沖縄で仕事していて昼間に時間ができたので那覇市にある
「對馬(対馬)丸記念館」に行ってきました。
第二次世界大戦の昭和19年に起きた對馬丸の悲劇を伝える記念館です。
当時沖縄の小学生たちが疎開で長崎へ向けて對馬丸(商船)で航海中に奄美大島(正確にはトカラ列島の悪石島)沖で米国海軍の潜水艦に撃沈させられた事件の記念館です。
在りし日の日本郵船 對馬丸
商船 對馬丸の模型です。どう見ても軍艦には見えません。
無くなった方々は、
という痛ましい事件です。
ここでは涙なくしては見れないのですが、腹が立つのは二つ!
1 なぜ米海軍の潜水艦は民間船の對馬丸に魚雷攻撃したのか?
事前に戦闘艦艇ではないことは分かっていたようです。
2 この對馬丸を護衛していた日本海軍の蓮、宇治の2艦艇は、
對馬丸が攻撃されていることを知りながら逃走した。
せめて日本海軍の蓮、宇治の2艦艇が対抗処置を取り、海上に放りだされた子供たちを救助してくれたらかなりの命を救えたのはないかと思うと悔しくてならない。この艦長の任務は輸送船の對馬丸の護衛であったにも関わらず、何もしないで逃走したことは、どんな理由があっても決して許せないことです。
自分の子供がこのような状況に置かれたらと考えただけで胸が張り裂けそうになります。
時代としてかなり昔のことのように感じますが、無くなった方々はちょうど私の両親とほぼ同世代です。昔のことではないですね。
沖縄戦の最後の現地沖縄の司令官 太田海軍中将が自決前に海軍次官(大本営)に宛てた最後の電文が思い出されます。
「沖縄県民かく戦えり、県民に対し後世、特別の御高配を賜らんことを」