夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

手作りの愛と人生の自動化

2016年05月03日 17時22分32秒 | 真理の言葉
手作りの愛と人生の自動化

その時その時代で政治、経済、住宅環境、暮らし方も変化して来ました。
生活も作業効率、機械化、人や物の移動、連絡方法等もボタン一つで自動化が進んである意味で飛躍的に便利になりました。
所謂アナグロ的な世界からデジタル的な時代へと変身しています。
車の運転も自動化が進んでいるように、車自身が相手を認識するのであれば私たち人間は相手を認識する必要がなくなり自分が運転している意義がなくなります。
私達人間が心で思ったことが何もしないで直ぐに自動的に目の前に現れる時代がもう其処まで迫っているようです。
しかしそれで人間が幸福に満ちた心になれるかは疑問です。
人間は互いに認識し合い、互いに喜び、悲しみ、苦しさを分かち合うところに
自分が存在している意義を見出し、自分自身の存在価値を知り得ることが出来ます。
もし一方的に前述のように自分の思い通りに物事が運ぶのであるならば、互いに共鳴したり、思いやったり、励ましたりする事が必要でなくなります。
もし全ての物事が自動化で解決出来て、人生も生まれた時から全て自動化で暮らす事が出来るならば、
すべての人間がある意味で均整のとれた平等感に満ちていますが、人間の魂の訓練も生長することも必要でなくなり、
新たに生まれた事により兆戦する必要も要らなくなり、自分自身の個性ある意義も無くなり、夢も希望も無くなることになります。
ただ無機物のように淡々と生産される、愛、感情の無い世界が横たわることになります。
デジタル的な世界に生きていても、自分自身で一つ一つの物事を相手の幸福のなるよう丁寧に考えてそれを相手に伝え、相手の反応を自分自身の心で受けとめ、また新たに深切心を与えるように互いに心を通い合わすことが
共に結び合う愛に目覚め、心豊かな愛に満たされた世界を創ることになります。




宗教は限りなく愛することである。従って神の創造又は顕現であるところの人間を、また万物を限りなく愛することである。
宗教とは儀礼でも儀式でもない。弁舌巧みなる事でもなく賛美歌や金剛流の詠歌の節まわしが巧みなことでなく、
人を魅了する説教に巧みなることでもない。それはむしろ稚拙である。
良寛和尚がシラミを自分の肌より取り出してそれに相撲をとらせて、また肌にしまい込みたがるが如き稚拙さである。
また幼心である。
宗教家はまた誠実の世界のものであるから偽善者を激しく憎む。
キリストは万人を愛し、万人の身代わりとしてハリツケになったけれども、偽善者に対しては激しく憎み激しく攻撃したのである。
キリストは人間を限りなく愛したので、人間らしかざる形式主義、偽善者を限りなく憎んだのである。
愛と憎みは裏と表である。
宗教は内に不動明王の憤怒と観世音菩薩の慈悲との両面を蔵するのである。
宗教家の憎みは、彼を愛し、彼を高めんが為の憎みであるが、凡人の憎みは自己を愛し、自己に利益にならざる者を憎むのである。
かくて宗教家の愛は憤怒を内に蔵しながらも、その憤怒は相手を愛する清さの変貌である。
不動明王の憤怒は結局観世音菩薩の慈悲であったのである。
そこに宗教家が単なる哲学者として真理の傍観に終始せずにして、伝道せずにはいられない激しさを超えた性格の流れを持ち、人をその渦中に引き摺って行く所以である。

















                     



久遠は時の流れの中にあらず、久遠は即今にあり

2016年04月28日 21時50分24秒 | 真理の言葉
久遠は時の流れの中にあらず、久遠は即今にあり。

日時計主義と礼拝主義は車の両輪のようなものである。

今日は年二回の定期健康検診でした。
今回の内診の若い女医さんは、それぞれの検査の結果を見て、明るく爽やかに安心を得るようにと優しい説明して頂きました。
分かり易く、相手を納得させ明るく希望と安心が抱けるような説明はどのような職業にも必要な事と思えます。

太陽が分け隔てなく普く平等に温かい虹色の光を照らして輝くように、
世界の全ての地域に神の御心である慈しみのともし火を燈し、人と物と事との光明なるもののみを把持し,記憶する
日時計主義を掲げ、すべての人々と生きとし生けるものの尊い生命を唯ただ素直に合掌礼拝する礼拝主義を実践して
世界の人々を幸せの世界である、天国、極楽浄土へと・・・・・。



哲学の思索は間違うことがある。唯物論の次には唯心論が現れる。
思索というものはより多く頭脳的なものであり、論理的なものである。
それだけ人間には合理的に見えるけれども、哲学というものは、時代を超えることが出来ない。
合理は時代に即して合理だと思われるのである。時代に即しない合理は人から不合理だと思われる。
或る時代に合理的だと思われたものは、次の時代には不合理だと思われる。
人間の作った合理など決して当てにならないものである。



一瞬一瞬に永遠を生きる。

2016年04月26日 20時29分38秒 | 真理の言葉
一瞬一瞬に永遠を生きる。

昨夜部会が開かれました。
皆さん地震の話題で持ちきりでした。中には自分だけ外に飛び出し、奥さんから、私を置いていって、
自分だけ逃げてと言われたと話され、皆から笑い飛ばされました。
この地諫早、長崎にも過去には1957年(昭和32年)7月25日の6時間、12時間の降水量は日本歴代最高記録をした諫早大水害、
1982年(昭和57年)7月23日の長崎大水害、1991年(平成3年)6月3日の雲仙の火砕流等があり、
皆さんその当時を思い出され、小学生時に水害で流され兄から助けられ九死にいっしょうを得た体験談等のお話しをされました。





人間は生き通しであるから、肉体は今日死んでも、百年後に死んでも、大してかわりはない、
それよりも今の生き方に悔いのないことが大切である。
悔いのない生き方とは、一瞬一瞬に永遠を生きるということである。





















                     



托鉢の心(真実の与える愛)

2016年04月24日 23時33分02秒 | 真理の言葉
托鉢の心(真実の与える愛)

時代の変遷を感じる今日此の頃です。
青年時代、壮年時代、円熟時代と時代をを重ねることで、その時その場所で御縁があった人々、出来事が
走馬灯の如く駆けめぐり一瞬一瞬と変化していきます。
ものの考え方も、根本的な真理は変わることは無いにしろ、生活、仕事等の表面的、合理的、物質的な改善、発達、現象を優先させ、あたかも人類全体が随分と進歩しているかのように見えます。
反面、人間本来が持ち合わせている内面的な心である情緒的な奥ゆかしい心情である慈しみ等は、
そのような進歩的な考え、物質的な文化の発達により、制限され、押し消されているようであります。
しかしこのような大きな災害等がありますと、それにより、再び人間本来の素晴らしい心である温かい、
思いやりのある優しい心、助け合いの人情味のある姿に先祖返りをするようであります。
これは今までそのような外の世界への幸福の為に努力して勝ち取ったものが失われることにより、
現象的な幸福への執着が必然的に剥ぎ取られ、人間本来の姿(実相)である『慈愛』が現れるのではないかと思われます。



釈迦が飢饉な時ほど托鉢せよと説かれました。
人間は絶体絶命の境地になりますと無限の能力が発揮されるのであります。
火事場の馬鹿力と云う言葉もあります。
その人間本来の姿(実相)である『慈愛』を引き出すのが托鉢であります。
わずかなお金で油を買って供養したという貧者の一灯が、未来には佛の位に登るきっかけになったと云います。


手垢のつかない布施行 (本当の布施行)

2016年04月22日 21時30分20秒 | 真理の言葉
手垢のつかない布施行(本当の布施行)

青空に走るかもめ号それぞれの想いをのせて、

川に映える山々の新緑の間に間に優しが光り、

希望の汽笛を鳴らし愛の架け橋を渡る列車よ。


博多の機器のメーカーから点検の申し出がありました。
地震後の点検をお願いしました。




人に物を与えるとき、それを自分が彼に与えたと思ってはならない。
それは手垢のついた布施である。手垢のついた布施はよごれた茶碗で人をもてなしするようなものである。
それは人に対して失礼であり、無礼な行ないであります。
人に物を与えた時には、その与えたものが自分に属していると思ってはならないのであります。
その与えたものが神より賜わったものであり、それは神が自分を通して彼に与えた給うたものだと思って、
神の布施行が、自分をお使いになられたことに対して感謝しなければならないのです。
その布施行は我が為すに非ず、神が成さしめ給うたものであると自分を空なくして、
神の御栄えに帰したとき、本当にその布施行が浄まるのです。





イエス涙を流し給えり

2016年04月21日 21時48分28秒 | 真理の言葉
イエス涙を流し給えり

雨足が強く、娘が勤務先に一緒に送っていて欲しいと言い、
少し回り道をして娘の勤務先の玄関先まで送って行きました。
何時ものコースで無いのと、雨の影響で車が大変混んでいました。
娘は身体の保持と健康の為に、毎日徒歩で通勤しています。
姉の時も、大学を卒業して初めての仕事が内勤の本等の編集の仕事でしたので、特別にウオーキング等の運動をしないで仕事の中で運動したら好いですよと言い、勤務先までの二Kの程の通勤の距離を歩いたが好いと助言すると、それを実行しました。




エコノミー症候群と云われている。狭い環境の中で同じ姿勢をしてネガテイブな心でいると全身の循環が滞り、
血栓が出来て、肺等の呼吸器官が突然不全の状態に陥る。
脳血栓、心不全と似ているようであります。ある種のストレスでもあります。
唯さえデスクワーク等の仕事で同じ椅子に長い時間座っていますと腰、足、脚等が痺れます。
心の気分転換、心の風通しが必要であります。その心の気分転換ができますと、足、腰、体のストレッチ等を実行したり、
外に散歩に出かける等の心のゆとりが現れて来ます。
心の気分転換が出来る素は、人間は如何なる境遇に置かれても、明るいポジテイブな前向きな光明なる心を持ち続けることが必要であります。
サポートする時にもその置かれた身の上を良く理解して、その人の悲しみ、苦しみを我が苦しみ、悲しみと心から受けとり、その人に寄り添うことが必要であります。その慈愛の次に励ましであります。



苦しむ人に対して、苦しみを見て苦を除かんと欲する慈念である、慈悲喜捨の愛念を起すべきである。

病んでいる人をみてイエスキリストは同慈、同非の心が起こり給いて、
『イエス涙を流し給えり』と聖書にある。
次に神に祈って『神よ、あなたは常にわが願いを聞き給うことを知る』と言い給いて、心をこめて
ラザロに対して『死せるに非ず、眠れるなり。起てよ』と断言せられ、そのときラザロは復活して健康になって起ったのである。










                     




自分を縛っているものを解きましょう。

2016年04月20日 22時50分30秒 | 真理の言葉
自分を縛っているものを解きましょう。

今日再び災害派遣医療チーム(DMAT)の交代要員で、六名のスタッフが八名乗りワゴン車で熊本へ出発しました。
そのワゴン車に毛布等を積み込み、現地で七日間を過すそうです。
今夜は出講で、二週間程前から咳き込んで止まらないと言われ困っておられました。
咳が出る度に、その咳を握りますと咳は無限にひろがり収拾がつかなくなり、止まらないで一段と苦しくなります。
咳は貴方の業、あるいはストレスが消えて行く姿でありますから、咳を敵と思わないで放ち去り、咳に対して合掌して有り難うございますと感謝しますと宜しいです。
何事も一つのもの事に執着しますと接着剤のように自分自身に絡み付いて離れることがありません。
それが業の苦しみであります。
それから静かに、極静かに息を吸い、その息を下腹部に送り、所謂鎮下丹田に息を溜め、しばらく息を潜め、
苦しくなる前に再び前述のような呼吸法(霊的呼吸)をされると宜しいですと答えました。
するとそれを直ぐ実行され、その場で咳き込んでいた咳が止まりました。




自分を縛っているものを解きましょう。

宗教の目的は、人間の自己に宿る神性を自覚せしめ、一切の自縄自縛を解き、
自己によって開放することにより、自由自在の境涯に達した、その神性を生活面に現し、実現することにあります。


常識を超える力(祈りは善なる神の心に近づく最良の道である)

2016年04月19日 22時14分46秒 | 真理の言葉
一人の尊い個性を失ったように見えますが、この身は幻のようであり、浮雲のようであり、稲妻のようであり、
水流のようであり、焔のようであり、夢のようであり、唯業力に転じるようであり、無常であり、
堅固なりと見ゆれど必ずや滅びる時きがくるのであります。

幻の如く、虹の如く、稲妻の如く、夢の如く、
過ぎ去るものは実在にあらず。
空しきものは我にあらず、
死するものは我にあらず、
無常なるものは我にあらず。

法身こそまさに我なり。
佛身こそまさに我なり。
金剛身こそまさに我なり。
不壊なるものこそまさに我なり。
死せざるものこそまさに我なり。
盡十方に満つるものこそまさに我なり。

一人の尊い個性はこのように永遠に生きつづけ、光明輝く十方世界に存在するのであります。



常識を超える力(祈りは善なる神の心に近づく最良の道である)

人生のすべてへの道を敬虔なる祈りに始めて、感謝に満ちた祈りに終わるような生活をなせ。
さすれば神の無限の愛と無限の智慧と無限の生命と無限の豊かさと無限の平安をこの現実の世界に現すことができるようになるのです。

吾々は常識的に判断して、現実には到底不可能と思える問題に遭遇すると、もう常識的判断ではとても駄目だと思い、
あきらめ、祈ることすらも捨て去ってしまうことがありますが、しかしそれが正しい要求である限り、到底駄目だと見える事でも、神においては不可能なことはないのであります。
どんな失敗、どんな問題でも神はそれを償ってもあまりある救済策を与え給い、
解決できない問題はないのであります。
神の愛がそこにあらわれるとき、どんな人も皆、満足できるような解決に到達することができるのであります。









                     


陰極は陽転する。(悪くなるほど、善きことが近づいて来たと思え)

2016年04月18日 21時17分08秒 | 真理の言葉
陰極は陽転する。(悪くなるほど、善きことが近づいて来たと思え)

燈火(ともしび)の消える前は一時却って明るいと同じように、運命の明け方のの来る前に真っ黒な真夜中が来る。
けれどもこの真っ暗な真夜中は一層明け方の近づいた証拠でありますから、
コロンブスのように前途を信じて確信をもって突進すればよいのであります。

地震が長期化しますと人間の心深く、不安が漂っているようです。
地震の回数が増え続きますと不安が生じ、狭い病室から一刻も早く外へ逃れたいと思う心理が働きます。
また震度七程の耐震強度がある建物でも、自動ドア、非難階段等の扉に歪み等が生じて開かない危険があります。
病棟により病室の扉等をテープ等で固定して開放のままにしているところがあります。






柔和なる者地を嗣がん

幸いなるかな柔和なるもの、その人は地を嗣がん

                            マタイ伝 第五章

『地を嗣ぐ』と云うのはエジプトの奴隷になっていたユダヤ人が故国のイスラエルの地に帰ることができると
意味になぞらえて『地を嗣ぐ』と言ったのです。
心が柔らかいというのは『我』の無いことであります。素直な心のことであります。
『そのままの心』『無構えの心』のことであります。
キリストが『人若し汝の右の頬を打たばこれに左の頬を巡らして打たせよ。
十里の公役を強いられなば、二十里をゆけ、人若し汝を訴えて下衣を盗らんとする者には上衣をも取らせよ』と言っている意味は、
それは柔和な心であり、抵抗がないこころです。そのままの心なのです。

このように心柔らかい心、我のない素直な心である無抵抗の真理を実践することは本当の強さがあらわれてくるのです。
そのような心で相手に素直になりますと、相手がこちらの思った通りに、素直になるのです。

柔和なるものほど強いのであります。硬いものは壊れる。
鋼鉄で出来た橋でもくだけるけれども、柔らかい空気はくだけることはない。
爆弾で鉄骨の建物がくだけるのは、爆風である、柔らかい空気の力なのであるのです。
柔らかい真綿が爆風に当たっても吹き飛んで傷がつかないのです。

このように柔らかい心になりますと心が一ヶ所に執着しない、心が自由に伸び伸びとしている、
だから肉体的にも、凝りが生じることがない、また血液の循環も滞りなく自然に順調に流れ、
健康が保たれるのであります。










                     




難問題に直面した時には全智全能なる神に全てを任せなさい。

2016年04月17日 18時47分37秒 | 真理の言葉
難問題に直面した時には全智全能なる神に全てを任せなさい。

災害派遣医療チーム(DMAT)に参加していたスタッフが今日交代で帰ってきました。
このような地震等の災害に対して病院の役割は大変重要であります。
以前も古くは長崎原爆の被爆者の搬送の受け入れ、雲仙の普賢岳の火砕流、直ぐ近くでJRの特急列車の横転事故とありました。
その度新しい思考、システム、器材、屋上にヘリポートの増設等により進歩して来ました。
しかし原点は患者の傷、不安を取りのぞき、心を癒し、健全な心身と生活の再建が永遠のテーマであります。
それぞれ人間には一人一人に個性と異なる社会的背景が存在していますので、それを読みとり、優しく、慈愛を以ってその人の運命に寄り添いカウセリングを通して悦びの道へといざなうことが病院の役割だと思います。



もしあなたが解決し難き難問題に直面して未来の恐怖におそわれるならば、自分でその問題を解決しようとしないで、
あなたの心を神の方へふり向けよ。
神と直通してつながりなさい。神はあらゆる智慧と力をもっておられのである。
神はあらゆる解決方をもっておられるのです。神に全托せよ。
そのお任せの心になった時に、突然とあなたの心に解決の道が浮かぶのです。
また誰からかの深切な導きが起こってくるのです。
恐怖心が起こっている限り、恐怖は不信の感情の現れであるから、神の御心である愛を理解できない状態であります。
それ故神の愛と完全さを深く信じて、平和な心境になって神にお任せることによって解決の道を得ることができるのです。
恐怖心を捨て、我れ『神の最高の体現者である素晴らしい神の子である』と段々乎として宣言せよ。
我れ神のみ名に於いて我れ『この難問題を解決して幸福の道へと進軍するのである』と段々乎として宣言せよ。




瞬間が万事である。あらゆる瞬間を隣人に対して『善の心』で満たしましょう。

2016年04月16日 20時55分30秒 | 真理の言葉
瞬間が万事である。あらゆる瞬間を隣人に対して『善の心』で満たしましょう。

早朝一時二十分頃、突然二台の携帯の緊急地震速報のアラームが鳴り響き起され、壁に取り付けてあるエアコンが揺れ、落ちて来るのではないかと不安になりましたが、次第に揺れが収まりました。
朝二人の孫がやって来て、やはりお母さんのスマホのアラームで夜中に目が覚めたそうです。
震度四から五弱にアップしていました。
間断に地震の揺れがやって来ます。
もう一度大きいのが来るのではないかと思っています。
渥美半島に嫁いでいる長女から安否のメールが入りました。
直方市のマンションに暮らしている三女からは食器棚の引き出し等が出て来たそうです。
博多の十三階のマンションにいる二女の娘婿は高速道路、橋等の設計技師であるので、東北の大地震の時にも現地に出張していました。
今回の地震でも道路、橋等の復旧に努力するのではないかと話していました。
東京等あちらこちらに居る子供達から安否の連絡が来ました。





吾々の生活を、全ての瞬間を、人類に対して、またすべての物事に対して善念を以って満たすことが、自分の生活を幸福に築き上げる秘訣であるのです。
ゲーテのヘルマンとドロテーアに『瞬間のみが、人間の生とその全運命とを捧げる』と書かれています。
またイタリア紀行にも『瞬間が万事である』と書いています。
想念の爆発力により運命を前進させるのです。
その想念の舵をとる方向に自分の運命を前進させるのです。
憎む者は憎まれる方向へ、愛する者は愛される方向へ、与える者はその与えた量により自分自身に与えられのです。
人間には、生きる権利、自由である権利、幸福を追求する権利が与えられ、この三つの権利が侵害されない時、人間は幸福と生き甲斐を感じるのです。
生活を創造して行く中でこの三つの権利を隣人から奪ってはならないのです。
隣人に対してこの三つの権利を確保してやるように努力する時、自分自身のこれらの三つの権利も確保されるのです。
他の人の生活権を脅かしてはならない、他の人の自由を縛ってはならない、他の人の幸福を奪ってはならない、このことが自分の生活を幸福に創造する根本原理であります。


拝む心

2016年04月12日 18時46分22秒 | 真理の言葉
拝む心

拝む姿は宗派に問わず美しく清らかものであります。

有情非情生きとしいけるものありとしあらゆるものを、すべての人々を分け隔てなく
神、佛の顕れてとして合掌礼拝することが人間本来の姿であります。
動物等には合掌の心、姿は見られません。合掌の生き物が人間であります。
拝み合いの生活は戦争も争いも無い、与え合いの天国極楽浄土の世界であります。
人の長所だけを讃嘆するのでなく、その人の欠点を含めて、全てを礼拝讃嘆することが愛であり、
また吾に石を投げたり、誹謗中傷し迫害する人でも軽んじないで貴方がたは佛のさとりを開く人であるから
心から、ただ礼拝讃嘆することが常不軽菩薩の教えであります。






『礼拝』は仏教辞典には恭敬・信頼の心をもって敬礼すること。
礼拝の種類として、発言慰問・俯首示敬(ふしゅしけい)・挙手高揖(きょしゅこうゆう)・合掌平拱(がっしょうへいく)。
屈膝。長踞・手膝踞地・五輪倶屈・五体投地の九種類がある。
その中の五体投地が最高の敬礼法であると説かれている。
『礼念』は佛を礼拝し、憶念すること。念じ、礼拝すること。

『合掌』は両掌の指をそろえ合わせて拝むこと。心をこめて、相手に信頼する態度の表現。
人間の中にある神聖な面と不浄な面とを合一したところに、人間の真実の姿があるという考えの現れである。
天台では右手は報身佛、左手は応身佛をあらわす。
密教では第七に当たる金剛合掌の外十二種類に分類されている。
堅実合掌・虚心合掌・如来開運合掌・初割蓮合掌・顕露合掌・持水合掌・帰命合掌
反叉合掌・反背互相著合掌・黄柱合掌・覆手向下合掌・覆手合掌。



法華経常不軽菩薩品 第二十
何の因縁を以ってか常不軽(じょうふきょう)と名づく。
是の比丘、凡そ見る所有る、若し比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷を皆悉く礼拝讃嘆して是の言を作さく、
我深く汝等を敬う。敢て軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、當に作佛することを得べしと。
而も是の比丘、もっぱら経典を読誦せずして、但だ礼拝を行ず。
乃至遠く四衆を見ても、亦復、故らに往いて礼拝讃嘆して是の言を作さく、
我敢て汝等を軽しめず、汝等皆當に作佛すべきが故に。

常不軽菩薩は乞食僧、托鉢僧の出家僧、在家の信者等のすべての人々を合掌礼拝し、誉め讃え、軽んじないで、
心から敬ったのです。
その故はあなた方は皆、佛の尊い生命を具えた人であり、人を導き救い給う菩薩の道を行じている人であるからです。
釈迦の経を読誦しないでただただ合掌礼拝を行じたのです。
遠くに見えている出家、在家の衆を分け隔てなくまたまた合掌礼拝して、
我は汝等は既に佛の悟りを開いているが故に汝等を軽んじないのです。

『注』
作佛(さぶつ)…佛のさとりを開くこと。
比丘、比丘尼(びく、びくに)…乞食、托鉢僧。出家僧。
優婆塞、優婆夷(うばそく、うばい)…在家の信者。
四衆(ししゅ)…比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の四種類の信者。出家、在家の衆。















                     




あなたは既に今、此処に天国極楽浄土の世界に生かされているのです。

2016年04月11日 20時15分49秒 | 真理の言葉
あなたは既に今、此処に天国極楽浄土の世界に生かされているのです。

先日は佐賀での生長の家講習会に参加しました。
車窓にムギの青い穂並みが広大な佐賀平野に揺れそよぎ、ひばりの囀りが今にも聞こえそうです。
佐賀文化会館も葉桜が初々しく煌き、ツツジの花が下から顔を覗かせて、
いのちの息吹を肌に感じ、神の創造し給える光明なる美しさと生命の神秘と力強さに、神の尊い真心を観じ、
有り難く合掌せずにはおれません。






人間の生命の奥底に、生理学も心理学も医学も哲学も生物学も到達することの出来ない
『妙妙なる存在』が横たわっているのです。
私達は時にそれを自覚し、しかしある人は自覚出来ないでいる。
人間の深遠なる奥底に横たわっている『妙妙なる存在』を神の国、仏教では浄土というのであります。
イエスが『神の国は汝等の内に在り』といったのは、この『妙妙なる存在』を云ったのです。
浄土は十万億土の彼方にありいうのは、心理学や哲学や生物学や医学や脳髄意識でこの『妙妙なる存在』に到達しようと思えば、
今、此処に既に浄土ありといえども無限の遠さにあって、聞こえど聞こえず、見ようと思えど見えないのであります。
あたかも空中には何万通のメールの電波が飛んでいます。
ある特定(浄土)のメールを(認識)するためにはそのメールに波長を合わせないと捉えられないと同じようなものです。
南無阿弥陀仏と称名念仏して、今、此処に尽十方無碍光如来(阿弥陀如来)に帰命して、
いかなる煩悩にもさまたげられない阿弥陀如来の光明と一体となり、
既に自己に存在する尊い光明(阿弥陀如来)なる自己を覚するとき、今此処に天国極楽浄土の世界が実現するのです。

『注』
帰命・・・いのちをささげて、心からのまことをささげる。

自己の身命をさし出して佛を信じてよりすがること。




真言の神秘なる世界

2016年04月07日 22時36分55秒 | 真理の言葉
真言の神秘なる世界

春の嵐が吹き荒れる。
横なぐりの雨の中を幼い小学生の傘がほうきの如く天を向き、両手で懸命に握りしめ、横断歩道をわたる、黄色いランドセルが上下に揺れる。それを見守る交通係りのおまわりさん。




『真言は不思議なり 観誦すれば無明を除く 一字に千里を含み 即身に法如を証す。
行行として圓寂にいたり 去去として原初に入る 三界は客舎の如し 一心は是れ本居なり』

般若心経秘鍵 弘法大師 空海



真言ダラニ(陀羅尼)は何と不可思議なものでしょう。これを誦(とな)えるだげで、
始めの無い遠い昔から人間が持っている無知なる愚かさを除くことが出来るのです。
一つの文字に壱千もの尊い教えが含まれているのです。
この身このままの煩悩にあふれた肉体のままで大日如来の法身を顕わして生きることが出来るのです。
悟りに至り、すべてのものごとの大本に入ることが出来るのです。
この世に生きている諸々姿、現象は、旅をして宿に泊まって居る束の間の夢の如き世界であるのです。 
宇宙の存在する絶対無比の眞如である大日法身の実相は本来人間に具わっているものであります。
此のことを知り、自覚すればこの身このままの煩悩にあふれた肉体のままで、
素晴らしい光明輝く世界に既に存在していて、大日如来に生かされていることがわかるのです。

『注』
真言・・・真実絶対のことば。佛、菩薩などのはたらきを顕わす秘密のコトバ。
    呪、神呪、密呪、密言。
観誦・・・心で観じて読誦すること。
無明・・・真実を見失った無知、愚かさ、煩悩、迷いの根源。
即身・・・この身このままの今現在の身体。
法如・・・大日法身の妙理を云う。
妙理・・・深妙不可思議な理法。こよなき真理。
圓寂(えんじゃく)・・・本来はすべての無知と私欲とを除いたさとり。のち高僧の死没をいう。
原初・・・いちばん初め。おおもと。
三界・・・衆生が生まれて死に輪廻する領域としての三つの世界である、欲界、
      色界、無色界の三つ。
客舎・・・旅人を休息させる宿舎。
一心・・・究極の根底としての心。万有の実体真如を云う。
    宇宙の事象の基本のある絶対的な真実。
本居・・・本来具わっていること。
具足・・・具えていること。円満完全に満ち足りていること。
















































新たに霊的に生まれるための啓示

2016年03月17日 21時24分37秒 | 真理の言葉
彼岸も近まり桜餅の香りが口いっぱいに広がり、ひと雨、ひと雨、桜前線が近まって
初々しい花芽が脹らんでいます。


見よ吾れ総てのものを新たにするなり


黙示録第二十一―五



新しい天と新しい地

見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。
神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない、最初のものは過ぎ去ったからである。
すると玉座に座っておられる方が『見よ、わたしは万物を新しくする』と云い、また『書き記せ。
これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた。またわたしに言われた。
『事は成就した。わたしはアルファでありオメガである。初めであり、終わりである。
渇いている者には、命の泉から値なしに飲ませよう。
勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神となり、その者はわたしの子となる。』

黙示録第二十一―三~七


新たに霊的に生まれるための啓示

吾々は真実の存在を外見によって判断しようとします。
五官で感じる感覚は信念の影に過ぎないのです。
西田哲学では『観られる世界は観る人の心の産物だ』とい云い、仏教では三界は唯心の所現であると云います。
神は善であり、真実に於いて『一切は善である』と云う信仰を、見える世界の外の形によって捨ててはならないのです。
五官で感じる世界は心で思った通りの姿の現われですからあたかも『悪』が存在するように見せている五官の感覚の証明によって、
神は善であり、愛であると云う信仰を捨ててはなりません。
五官に観えると云うことと、真実が実在すると云うこととは別なのです。
人生はしばしば悪しきものが充満し、災禍や病気が充ち満ちているように思われます。
しかし神は完全であり、全能であり、善でありたまうと云う信仰によって、
有情非情生きとしいけるもの、有りとしあらゆるものの実相(ほんとうの姿)を観れば、
真実の人生は決して悪ではないと云うことが判るのです。