省)から斎藤健治という役人が国岡商店を訪ねてきて、旧海軍のタンクの底にたまっている油を浚う仕事をしてほしいと言います。
当初商工省は石統(石油配給統制会社)に業務を発注しましたが、あまりに過酷な作業のため石統に加入している業者はどこも手を上げませんでした。
石統は戦中に軍部が石油の流通と販売を統制しようとして作った国策会社で、国内の石油は石統に加入している会社以外は扱えなくなっています。
役人との癒着が甚だしい会社でもあり、石統のやり方に反対している鐡造は石統から閉め出されています。
このため国岡商店は国内より海外の営業所のほうが大幅に多くなっていました。
鐡造は斎藤の頼みを聞き業務を引き受けます。
「タンク底を浚わないかぎり、新たに日本に石油を入れないというのであれば、やるしかないでしょうな」と言っていて、ここでも日本全体のことを考えていました。

国岡商店の社員達は梯子でタンクの底に降りて油を汲み出す作業を始めます。
泥が混じっていてポンプは使えないため人力で汲み出すしかないです。
過酷な作業にも関わらず社員達は嫌な顔一つせず活発に作業していて、鐡造は社員達の士気の高さに胸が熱くなります。

6月、鐡造に「公職追放令」が出されます。
公職追放令とはGHQが「戦争犯罪人」や「軍部に協力的だった」と見なした人を公職や会社役員から追放するというものです。
鐡造は貴族院議員でもあったためその辞職を勧告されます。
ただし公職追放の理由が事実無根の言いがかりだったため鐡造は激怒してGHQに乗り込みます。
この頃、GHQの恐ろしさは「泣く子も黙る」とまで言われ天下に知られていて、抗議しに行くのは異例のことでした。

鐡造はアメリカの石油資本などの国際石油資本に日本を蹂躙されるのを防ぐためなら、他の石油会社と合併して国岡商店がなくなっても構わないと考えていて、これは凄いと思いました。
自身が創業した会社がなくなってでも国際石油資本の支配から日本を守ろうとしていて、真に日本のことを考えています。

鐡造は東雲(しののめ)忠司という37歳の男を国岡商店の次代を担う男にしたいと考えています。
山口県の徳山でタンクの底から油を浚う作業の現場責任者をしている東雲を一旦呼び戻し、東雲を連れて商工省の鉱山局を訪ね、日本の石油市場を外国資本の石油会社の独占から守るためにすべきことを語ります。
ところが応対した鉱山局石油課長の北山利夫はあからさまに馬鹿にした対応をします。
さらにその場に石統社長の鳥川卓巳がやってきて、役人の北山と鳥川の蜜月ぶりを見ることになり、鐡造は石統と全面対決して解体する決意をします。

GHQ法務局は日本を経済的に立ち直らせるには石油業界の自立が必要と考えていて、この状況は役人や石統に敵視され逆境にある鐡造に味方すると思いました。
法務局のアレックス・ミラー少佐は石統を解体させ新たな石油配給機構を作ろうとしていて、「石油業界のしがらみには染まっていないが石油業界に人脈のある人物」を探していました。
まず終戦時に旧陸軍の軍務局に務めていて大佐だった武知甲太郎に声がかかります。
依頼を受けた武知は軍務局の局長で少将だった永井八津次(やつじ)に相談します。
この永井が鐡造と交友がありその人柄に惚れ込んでいて、武知に鐡造のことを紹介します。
GHQと会って会談をしてほしいと依頼された鐡造は快諾し、GHQが「お互いに相手の身分や名前を一切明かさないで会談したい」と条件をつけていて自身はGHQに広く顔を知られていることから、東雲を行かせることにします。

東雲とGHQ法務局の会談はとても実りのあるもので、応対したアレックス・ミラー少佐とソニー・レドモンド大尉は東雲の言葉に聞き入っていました。
三度目の会談ではお互い身分を明かすことになり、国岡商店の東雲忠司と名乗ります。
二人は国岡商店と鐡造を知っていて鐡造のことを凄く評価していました。

やがて鐡造の公職追放が解かれます。
鐡造の無実を知り、さらに人柄にも引かれていたGHQ法務局が公職追放の解除に尽力してくれていて、GHQの心をも動かす鐡造の人柄は凄いと思いました。

鐡造とGHQ石油課のアーヴィング・モア大佐の会談で、モアが戦争での日本人の恐ろしさを胸中で語る場面がありました。
四年近く戦った日本軍の恐ろしさは多くの者が知っている。ゼロ戦をはじめとする優秀な戦闘機、それに米太平洋艦隊をさんざん苦しめた空母艦隊。今は占領下にあり、羊のようにおとなしい国民だが、ひとたび牙を剥けば、あのカミカゼアタックのように、命を懸けて戦ってくる恐ろしい国民なのだ。そうならないように日本人の牙と爪をすべて抜いてしまうというのが、GHQの使命のひとつでもあった。
「GHQの使命」という言葉が印象的で、私はすぐに日教組(日本教職員組合)が思い浮かびました。
日本人の牙と爪を無くし二度と歯向かえないようにするためにGHQは日本の教育を破壊します。
反日左翼思想の教師(日教組の教師)を教育現場に大量に送り込み、国旗や国歌、そして日本を嫌いにするための反日左翼教育を行います。
これは次第に浸透し、国旗や国歌、そして日本を好きになる(愛国心を持つ)のは悪いことと刷り込まれた人達が大量に産み出されました。
日教組の教師は公務員でありながら式典での国旗掲揚や国歌斉唱まで拒否しています。
私はGHQの亡霊のような日教組の教職員は一人残らず教育現場から一掃するべきだと思います。

武知が国岡商店の社員にしてくれと言い鐡造は快諾します。
鐡造のもとにどんどん人が引きつけられていて、読んでいて勇気が湧いてきました

石統に代わる「石油配給公団」が設立されます。
公団には旧石統の幹部がそのまま居座っていて商工省の役人との癒着も酷いままです。
公団は石油販売業者の指定から国岡商店を外そうとします。
商工省に頼まれたから日本のためにタンク底の油を浚う過酷な作業をしているのに、国岡商店が指定業者から外されるのは酷すぎると思いました。
この情報を徳山のタンク底で作業をしている宇佐美幸吉(こうきち)という社員がいち早く知り、すぐに鐡造に知らせます。
やがて武知の活躍で公団の「販売指定業者要領案」を手に入れ宇佐美の情報の裏付けを得た鐡造は激怒します。
公団の旧石統の人達は商工省からタンクの底の油を浚う作業の発注を受けた時、その作業をしないとGHQが石油を日本に供給してくれないにも関わらず、作業をしようとはしませんでした。
過酷な作業は国岡商店に押し付け、その後の「石油供給再開」という旨味の部分だけ自分達で押さえるという最悪なことをしています。

ただしGHQは公団ではなく国岡商店に味方してくれます。
GHQが商工省の北山を呼び出して激怒したことで公団の石油販売業者の指定から国岡商店を外す計略は失敗に終わります。
鐡造が一人たりとも社員の首を切らないと決意した日から二年経ち、ついに再び国岡商店が石油を扱える日がきます。


「第二章 青春 明治18年~昭和20年」
鐡造の生まれは福岡県宗像郡赤間村(現・宗像市赤間)とありました。
少年時代の鐡造はとても勤勉なのと自身の将来をよく見据えているのが印象的でした。

明治40年、神戸高等商業学校(現・神戸大学)の三年生になった鐡造は夏休みに東北旅行をします。
その時にたまたま秋田市の八橋(やばせ)に油田が発見されこの年から開発が始められたことを知ります。
油田開発の現地を訪れた鐡造は石油に魅せられ、神戸に戻ってからは石油について猛然と調べます。
これがきっかけで鐡造は石油の仕事に就くことになります。

鐡造は学内でも特に目立たない学生でしたが、神戸高商の近くに住む日田重太郎(ひだじゅうたろう)という32歳の資産家の男は鐡造に注目していました。
日田は鐡造の人間性を見込み、中学受験をする息子の重一の勉強の指導を頼みます。
鐡造の指導はとても厳しいもので甘やかされて育った重一は何度も泣きますが、やがて見違えるほどしっかりした子になりました。
日田が妻の八重に「あいつは人を育てる才能があるのかもしれん」と言っていたのが印象的でした。

鐡造は従業員3人の酒井商会という小麦と機械油を扱う小さなお店の内定を貰います。
その数日後、先に受けて一度は落ちたと思われた鈴木商店からも内定を貰います。
鈴木商店は急成長を遂げていた新興の商社で、この数年後には年商日本一になったとありました。
しかし鐡造はいつか独立して自分で商社をやりたいという夢のために、小さな商店で何もかも自分でやってみる経験を積みたいと考え、酒井商会への入社を決断します。
同級生達は鐡造を露骨に馬鹿にしますが日田は鐡造の決意を聞くと納得していました。
そこには「鐡造らしいな」と思っている雰囲気があり、若いうちに日田という良き理解者を得たのは鐡造の幸運だと思います。

三年目の春、鐡造は酒井商会店主の酒井賀一郎から命じられ小麦を売り込むために台湾に行きます。
初めての大きな出張に鐡造はワクワクします。
これから自分は広く世界に打って出る。これはその最初の一歩だ。

台湾の大手製麺所は大商社の三井物産に押さえられていて、どうやって対抗するか考えた鐡造は台湾から神戸に様々な荷物を運んでくる貨物船の帰りが空船になることに注目します。
この空船で日本から小麦粉を運べば運賃を値切れるはずだと読みこれが当たり、運賃が安くなったことで小麦の値段も安くすることができ、台湾で百以上の得意先を開拓します。
これに腹を立てた三井物産の大橋と下柳という男が鐡造の泊まっている宿に押し掛けてきます。
下柳は高商時代の同級生で、小さな商店に就職した鐡造を馬鹿にしていましたが、小麦の戦いで鐡造に大暴れされたのが悔しくて上司に頼んで圧力を掛けにきていました。
大橋と下柳に鐡造は堂々と商売の信念を語ります。
「ぼくが安い価格で小麦を売りたいのは、商売を広げたいというのはもちろんですが、それよりも消費者に安い値段で提供したいからです。生産者と消費者がともに得をするのが正しい商いと信じています。どちらかだけが得をする商売は間違っています。ぼくはその橋渡しをしているのです」
鐡造の「生産者と消費者がともに得をする」という信念は素晴らしく、読んでいて胸を打ちました。

鐡造の生家では父の徳三郎が商売に失敗し夜逃同然で引っ越し、子供達もバラバラになっています。
そのことを知った鐡造は家族を一つにして皆で暮らすために独立の思いを強く持つようになります。

鐡造は日田に誘われ一緒に散歩をします。
話しているうちに日田は鐡造の中にある独立への思いを見抜きます。
何と日田は自身が京都に持っている別宅を売ってお金を作るから独立してみないかと言います。
しかも返済も不要で「あげる」と言っていました。
鐡造は日田は自分が思っていた以上に遥かに大きな器の持ち主かも知れないと思います。

明治44年6月20日、鐡造は25歳で九州の門司(もじ)に国岡商店を旗揚げします。
そしてバラバラになった家族を一つにしてまた一緒に暮らせるようにします。

鐡造は機械油を扱う商売を始めます。
独立して半年経ったある日、日田が門司に引っ越してきます。
日田は「神戸は飽きた」と飄々と言っていましたが実際には京都の別宅を売ってそのお金を鐡造に与えたことを親族達から責められ、関西に住みずらくなっていました。
しかしそんな様子はおくびにも出さないところに日田の器の大きさが表れていました。

門司での油の販売に苦戦する鐡造は機械油、シリンダー油、グリースなどの様々な油を混ぜて性能の優れたオリジナルの油を作ることを思いつきます。
鐡造の調合した機械油は明治紡績という福岡有数の大工場から絶賛され大量の発注を受けます。
国岡商店を創業して一年、初めての大きな商いになりました。

鐡造は伯父の安一に縁談の話を勧められ春日ユキと結婚します。
しかし商売は苦戦が続き独立して四年目の春、日田から貰った資金が底をつきます。

日田に国岡商店を廃業すると言うと、何と日田は神戸の家も売ってお金を作ってくれると言います。
何て凄い人なんだと思い、器の大きい鐡造を支えるこの人の器は計り知れないと思いました。

もう一度商売を徹底的に考え直そうと思った鐡造は灯油を燃料にする小型漁船を関門海峡で何艘も見かけていたことに気づきます。
鐡造が目を付けたのは燃料で、エンジンの燃料に灯油ではなく軽油を使用できれば燃料費を大幅に安くできるため、軽油でエンジンを動かす実験をして全く問題ないことを確かめます。
鐡造は門司の対岸の下関にある山神組(現・日本水産)にエンジンに軽油を使ってもらうための交渉に行きます。
そして応対した技術者が鐡造の実験を見て国岡商店の軽油を使うことを承諾してくれます。
ただし国岡商店は大手の日邦石油と特約店契約をしていて、契約で門司の店は下関では販売してはいけないことになっています。
鐡造は「船を使って海の上で売る」と言います。
海の上なら門司も下関も関係ないという考えで、この機転は凄いと思いました。
船の上での商売は大繁盛し、大暴れする国岡商店の船は「海賊」と呼ばれるようになります。

鐡造は国岡商店で働く社員の教育にも力を入れます。
どんどん支店を出し社員達を支店長にしたいと考えています。
その支店長には何をするにも本店に伺いを立てるのではなく、自分で正しい判断ができる一国一城の主になってほしいと考えています。
そして国岡商店はどんどん販路を広げ、長崎、大分、宮崎、さらには四国にも支店を作り西日本の海で暴れ回ります。

鐡造は一度満州で油を売ろうとして外国石油企業の壁に阻まれて失敗したのですが、大正13年12月、再び満州に行きます。
満鉄(南満州鉄道株式会社)に油を売りたいと考えています。
鐡造には日本政府の後ろ楯がある満鉄はいずれ巨大な企業になるという読みがあり、今、満鉄の車輛の油を押さえておきたいと考えています。
満鉄の車庫を渡り歩いて熱心に油を売る努力が実を結び、鐡造が調合した満州の寒さに耐えられる油を使って実際に列車を走らせてくれることになります。
この実験が成功し、満鉄から国岡商店に車軸油の一部を注文したいと連絡がきます。
鐡造の努力が報われて良かったと思いました。

この頃、欧州での戦争(第一次世界大戦)が激化し、日本に入ってくる石油の量が減ると考えた鐡造は石油のストックを増やします。
すると予想どおり石油の輸入量が激減し石油の値段が高騰します。
この機に石油を高く売ろうと言う社員がいたのですが鐡造は一喝します。
「国岡商店が軽油の備蓄を増やしたのは投機のためではない。消費者に安定供給するためではないか。今後、二度と卑しいことを言うな!」
値段の高騰に合わせて高く売れば大儲けになるところをそうはせず、どこまでも消費者への安定供給を考えている凄い信念だと思いました。

満鉄の車軸油は大半をアメリカの石油会社が押さえていますが、鐡造は実験をしてその車軸油の寒さへの弱さを知り、このままでは満鉄の車輛に大きな事故が起きるのではと危機感を持ちます。
しかし満鉄にそのことを言っても相手にしてもらえません。
やがて鐡造の指摘どおり車輛の車軸が焼ける事故が起き、鐡造とアメリカの石油会社三社(スタンダード石油、ヴァキューム社、テキサス石油)の関係者を集めて車軸油の寒さへの耐性実験が行われます。
鐡造は見事三社に勝利し、満鉄の車軸油は全て国岡商店の新しい車軸油に切り替えられることになり、満州の地に国岡商店の名前が轟きます。

大正12年9月1日、関東大震災が起き日本経済は落ち込みます。
鐡造は突然大口の融資をしてもらっている第一銀行門司支店の副支店長の訪問を受け、これまでに融資した金を半年以内に返済するように要求されます。
商売は順調なのに倒産の危機になります。
鐡造はやむを得ず高利貸しから借りる決意をしますが日田に止められて目が覚めます。

鐡造はもう一つの大口融資銀行である二十三銀行門司支店の林清治支店長を訪ね、第一銀行から貸金の全額引き揚げを要求されたことを話します。
全額返済するには倒産して店を清算するしかなく、二十三銀行も第一銀行と同じように貸金を回収するならただちに店を畳むと言います。
倒産を覚悟し、二十三銀行に筋を通したのだと思います。
これを聞いた林は何とか鐡造を助けてあげようと、大分の本店に行き長野善五郎頭取を訪ねます。
林が「国岡鐡造という人物は立派な男です。国岡商店もまた立派な店です。できれば、われわれが支えてあげたいと思います」と言うとあっさり承諾してくれます。
林が鐡造を信じているように、長野は林を信じているのだと思いました。
第一銀行の融資分も二十三銀行が肩代わりすることを承諾してくれていて、この人もまた日田のように器の大きい人物だと思いました。

大正13年の暮れには国岡商店は社員の数が百名を超えます。
翌年春、日田が神戸に帰ります。
次男の重助が京都の美術大学を出て陶芸家になり、日田も一緒に焼き物をやると言っていました。

大正14年の暮れ、ユキが結婚して12年間子どもを生めなかったから責任を取って離縁したいと言います。
何とか思い止まらせようとしますが「鐡造は跡取りを作るべき」と言うユキの決心は固く、鐡造は離婚を承諾します。
読んでいてユキの決心は凄まじいと思いました。
仲が良いのに鐡造の跡取りのことを考えて自ら離縁したいと言い、鐡造の引き留めを拒むのは断腸の思いだと思います。
鐡造はこの時ユキが涙を流す姿を初めて見ました。

やがて大正が終わり鐡造は国、国岡商店、さらには自分自身にとって大正は激動の時代だったと思います。
そしてその次にあった一文が印象的でした。
しかし本当の激動の時代がこの後に押し寄せることになるのを、鐡造も国民の多くも知らなかった。
太平洋戦争(大東亜戦争)が迫ります。

昭和2年、鐡造は知人の紹介で山内多津子と再婚します。
この年に男の子が生まれ昭和の元号から一文字取り「昭一」と名づけます。
昭和の元号の由来は興味深かったです。
「昭」は明るく照らすことを意味する文字、「和」はもちろん「仲良く」という意味の文字だ。つまり「昭和」という元号は、明るい未来に向けて万人が仲良く平和に暮らすことを祈って付けられたものだった。
穏やかな昭和を望んでいたのだなと、しみじみとしました。

昭和6年9月、満州事変が起き中国との戦いが始まります。
やがて日本政府は日本でも満州でも石油を統制しようとし、鐡造はこの動きに危機感を持ちます。
鐡造は満州の石油が統制されると中国の上海への進出を決断し、部長の長谷川喜久雄という鐡造が若い時から目をかけていた男に現地での指揮を任せます。
昭和13年4月、戦争遂行のために国家にあらゆる権力が与えられるという主旨の「国家総動員法」が成立し、陸軍の暴走が止まらなくなります。

鐡造が「富国強兵」について胸中で語っていたのが印象的でした。
鐡造が生まれた明治18年から日本はずっと富国強兵で突き進んできた。欧米の列強がアジア諸国を植民地化していく中で、日本が生き残る道はそれしかなかった。もしも日清戦争や日露戦争で負けていれば、日本は他のアジア諸国同様、ロシアや英米に植民地化されていたに違いない。
これはそのとおりで、当時世界は「白人至上主義」が支配し、白人以外はゴミ同然と考えていました。
ゴミ同然の国なら植民地化して奴隷にしても問題ないという考えのもと、オランダやイギリス、フランスなどの列強はインド、インドネシア、ビルマ(ミャンマー)、フィリピン、シンガポール、マレーシアなどのアジア諸国を植民地にし非道の限りを尽くしていました。
こちらがどんなに「平和に暮らしたいです」と言っても相手が問答無用で武力で侵略してくればあっという間にやられて植民地にされてしまいます。
これを防ぐには国が強くなり簡単には植民地にされない力を身に付けるしかないです。
この時代、日本はアジアで唯一列強の支配に対抗できる力のある国でした。
「昭和」の元号の由来に「明るい未来に向けて万人が仲良く平和に暮らすことを祈って付けられた」とありますが、それを実現するには大前提として国に簡単には侵略されない力がなければ成り立たないことを、今の時代を生きる日本人は忘れてはならないと思います。
ただし「国家総動員法」に見られるようにまずい部分もありました。
まずい部分は反省し、同じ失敗をしないように後世に生かすのが最善だと思います。

鐡造は直接アメリカやイギリスの石油会社から原油を中国での販売用に輸入しようと考え、タンカーを建造し完成したタンカーに「日章丸」と名づけます。
しかし世界は再び欧州戦争以来の大戦争に突入しようとしていて、日本のタンカーが自由に海外へ石油を求めて動ける情勢ではなくなっていました。

昭和15年、日本の経済は厳しさを増し、米穀(べいこく)が配給制になります。
この年の9月「日独伊三国同盟」が結ばれ、日本は米英と完全に敵対関係になります。
アメリカは日本へ石油の一部を輸出禁止にする対日経済制裁を行います。

日本では石油共販株式会社(後の石統)ができ、そこから閉め出されている国岡商店はもはや国内の営業所では商売ができなくなります。
鐡造は国内の営業所を縮小し満州と中国に主力を移すことを決断します。

昭和16年7月、ついにアメリカが日本への石油の輸出を全て禁止します。
12月、日本とアメリカの全面対決が始まります。

鐡造は陸軍省燃料課の中村儀十郎大佐に頼まれ、南方のスマトラ島の油田に国岡商店の社員200人を送ることを決断します。
昭和19年7月、昭南島(シンガポール)から現地の実情を報告するために長谷川喜久雄が一度日本に戻ってきます。
49歳になった長谷川は戦場で軍を相手にして民需石油の配給を一手に引き受け全身に風格と凄みが滲み出ていました。
この時鐡造は戦争が終わったら長谷川に国岡商店を任せようと考えていました。
しかし終戦後の二年間が描かれた第一章に長谷川の姿はなく、そうか、この人は死んでしまうのかと思い悲しくなりました。


第一章はとにかく「社員の首は絶対に切らない」という鐡造の経営者としての揺るがない信念が印象的でした。
第二章は第一章が始まるまでに鐡造がどんな人生を歩んでいたかを知る物語で、その人生は本当に波乱に満ちていました。
若い頃から第一章で見た圧倒的な器の大きさの片鱗を見せていて、その鐡造を支えた日田重太郎やユキ、困った時に国岡商店を助けてくれた銀行の人の器の大きさもまた印象的でした。
鐡造は自然とそういう人を引き寄せる天性の魅力と吸引力を持っているのではと思いました。
再び第一章の続きに戻る下巻で鐡造のどんな活躍が見られるのか楽しみにしています


※「海賊とよばれた男 (下)」の感想記事をご覧になる方はこちらをどうぞ。

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チャオ 閉店で分かる愛着

2018-01-28 17:18:09 | グルメ


※以前書いた「スパゲティハウス チャオ」の記事をご覧になる方はこちらをどうぞ。

一昨年の年末に初めて寄ってからたまに寄るようになった「スパゲティハウス チャオ」。
名古屋名物あんかけスパゲティーのお店で、私は名古屋駅近くの第5堀内ビル店という店にずっと寄っていました。
このお店が昨年いっぱいでビルの改修工事に伴って閉店しました。

昨年末に寄った時に告知の貼り紙を見て年末で閉店することを知りました。
その時、「えっ、閉店するのか」と驚き、とても残念な気持ちになりました。
そして残念な気持ちになったことで、いつの間にかこのお店に愛着を持っていたのを実感しました。

私が閉店前に最後に食べたのは冒頭の写真の「ミラカン」に目玉焼きを2つトッピングしたものです。
ミラカンは「カントリー」にウィンナーを加えたもので、カントリーはタケノコ、マッシュルーム、オニオン、ピーマン、トマト、コーンという具材です。
最初に寄った時に食べたのもミラカンで、奇しくも同じメニューになりました。
今回は閉店間近でお得な値段になっていたのでトッピングの目玉焼きの数を1つ増やしています。
スパイシーさと酸味を持つあんかけソースはかなり深みのある味で、スパゲティーとよく合います。

今はもうお店がなくなってしまったので「美味しいあんかけスパゲティーを食べさせてくれてありがとう」という思いです。
そして「スパゲティハウス チャオ」自体は他にも店舗があるのでいずれ寄ってみたいと思います。
たくさんメニューがあるので、まだ食べたことのないメニューを食べてみたいです。
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「水族館ガール4」木宮条太郎

2018-01-26 23:54:17 | 小説


今回ご紹介するのは「水族館ガール4」(著:木宮条太郎)です。

-----内容-----
大変なのは卵を産んだ後――ペンギン舎で起きた奇跡とは?
水族館アクアパークの官民による共同事業化に向け作業を進めていた梶良平だが、大詰めの会議で計画は白紙撤回の危機!?
一方、担当の吉崎に代わり急遽ペンギンの世話をすることになった嶋由香にも次々とトラブルが発生。
動物たちの命をつなぐ飼育員の奮闘の先に奇跡は起きるのか。
そして、なかなか進展しない梶と由香の恋にも変化が――?

-----感想-----
※「水族館ガール」の感想記事をご覧になる方はこちらをどうぞ。
※「水族館ガール2」の感想記事をご覧になる方はこちらをどうぞ。
※「水族館ガール3」の感想記事をご覧になる方はこちらをどうぞ。

冒頭、大晦日から年が明けて新年になります。
梶良平はウェストアクア本社の会議室で、水族館アクアパークを千葉湾岸市とともにウェストアクアに共同運営してもらうための説明をしています。
ウェストアクアの事業部長によると会議は「儀式みたいなもの」で、事前に根回し済みで反対意見は出ないとのことでした。
しかし説明が終わり決議をしようとした時、事業監査室長の男が待ったをかけてきます。
事業監査室長はアクアパークについて「このクラスの水族館なら、どこにでもある。わざわざ運営に参画する意味はない」と言ってきて、その場では話し合いがまとまらず月末に会議を開き直すことになります。

梶がアクアパークに戻って内海館長に話をすると、内海館長は事業監査室長のことを知っていて、井達(いたち)という名前とのことです。
井達は海遊ミュージアムとウェストアクアの共同事業化を推し進めた人でもあり、井達の価値観では同じ水族館でも海遊ミュージアムは「行け」でアクアパークは「やめとけ」になるのだろうと内海館長は言っていました。

梶は再会議に向けて資料を準備しようとしますがなかなか進まずにいます。
井達の反対によってウェストアクアを介した海遊ミュージアムとの姉妹館の構想が揺らぎます。

梶と海遊ミュージアムの鬼塚チーフが話していた時、鬼塚チーフが「ラッコのプールはどこの水族館でも似たり寄ったり」と言っていたのは興味深かったです。
どの水族館もかつてラッコブームになった時一斉にラッコプールを真似て作ったので似たり寄ったりになったとのことです。
また、見る人がラッコはのんびりプカプカ浮かんでいるものという固定観念になっていて、実際にはよく水中に潜ったりもする本来の姿に注目してもらえないことを嘆いていました。

由香はラッコの給餌ライブをやることになります。
普段餌を与える時も貰った餌を毛皮のポケットに隠して素知らぬ顔でまた餌を貰おうとするラッコがいて、ラッコにこんな知恵があるとは知りませんでした。

梶は鬼塚チーフとともに、由香のラッコの給餌ライブのビデオを見ます。
由香の給餌は飼育技術者としては未熟なものでしたが「ラッコはのんびりプカプカ浮かんでいるもの」「ラッコは動くぬいぐるみ」といった固定観念を壊してくれるものでした。

鬼塚チーフの語っていた飼育技術者の悩みは印象的でした。
観客の頭にあるのは「ラッコはのんびりプカプカ浮かんでいるもの」「ラッコは動くぬいぐるみ」という実態とは違う固定観念で、これを認めた上で「実際のラッコはそうではない」というのをどうやって観客に分かってもらうかに悩んでいます。
ラッコだけでなく水族全体に言えることで、梶もこの問題を薄々感じていたとありました。
現実の水族館の飼育技術者もこの問題を感じているのだろうなと思います。

由香のラッコへの固定観念を壊してくれた給餌ライブのビデオを見て鬼塚チーフが「アクアパークには海遊ミュージアムに無い何かがある」と言います。
これをアピールすれば梶が井達に対抗できそうな気がしました。
そして再会議で由香の給餌ライブのビデオを見せてアクアパーク独自の良さをアピールしたおかげで、井達も賛成して全会一致での決議になりました。

2月になったある日、ペンギン担当の吉崎が腰を痛めてしまいます。
そして由香が吉崎の代わりにペンギンの給餌をやることになります。
吉崎の指示のもと、由香は何とか給餌していきます。

アクアパークではペンギンを色のタグで管理していて、その中の「銀チャ」というオスのペンギンは長年もてなかったのですが、ついに春がきます。
ところがすぐに銀チャが東京の水族館に移送されることになってしまいます。
淡々とそのことを語る吉崎と対照的に由香は銀チャの移送に納得できず、岩田チーフに何とかならないかと言いますが諭されます。
岩田が「吉崎は全てを踏まえた上で判断してる。吉崎は銀チャにとってのベストを選択した」と言っていたのは印象的でした。
せっかく春が来たのだからそのままにしておきたい気持ちはありながらも、銀チャにとってのベストを考えると東京の水族館に移送したほうが良いという考えになったようです。
まして吉崎は長年銀チャの世話をしていて愛着もあるのに、それを一切表に出さずに移送の決断をするのはさすがプロの飼育技術者と思いました。
由香も吉崎と一緒に銀チャの移送に立ち会うことになります。

3月になります。
吉崎によると下旬になるとアクアパークにいるマゼラン・ペンギンは卵を産み始め、40日ちょっと卵を温めると雛が誕生するとのことです。
なのでペンギン舎は春休みもゴールデンウィークも忙しくなるようです。

岩田が「ペンギンを見れば水族館が分かる。担当者の心の中まで分かる」と言っていたのは興味深かったです。
ペンギンは複雑な水管理がいらないため小規模な水族館や動物園にもいて、さらに誰もが知っている人気者でもあるため、飼育担当者のスタンスの違いが分かりやすく出やすいとのことです。

修太が「南極ではない場所にいるペンギンの方が多い」と言っていたのは意外でした。
ペンギン18種のうち南極にいるのは2種くらいで、他のペンギンは南極より北の暖かい地域に棲んでいるとのことです。
寒さは生き物にとって大敵で、南極以外に棲んでいるペンギンにとっても例外ではないようです。

白モモというペンギンが卵を産みます。
吉崎が凄く驚いていて、すぐに岩田と獣医の磯川に知らせます。
白モモは吉崎が以前勤めていた水族館からアクアパークに来た時に一緒に連れてきたペンギンで、岩田は白モモが産んだ卵を「奇跡の卵」と言っていて、どんな卵なのか気になりました。
岩田は人の手でこの卵を育てるのを前提で話しますが、吉崎が擁卵(卵を温めること)から育雛(いくすう、雛を育てること)までペンギンに任せたいと言います。
すると岩田も磯川も困惑します。
由香もその場にいましたがなぜ奇跡の卵なのか、なぜ二人が困惑しているのか事情が分からずに戸惑っていました。

由香は磯川から白モモのことを教えてもらいます。
磯川によると白モモは病気がちで何度も死にかけたことがあり、今ではかなりの長寿になっているとのことです。
これまで産卵したことは一度もなかったのですが、相当な年齢になっている今回初の産卵をしました。
それで「奇跡の卵」なのだなと思いました。
そしておそらく最初で最後の産卵とありました。
吉崎は擁卵から育雛まで白モモに任せたいと言っていましたが磯川は獣医の立場から反対とのことです。

ペンギンが飼育スタッフに愛らしくフリッパーをパタパタさせる仕草は、一般人が見ると飼育スタッフを慕っているように見えますが、飼育スタッフはそうは見ていないと磯川が言っていました。
孵化直後のヒナは身近で動くものを自分の親だと認識してしまうため、人の手で卵から育てられたペンギンだと飼育スタッフを親だと思ってフリッパーをパタパタさせている場合があるとのことです。
磯川は、吉崎も雛が吉崎のことを親と思い込むのを防ぐために白モモに任せようとしているのではと言っていました。
ただ私は白モモにとって最初で最後の産卵であることから、体調悪化の危険があっても白モモの手で育てさせてあげたいという思いもあるような気がしました。

雛が生まれると白モモは給餌もあまり食べに来なくなり、明らかにやつれていきます。
吉崎は白モモが弱っているのを見てヒナと隔離させる決断をします。
由香は岩田からの指示でしばらくイルカから離れペンギン優先で吉崎のサポートをすることになります。
しかし白モモは力尽きて死んでしまいます。

鬼塚が梶に、吉崎が三羽のペンギン(一羽は白モモ)とともにアクアパークに転職した時のことを語っていました。
当初は鬼塚のいる海遊ミュージアムに吉崎も来てもらおうとしたのですが、三羽のペンギンがいずれも病弱なペンギンだったため引き受けるのは難しく、話がこじれているうちにアクアパークに転職することになりました。
そしてこの時のことがきっかけで鬼塚は岩田と対立するようになったことが明らかになりました。

5月下旬になります。
白モモが亡くなったため、ペアを組んでいた茶グレというオスのペンギンが一羽で雛を育てています。
しかし一羽での子育てで茶グレもやつれてきたため吉崎は岩田と話し合い、茶グレを昼間の間は休養させ、変わりに自身が昼間は面倒を見ることにします。
岩田はそんな吉崎をかなり心配していて、表面上は任せたと言っていましたが後で由香に「吉崎が倒れないか気をつけて見てろ」と言っていました。
この辺りまで読み進めると、シリーズ四作目になり岩田の江戸ッ子口調、吉崎と鬼塚の大阪弁が読んでいてかなり馴染んできたのを実感しました。

白モモが亡くなり、茶グレも弱ってきて雛がどうなってしまうのかと思いましたが、雛の身に予想外の奇跡が起こります。
序盤から問題児として扱われていた気の荒いペンギンが活躍したのがとても印象的でした。
白モモが卵を産んだ時も奇跡でしたがもう一度奇跡が起こりました。

由香と修太が房総大学理学部の南総海洋センターという研究場に行きます。
そこで由香は沖田とイルカのホコに再会します。
ホコは「保護個体」の略で、二年前に傷ついて弱っているところをアクアパークで保護しました。
現在はこの研究場で保護を継続しています。
そして沖田はこの春から房総大学で臨時講座を持っているとのことです。

海遊ミュージアムからアクアパークに奈良岡咲子が飼育業務の実習生としてやってきます。
咲子は由香の後輩の兵藤(ヒョロ)の下につくことになります。

海遊ミュージアムにいる梶のところに岩田がやってきます。
岩田は海洋学のマイヤー博士と会うとのことです。
さらに梶に近々アクアパークに戻ることになりそうだから部屋の片付けを始めておけと言っていました。

由香達は咲子の案で、ホコとニッコリーを通信回線を使って再会させる実験をすることになります。
由香、咲子、ヒョロ、梶の四人で話していたのですが、咲子に茶々を入れられて戸惑う梶と由香の雰囲気が面白かったです。

6月になります。
由香は梶に教えてもらいながらホコとニッコリーの再会プロジェクトの企画書を作りますが、沖田に「イルカが混乱するかも知れない」と言われ反対されます。
そして岩田には一旦保留にすると言われ、さらに「俺と沖田を納得させるんだな。そうすりゃ、俺が館長に首を縦に振らせる」と言われます。

ヒョロは咲子のことが好きで、実習で来ているうちに告白しようとしますが、上手く言葉が出ずに何度も告白の言葉を言い間違えてしまいます。
この様子がかなり面白くて笑ってしまいました。

由香が企画書をどうするかで悩み、思い詰めていると、梶がかなり丁寧に悩みに向き合ってくれました。
そして万全の体制を整えられるように企画書を作り直し、ついに企画が通ります。

通信回線を使ってホコとニッコリーを再会させる実験は沖田が危惧したように、ホコもニッコリーも混乱したような状態になって終了します。
由香、咲子、ヒョロは映像ファイルを見て検証をするのですが、そこで由香と咲子は何かに気づきます。
そして沖田や岩田などの関係者を全員集めての報告会で沖田が言っていた「イルカが混乱状態になる」とは違う見解を示します。
由香と咲子が映像ファイルを見ていて気づいたのは、動物の「認識能力」を計る新たな鍵になる重要なものでした。
自身の理論が間違っていたことを悟りうなだれる沖田に岩田が興味深いことを言っていました。
「俺は思うんだがな、自然科学も肌感覚。まずは『感じる』からよ。それから、理屈を考えて、考えたことを検証する」
「自然科学も肌感覚」が特に印象的でした。
たしかにまずは見たままを感じ取るのが大事だと思います。


今作では由香が高度なことまでこなすようになり、シリーズ四作目の歴史を感じました。
そして梶との恋も進展していました。
次作では飼育動物とどんな関わりをするのか、由香や梶が周りの人とどんな面白い話をしてくれるのか、楽しみにしています


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雪の朝

2018-01-25 22:32:50 | ウェブ日記
昨日の夕方から今日の未明まで名古屋に雪が降りました
降る前からとても冷え込んでいて最初から雪になり、今日の未明まで降る予報だったので何センチかは積もるのではと思いました。
そして朝起きたら家々の屋根や木々が雪化粧していました。
名古屋では年に一度見られるかどうかの銀世界を今年も見ることができました。

私は雪の降った朝の静かで澄んだ雰囲気が好きです
白く雪化粧した景色を見ていると気持ちも澄んできます。
そして太陽が出てきて朝日が差すと雪化粧した景色も鮮やかにとても明るくなり、見ているとワクワクした気持ちになります

今日も大寒波の影響でとても寒くなりました。
歩道には降った雪が融けずに凍って滑りやすくなっている場所もあります。
そして何と名古屋では今日の深夜から明日の朝にかけてまた雪が降る予報になっています。
降れば明日の朝も銀世界になり、雪に喜んで父親と雪遊びをしていた近所の3歳くらいの子供も、明日の朝また喜ぶのではと思います。
また歩道は凍って滑りやすくなっているところにさらに雪が降り危険になる箇所もありそうなので慎重に歩こうと思います。
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「You can keep it.」綿矢りさ -再読-

2018-01-19 18:28:01 | 小説


今回ご紹介するのは「You can keep it.」(著:綿矢りさ)です。

-----内容&感想-----
※以前書いた「You can keep it.」の感想記事をご覧になる方はこちらをどうぞ。

この作品は文庫版の「インストール」に収録されている短編です。
そして第130回芥川賞受賞作の「蹴りたい背中」の後に初めて執筆した作品です。

主人公は城島という大学一年生の男子です。
冒頭、保志という大学のクラスメイトの男子が城島から腕時計をもらいます。
さらに三芳というクラスメイトの女子は香水をもらいます。
二人とも城島の腕時計と香水を褒めただけでもらえていました。

大学に入学して一ヶ月後に早々に開かれた高校の同窓会で、酒を飲んで酔った城島は当時クラスメイトにたくさん物をあげていたことを振り返ります。
城島は高校時代も今も、いじめられないために周りの人に物をあげています。
ただしそうは言えないため、同窓会では周りの人に次のように言っていました。
「あれさ、今言うけどさ。ただ親切心であげていたわけじゃないんだ。そこまで俺はお人よしじゃない」
「物を撒くと人の心には芽が出るんだーー喜びと警戒で頭を重くした双葉がね、それでその双葉の鉢を抱えて人は俺としゃべるわけだけど、両手のふさがった奴なんかに俺が負けるわけないのさ」
この強がった物言いには周りもドン引きし、「チッ胸くそ悪い奴」と誰かが言っていて、この言葉から高校当時も気味悪がられていたのだなと思いました。
私は城島の言葉を見て、この強がりを言ってしまうところが城島の弱さだと思いました。
「いやー、当時は周りに色々なものをあげてたよね。懐かしいねー」と言うくらいにして泰然としていれば良いのですが、その度量がないです。

また城島は自分からこの話をしていました。
これは「俺はこういう計算をして周りに物をあげていたんだ。何も考えずにあげていたわけではないんだ」というのを知ってもらいたい気持ちの現れだと思います。
さらに「凄いだろう」という勝ち誇った気持ちも感じられ、それが一番最後の「両手のふさがった奴なんかに俺が負けるわけないのさ」という言葉に現れています。
これは「俺は優位に立つために物をあげていた。そんなことも分からなかったとは馬鹿な奴等よ」と言っているのと同じようなもので、同窓会の空気を台無しにしてしまっていると思います。

酒を飲んだ時にこの言葉が出たのも印象的でした。
以前どこかで聞いた「酒を飲んだ時に現れるのがその人の真の姿」という言葉を思い出しました。
「気前よく色々な物を周りにあげていた」という仮りそめの姿がお酒を飲んだことで剥がれ落ち、「優位に立つために物をあげていた」という真の姿が現れました。
しかもこの真の姿もまだ半分は仮りそめで、「優位に立つためとは、いじめられないため」という部分が隠れています。
本当の真の姿が知られるのなら「なんだ、それでだったのか」となり救いがありますが、半分は仮りそめの真の姿が知られるのだと「本当に気味の悪い奴だな」となり救いがないです。
この点は、自業自得ではあるものの可哀想だと思いました。
より酔っ払った状態になると本当の真の姿が出るのかも知れないです。

城島は三芳に、クラスメイトの沢綾香という子との間を取り持ってくれと頼みます。
三芳は香水のお礼にと引き受けてくれます。
この何気ない会話で物をもらった相手がもらって当然という態度ではなくお礼を考えていることが分かり、そういう人なら物などあげなくても仲良くしていけると思います。
後半では保志もお礼に「今度焼肉でもおごるわ」と言う場面がありました。

城島が小学生の時の回想で、オーストラリアからの転校生に話しかけた場面がありました。
城島が転校生の持っていた鉛筆を褒めると、転校生は「You can keep it(それあげるよ).」と言います。
ここで小説のタイトル「You can keep it.」が登場しました。
転校生はまたすぐに転校していってしまい、城島は転校生から「物をあげること」と、「すぐ去ること」を学びます。
「すぐ去ること」とあり、城島は気前よく物をあげる割りに友達はあまりいないのが意識されました。

夏の近いある日城島は大学の食堂で保志に話しかけられ、着ていたレモン色の麻のボタンシャツを褒められます。
すると城島はその場でシャツを脱いであげてしまっていて、これは異常だと思いました。
ただ、「城島は久しぶりに大学の友達に話しかけられたせいで声が上ずって…」という描写があり、一応城島は保志のことを友達だと思っているのだなと思いました。
褒められたらすぐにその物をあげてしまわないと維持できないと思っている友達関係は、歪んでいると思います。

食堂を出て大学内を歩いていた城島は自身の好きな女子である沢綾香に遭遇します。
城島は好きな女性のタイプについて胸中で語るのですが、その最後の言葉が印象的でした。
でも彼女の何気ない笑顔一つで理想の輪郭は融かされて綾香自体が理想になる。
これは綾香自体が理想になるという表現の仕方が良いなと思いました。

綾香が話しかけてくれ二人は話をします。
話の中で城島が「日陰で休めば?」と言うと綾香が「いいの。私は太陽の下にいた方が元気が出るから」と言う場面があります。
「太陽の下にいた方が元気が出るから」は、前回感想記事を書いた2007年は特に気にならなかったのですが、11年経った今読むとこの言葉が凄くよく分かりました。
日の光を浴びたほうが気持ちが明るくなります。

城島は綾香に贈り物をしようと思い立ちます。
綾香には褒められたからあげるのではなく、こちらからあげようとしているのが印象的でした。
好きな人ができたことで、自身が張っていたバリアーの一部を壊そうとしていました。

城島はインドのポストカードが気に入ったので買います。
そして自身がインドに行ってきたことにして綾香にポストカードを渡します。
すると綾香はインドが大好きで今までに三回行ったことがあると言い、凄く盛り上がってインドの話をしてきます。
ところが城島はインドには言っていないので話がしどろもどろになってしまい、ついに嘘がばれてしまいます。
嘘がばれて綾香との仲が破滅かと思いましたが、この物語は終わり方が良かったです。
城島が物をあげないでも人と友達になっていけることが予感され、明るい気持ちで読み終えられました。


綿矢りささんはこの作品で初めて三人称を使っていて、これが次に執筆した「夢を与える」での三人称につながります。
文章も前二作の「インストール」「蹴りたい背中」でのリズミカルさが影を潜め、暗くはない淡々とした語りになっています。
まさに試行錯誤している時の作品で、「蹴りたい背中」の後から「夢を与える」を執筆した後にまで及ぶ数年の間、綿矢りささんはスランプに苦しむことになりました。
しかし2016年秋の「手のひらの京」での見事な三人称を見ると、やはり「蹴りたい背中」の後に文体と三人称の試行錯誤をしたのは間違いではなかったのだと思います。
いつか三人称の作品で大きな賞を取り、この作品がその序章として注目されるようになってくれたら嬉しいです


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