夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

心の自由 (静謐な心)

2017年04月01日 11時35分39秒 | 真理の言葉
心の自由

一日に一回は、息を整え、心の凡ての思いを捨て去り、心を静寂に保ち、明るい善きことのみを心に留めましょう。
一日の全てのものに対して、眼では見ることも、また感じることが出来ないネガティブなものに対しても
『深い慈愛に満ちた神の愛』が潜んでいること観じて、全てのもの対して感謝して、誉め讃えて、
そして明るい善き言葉で書き留めましょう。
さすれば『光明生活』への第一歩となることでしょう・

霊の世界の良き物はまだ肉眼には見えないが霊の世界に網をひろげてこそ、
やがて肉眼見える多くの魚(現象的な良きもの)をうる事が獲ることが出来るのである。
霊の世界に網をひろげるには現象的にはさわいではならないのである。静かな心こそ、『霊の網』である。
静謐の度が深まるほど、その程度に応じて、霊の網はひろがり漁獲高が増加するのである。








本来無一物である

2017年03月28日 20時29分32秒 | 真理の言葉
無一物に生きる(生命は霊的存在である)

人間の本来の姿は、欲望も無い、執着も無い、浄らかな素晴らしい霊的存在であります。

バスの車窓から眺める町並みが流れ過ぎ、時代の遷り変わりを感じ、この世の無常が走馬灯のように心を廻りました。
無常ではない、常住の今、久遠の世界を『今』此処に、この身此のままで生きることが大切であることを教えられました。

物質は時が過ぎ行きに従い滅びていく。
しかし修理が出来ると、その出来上がりを見て心に満足が広がる。
物質は永遠なるものではなく儚いものですが、それを大切に扱い、その物質の本来の役目を見出すとき、其処に物質でもあっても、
永遠なるものが観えるようであります。
科学文明が発達して、人間が唯物論的になり、物で何でも支配することが出来るような錯覚をもって来るようになって、
物質によって生命がつくられるなどと考えて、生命を霊的なものと考えないで、ただ『物質生産物』だという考えから、
生命尊重ということが失われている。

国が乱れる原因は人に欲望があるからであって、その欲望をなくすには、
北条泰時様、あなたがまず無欲にならなくてはなりません。

                                    明恵上人






人間の本性は明るい善なるものである。

2016年06月25日 10時39分34秒 | 真理の言葉
人間の本性は明るい善なるものである。

たえまなく時間は動き、今という瞬間は既に過去と変貌し、新たなる輝く時を向かえ入れます。
草花の生命は新たなる輝く時のチャンスを見逃さず、美しい装いである本性をこの地上に現し、何事も無かったように去っていきます。
ただその儘であれ、ただその儘で素直に生きる時、本来の人間の姿である、佛であり、如来であり、
神の子である真実の姿が現れるのであります。



苦しみ、悲しみに明るい心を灯せ

われらに災厄が襲いかかる時、多くの人々は、自分自身が非常な不幸に陥ったように思い過ごし、
何にも自己の心に存在する原因を取り除こうとせずに、自分自身をただ憐れみ、境遇に不平を言い、
周囲に対して責任を負わすような繰言を発するのであるが、これは自分の生きる力の弱さを自己告白し、
周囲の絶対威力を自分自身の魂の上に印象せしめることになり、かえって自分の運命を悪化するのである。
不幸や災厄は決して積極的存在ではなく、心の中に光明を点(とも)すだけでおのずから自滅してしまうものであるからでである。



人間を苦しめる最大の災い

無生物の科学が非常な進歩を遂げた一方では、生物の科学は初歩の段階にとどまっている。
生物学の進歩が遅いのは、人間の生存の状態や生命のの現象が複雑なこと、
われわれの知性が機械的な構造や数学的な抽象を好むように出来ていることによるのである。
科学的発見を応用することによって、物質的な世界も一変した。
この変化はわれわれに深い影響を及ぼす。
その悪い結果は、人間の本性について考えることなく行なわれたという事実によるものである。
自分自身について無知であった為、機械学、物理学、化学に、祖先からの生活形態を勝手に変えるような力を与えてしまった。


アレキシス・カレル(Alexis Carrel)ノーベル生理学・医学賞受賞










 調和の霊感  

2016年06月20日 21時16分38秒 | 真理の言葉
調和の霊感  

雨が激しく降り、雷鳴が轟き、突然停電になりました。
近くの部屋から娘が駆けつけ、灯りを持って来てくれました。
有り難いことです。
先日も側溝が溢れ道路に泥水が広がっていました。
しかしこの雷鳴、雨のお陰で地球の緑の豊かさ、青い海の美しさが輝いていることに思いを馳せ、
有り難い摂理であることを感ぜられ、有り難く感謝することが大生命の恩恵に報ずることであると思われます。
心の調和はどのような苦境に立たされていても唯『ありがとうございます』の言葉を念ずることで
不思議と調和と平安が得られるのです。
苦しみにもがいている時、周囲のすべての人と、すべての物と、すべての事とに心から感謝するとき、
有り難さと嬉しさと喜びとが訪れ、極楽世界に変貌するのです。
吾々はどのような時にもどのような場所に置かれていても常に神の恩恵のなかに生かされているからです。




心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。
その心をおさめることは善いことである。
心をおさめたならば安楽をもたらす。

心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。
英知ある人はこれを直くする。
―弓師が矢の弦を直くするように。

                                               ブツダの真理のことば




我々は毎朝、毎朝、新たに生まれるのである。

2016年06月06日 22時14分34秒 | 真理の言葉
我々は毎朝、毎朝、新たに生まれるのである

小雨がチラつく、夜も明けぬ早朝に菩提寺の薬師堂にお参りしますと山門の仁王像の前に、
新しい揃いの大きい燈籠が献納してありました寄進者を見ますと菩提寺の住職でありました。
驚きましたが、住職みずからこのお寺に御縁のある方々、一切の衆生に燈火を与えようなされている姿は尊いものであり、
御徳の高い律儀な御住職であります。
天皇陛下、皇后陛下が隣のホテルにお泊りになられた時にも別時供養といって特別にご供養なされました。
その後、神社の三社参りをしていますと小雨の境内の前で朝市の準備が始まっていました。
朝靄の川に白鷺がまだ冷たい水に、足をつけ水を啄ばんで働いています。
拍手でを打つと、境内を清らかに鳴り渡り。
朝は希望が鳴りひびく時であります。




吾々が眠りより覚めて意識の世界に再び帰って来たとき、そこには吾々は新しく生まれた自分を発見するのである。
過去との一切のつながりは、完全に断ち切られ、過去の一切のものは過ぎ去ってしまったのである。
新しく生きるのだと云う希望と決意が湧き起こって来るのである。
朝の曙こそ、我々の心が浄らかな白紙のように浄められるている時である。
あなたの未来は、今あなたの掌中に握られているのである。
今、この時、善き事を考えましょう。
今、善き事を計画しましょう。
まことに一日の計は朝にあるのである。






生命には個性がある・・・・・(純情な夫婦)

2016年06月02日 20時18分46秒 | 真理の言葉
生命には個性がある・・・・・(純情な夫婦)

仲間の一人が、しばらく連絡が取れないでいました。
十日後の部会に出席しましたがその時にも、もう少しで捜索願いが出るところだったと冗談を言いましたが、はっきりとは答えませんでした。
昨日の身近な座談会の時に、実は夫婦で六日間北米のカナダに行っていたと報告がありました。
近所に住んでいる妹さんにも親戚の人にも、誰にも知らせずに旅行に行っていたとの事です。
現地から連絡しようと思ったが、電話代が相手側にも掛かる等、とうとう機会を失ったそうです。
平、謝りでした。
友人を始め皆さんはヤキモキして心配していました。
以前から行って見たかった所だったそうです。
心に秘めた夢は誰にも知られたくない純粋な心情なのでしょう。
夫婦でその純情な夢を分かち合えたのでしょう。
心がお若い友人夫婦であります。




あらゆる言葉、あらゆる行動ことごとく未来に果を結ぶ種となる。




生命には個性がある

霊妙精緻な構造を、人間に宿る『神の叡智』は創造し、地上七十億の人間が同じ生理的構造の人体を備えていながら、そこから発する精神にはすべて異なる個性をもっており、個性が異なる表現であるかの如く、悉くその指紋が異なることの神秘には驚かされるのである。
何故、すべての人間が同一の生理的構造をもちながら、その人体から出てくる精神のはたらき及び内容がそれぞれ異なるということが起こるのであろうか。
それはその人体に宿っている霊魂(自由意志をもつエネルギー)がそれぞれ異なる個性を備えているからなのである。
人体の生理的構造はピアノの如きものであり、その人体に宿って人体を動かして自己の目的を達しようとしている
『霊魂』はピアノの演奏者みたいなものである。
同じ楽曲で同じ曲譜を演奏しても弾き手が異なるごとに、個性の異なる楽音がひびき出るのとおなじである。


人間の精神的原型

2016年05月29日 15時32分31秒 | 真理の言葉
人間の精神的原型

住吉大神を祀っている出龍宮住吉宮に一泊二日で研修に行きました。
朝靄がたなびく谷間に、走り梅雨の雨がシトシトと降りました。
そのお陰で涼しく過ごせました。
長崎では『おたくさ』とも云われ、雨の長崎の空によく似合い、
七変化に花の色を変える紫陽花が咲き始め見頃となって来ました。







人間創造の精神的原型について

植物だけではない、すべての生命あるものが、昆虫でも、爬虫類でも、鳥獣でも、
それぞれ異なる個性ある形態をあらわしているのはそれぞれの異なるアイデアが宿っていて、
それらの生命のいとなみがアイデアという『精神的原型』によって統制せられていて、
その原型通りの形をあらわしているのである。
ところで『人間というものの精神的原型は如何なるものであるかというと、
『創世記』の第一章にある『人間の創造記』のところには次のように書かれているのである。
神言い給いけるは我らに象(かたど)りて我らの象(かたち)のごとく人を造り・・・・・』とあるのである。
人間の精神的原型は『神』そのものであるのである。
神は天地の万物を創造し給うたけれども、それらはすべて神が心に描かれて
『ある限定されたアイデア』の具象化であったのであって、人間のみが『神御自身』を『原型』として、
その原型に倣ってつくられたのであるから、わたしたちは、人間を『神の最高の自己実現』であると言うのである。












『行雲の如く流水の如くその儘に生きる』

2016年05月26日 20時12分21秒 | 真理の言葉
『行雲の如く流水の如くその儘に生きる』


昨夜は新人の講師と同行しての出講でした。
体験談を話して頂きました。
やはり自ら体験したことは、自信をもって、その儘の心で話す事が出来るため、
相手の心を掴み感動を与えることが出来ます。







人生の道のりも、樹木の枝が曲がっているが如く、色々と変化しています。
枝が曲がって変化しているその儘が美しいのであります。
その儘自然のゆがみにまかせて行けば美しく豊かな結果が得られるのであります。
自分の我の智慧を出して曲がらないで一直線に行こうとしたり、無理に企んで美しい姿に曲げて行こうとしたりするから、
美しい良い結果が得られないで、苦しまなければならないのである。
『行雲の如く流水の如くその儘に流れて生きる時、何事にも美しく成就して豊かになれるのである』


人間に宿る神の言(ことば)が人間の生命である。

2016年05月24日 19時55分31秒 | 真理の言葉
人間に宿る神の言(ことば)が人間の生命である。

身体の機能を維持する為に自らの力で支える事が困難な時代になりました。
医療技術も進み、激痛を和らげる方法、不足した栄養等を外から補給したり、
蓄積した不要なものを外に排出する薬等数えると限りなく存在します。
一度使用すると限りなく依存性が存続します。
使用した本人はその場はその苦しみを一旦は逃れられますが再びその恩恵に頼ろうとします。
その副作用、副産物も回りに広がります。
そして自らの力で自分自身を見詰める機会を失います。
脚下照顧というコトバがありますが、色々な困難に遭うことは自分自身の心を内省する機会であり、
問題を解決する力が既に自分の中に存在しているからこそ、その問題である課題が与えられるのであります。
自分の中に既に解決できる力が存在しているのです。
神はその課題に自ら兆戦することを喜び給うのであります。
吾々は神の愛、神の智慧、神の生命、神の喜び、神の豊かさ、神の調和の全ての御徳を授かっている神の子であります。



聖書のヨハネ伝に、『大初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神なりき。
この言(ことば)は神と偕(とも)にあり、この言(ことば)は大初(はじめ)に神とともに在り、万(よろず)の物
これに由りて成り、成りたるものに一つとして、之によらで成りたるはなし。
之に生命(いのち)あり、この生命(いのち)は人の光なりき』と録されているのである。

人間に生命が宿っているのは神の『言(ことば)』が宿っているということにほかならないのである。


































宇宙の実相は、蓮の花の形が示すがごとく蓮華蔵世界である。(釈迦世尊粘花の公案)

2016年05月15日 21時27分42秒 | 真理の言葉
宇宙の実相は、蓮の花の形が示すがごとく蓮華蔵世界である。(釈迦世尊粘花の公案)

電話が鳴り響き、訃報の知らせがありました。
人の存在がある日突然に失われる。
今まで共に歩んで来た仲間が居なくなるとその仲間の今までの道のりを辿り、思いを寄せると色々な感情が巡ります。
何気なく挨拶を交わし、共に仕事をこなしていたことが、その仲間の表面的な存在である肉体が失われると不思議にもその仲間の肉体の奥にある内面的なものをより強く見詰めようとします。
戒名は本義では生前に授けるものですがほとんどが死後、葬送の儀式の中で僧侶が白木の位牌に戒名の前に
『真実の世界へ還帰』すると云う意味の法語を付与して戒名を書きますが、このような事から肉体が失われると真実の世界へ一歩近づくと考えられます。
肉体が存在している時にはそれ程に煩悩(まよい)に満ちてふり舞わされていることなのでしょうか。
肉体そのものの物質には価値がなく、肉体に佛の生命(こころ)が宿ることによりこの世に生かされている意義があるのではないかと思えます。
神道でも遺骸を穢れとして忌み嫌います。
親鸞上人も『閉眼せば賀茂川に投げ入れて魚に与えよ』。と言い残したそうであります。
これも遺骸そのもには真実なるものは存在しないと云うことであります。
肉体の奥に佛、如来の生命が存在していることが真実なるものであります。





釈迦世尊粘花の公案


お釈迦さんが、金波羅華即ち金色の蓮華の花を粘って示され、
これが宇宙の実相であるという意味を実物の花の形を示して、宇宙は蓮華蔵世界であって蓮華の如く中心にハチスの実があることを示されました。
だけどもそこに集まっている人間、天人およそ約百万人『茫然として措くことなし』お経にある通り、何の意味か解らなかった。
ところが、唯一人迦葉尊者という弟子が、ニッコリと笑ったのです。
その時にお釈迦さんが『吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相微妙の法門あり。摩加迦葉に付属す』と言われた。
『仏教の正味の真理はここにあり、此の真理をお前に授けたから、あとは宜しくたのむ』と仰ったのです。
この宇宙の実相は、この金波羅華の花の形が示すがごとく蓮華蔵世界であって、
中心座に毘盧遮那如来・大日如来、日本語に翻訳すれば中心座に天照大御神がましますということが真理なのだと
お釈迦は、三十五歳の十二月八日、尼連禅河畔の菩提樹下に座して悟りを開かれた。
その真理をそのまま『大方広仏華厳経』というお経にお説きになったけれども、
その真理は当時のインドの大衆には理解されなかった。
続く・・・・・













彼と一体となりたいと願う、愛の切なさ

2016年05月14日 10時11分25秒 | 真理の言葉
彼と一体となりたいと願う、愛の切なさ

視覚の大切を感じる今日この頃です。
視力の事ではなく、平衡感覚のことです。
以前は立って黙祷しているときには身体がふらつくことは無かったのですが、
最近は長く黙祷して立っているとふらつき加減になります。
筋力が落ちているのではないかと思えます。
此のことで始めて人間の身体維持のために、目、耳、鼻、唇、臓器、手、脚等の各器官は
バラバラでは無く互いに助け合っていることに気がつきました。
自分自身が頭脳智を尽くして各器官を司っても、調和せしめることは出来ません。
互いに助け合うことが出来るのは此の中に無限なる叡智をもった中心者がおられることになります。
此の中心者が神であり、人のいのちであります。
身体的能力、筋力の衰えに対して、自分自身はある程度は、世間並みに年齢相当に落ちていく事は誰でも認識しているのですが、
現在意識ではハッキリとは認識していないようであります。
以前は当たり前であったことがそうでは無くなります。
現象的な現実が失われて来ますと、五官的な肌では感じることの出来ないことがだんだんと理解することが出来るようなります。
今まで築いてきた物事が剥落してきますと、真実の世界が近づいて来るようであります。

人間は神の子であり、永遠の若返りであり、永遠の生命であり、永遠に無病である。
老衰を早めるも、遅らすも心しだいである。




もし私の妻、娘が原子爆弾で、顔も体も一面に醜いケロイド状態になったとしても
私は、こんな醜い顔の妻、娘は愛することは出来ない。
もっと美しい顔や娘なら愛することができるけれど等と考えなかったに違いないのであります。
そのように放射能で焼けただれた妻や娘をなお一層深く愛し、不憫に想い、少しでもその傷が癒え、
快くなるように何とか手当てをしてやりたいと願い、心から思う。
愛するとはこのような感情なのであります。
美醜を超えて彼と一体になるのが愛であります。
『国を愛する』ことは国が豊かであるとか立派であるとか、貧しいとかの外観ではなく
『自分自身の生命』と『国の生命』との一体の自覚感情であります。
続く・・・・・





美しい桜の花の根本の生命は何処にあるのであろうか

2016年05月13日 21時38分08秒 | 真理の言葉
美しい桜の花の根本の生命は何処にあるのであろうか

出講先で先祖供養の為に仏壇の前で鈴を八度打ち、十念仏を唱えますと仏壇の上空に念仏が木霊し、
まるで広い宮殿の中を念仏が反響しているようでありました。
佛を唱えると佛が現れ
佛と佛が響き合い
佛の生命(いのち)が木霊する。
此の霊感的な事実が実感として、感情的に心に染み入りました。
あり難いことでありました。




桜の花が開くというのは、その花の形の原型は、桜の樹の『生命』の中に、
その花の個性ある構図が『既にある』(理念という)からであって、
その『既にある花の形』(理念)は物質ではないから、物質界のものを観る装置等の超電子顕微鏡で探って見ても
見えないものである。
その桜の『花の原型は生命の中』にあるのだが、生命は物質界を知覚するための、五官のはたらきや、
人間が利用する測定機では視ることが出来ないのである。

霊的形相を理念と呼ぶ

生命に内在するところの心に描かれている原型(霊的形相)を『理念』と呼ぶのである。
『理』の字は『玉』偏である。
『玉』は宝石のことである。
その宝石は『玉(たま)』であるが、その宝石を神さまの『霊(みたま)』にたとえて、
神さまの霊(みたま)の表面に浮かんだアイデアの形、姿を『理』として象形文字をもって是をあらわしたのである。
『理』は神に内在する理道(すじみち)が神の『みたま』の表面にすがたをあらわしたものである。
それは神の心に『念』として浮かんだものであるから、『理』と『念』とを熟語として『理念』と呼ぶのである。
続く・・・・・





















                     




特殊な女性の場合の真実の幸福

2016年05月11日 21時24分59秒 | 真理の言葉
特殊な女性の場合の真実の幸福

職場にも沢山の女性が女医、看護師、事務職として活躍しています。
女性も瞬間的な腕力等の筋力は男性にも劣らないものであります。
剛健な男性でも辛いリハビリ等では目の淵に涙を浮かべますが、女性は最後まで涙を浮かべずに頑張り通します。
男性は血液を見て顔が青ざめますが、女性は顔色を変えることはありません。
このように女性の胆力は素晴らしいものがあります。
母強しのそのものであります。




特殊な女性の場合の真実の幸福


特殊なる女性に於ける場合はその愛を結婚生活しないで、何か一つの社会的慈善事業や、宗教的奉仕に、満足することもあるのであります。
孤児園の保育に自己のすべての愛情を捧げたり、神の愛に奉仕することにより自己の愛を満足せしめるようにするのが特殊なる女性の幸福であります。
これ等の霊魂はすでに結婚生活で得られる喜びも悲しみもすでに卒業せる魂であります。


愛と徳はわたしたちの心奥ふかくしまっておくものではありません。
なぜならロウソクを点して枡の下に置く人はいません。
家の中の皆に光りが行き届くように、燭台の上におくものですから。
宣教する修道女は神の愛を運ぶものです。

マザーテレサ

私たちの心には、子供の頃の自由な楽しい世界、生き生きとした感情への憧れがひそんでいる。
キャサリンマーシャル

置かれた場所で咲きなさい
渡辺和子















『わが父の家を商売の家とするな』

2016年05月06日 21時51分32秒 | 真理の言葉
『わが父の家を商売の家とするな』

あらゆる物が溢れ、あらゆる思想が溢れ、あらゆる考え方が溢れ、ありとあらゆるシステム、規則、法律はウナギ登りに多様化しています。
どれを選択したら良いのであろうかと迷う時代であります。
ある国の代表を決める候補者の中に、これ等の概念を打ち砕く人が現れているようです。
正に先祖返りのようであります。
進化した民主主義のなかで、一見、人間の泥臭い希望をさらけ出して、其の儘に感じたフーリングを相手に投げかけて、
反応を見てそれに的確に、或いは直感的に判断する。
人間の原始的な素朴な思想、感情を武器にして、民衆に訴えて躍進しているように思えます。
このような事を・・・・・主義と言っている人もいるようです。



すべての人類は神の御心の恩徳を授かり、神の祝福を受けて現世に生まれ出でたのですから、
すべての人類は平等であり、互いに平等の権利を有しているのであります。
例えば物を売る人と買う人は互いに売る権利と買う権利が平等にあります。
ある利益を提供する人と受ける人も互いに平等であり権利も平等であります。
反対に義務も同じように作用します。
眞の利益は物事を二次元の世界の横軸を横に転ばして配置転換して差益を得るものではなく、
天よりの縦軸の神の恩徳より給わるものであります。
この縦軸と横軸の交差した、十字架のクロスした処が眞の平等の世界であります。
しかし現代はあまりも複雑な合理的なシステムの影響で、物事が見えにくい為に不合理な権利と民衆の権利が衝突して差益が出来て、
不平等が広がっているように思えます。
例えば、何が何か解らない『どさくさ』に紛れて不合理の権利者は漁夫の玉を拾い利益を得る。
原始的な方法ですと物々交換するときでも、互いに必要なもの提供し合い、取引をします。
例えば一億円相当の宝石と生活に必要な一月の米三十キロと交換する時の価値観の違いにも互いに利益があるならば取引が完結します。
お金は余るほど蓄えているが、食べるものが何も無いときには、相対的価値を投げ打って、お米を買う事を選びます。
しかし現代では合理的な智慧が普及していますからこの様な取引は行なわれることは少なくなりました。
貨幣の無い時代は、自分が創造したものと他が創造したものを持ち寄り互いに産霊(むすぶ)合い、
利益を分かち合ったのです。
そして喜びをも分かちあったのです。


イエス、エルサレムに上り給う。宮の内に牛、羊、鳩を売る者、両替する者の座するを見て、
縄を鞭につくり、羊をも牛をもみな宮より追い出し、両替する者の金を散らし、その台を倒し、鳩を売る者に言い給う
『これらの物此処より取り去れ、わが父の家を商売の家とするな』

                                         ヨハネによる福音書 2―13~16























                     


人間の本性は超時空で無限である(幸福は今此処に、今の心の中に存在するのです)

2016年05月05日 18時56分38秒 | 真理の言葉
人間の本性は超時空で無限である(幸福は今此処に、今の心の中に存在するのです)

連休で普段より車が混み合いますが秩序整然と車の行列が続き、日本の素晴らしい一面を感じました。
休日を利用して奥様を連れ添い、風光り新緑映える小高い丘の墓苑にお墓参りに行きますと皆さんも同じ思いのようであります。
墓苑は沢山のお参りがありました。
称名念仏を唱え、短い経を読誦してお参りしますと夫々の思いが上がってくる様であります。

評論家は様々な素材をまな板に上げて巧みに思考して調理をして、出来上がった一品(論評)を他に提供しますが、
自らが食することが無い傾向があります。
しかし自らがその一品(論評)食してその論評の毒味をする必要があると思えます。




時間は心とともに始まる。空間も心の中にある。因果関係は時間無しには存在しない。
因果関係は時間の持続の中に起こるという観念がなければ因果関係はという観念もありえない。
従って時間、空間、因果関係は心の中にある。人間の霊的本体は心を超えて形のないものであるから、
時間を超え、空間を超え、因果を超えているとすれば、それは無限でなければならない。
無限なるものは二つあることはできない。
本当の人間は一人で無限大で、偏在する霊である。
見せかけ上の肉体人間は本当の人間の限定物に過ぎない。
本当の人間はすなわち霊は原因と結果を超越していて時間と空間に束縛されないから、自由でなければならない。
従って本当の人間の姿は時間を超え、空間を超えて自由である。
仮そめの肉体人間は今此処に存在していながら、自由に交通できるのである。
去来なくして、去来出来るのである。
釈尊のように帝釈天宮へも、夜麻天宮へも座を立たずして自由にいけるのである。
大無量寿経に『彼の佛如来は去って去る処なく、来たって来るところなく、生なく滅なく過現未来に非ず』と説かれている。
空間も距離もすべて心の中にあるのだから、空間も距離もあるように見えていながらも本来存在しないのでる。
空間が無いのであるから『去来なくして、去来する』のである。
だから極楽浄土も彼岸の未来世、または過去世に存在するのでなく、今此処に、今の心の中に存在するのです。