宇都宮徹壱さんの「23名のリストから見えるもの」を読んでいると、余計に松井大輔が落選したのが口惜しい感じがします。次のワールドカップで松井が選ばれても29歳で初出場となる。うーん、なんだか複雑な気分。
今さらチームにフィットさせる時間がないと言われればそれまでだが、しかしなぁ。
今回のメンバーで次のワールドカップに何人入るのだろうか。小野たち「黄金世代」は31歳。なかなか微妙な年齢ですね。選手によっては峠を越した人とピークを維持している人とハッキリ別れだす年齢かもしれない。
中田はどうなるかは、本人次第だと思います。彼ほどの選手なら多少運動量が落ちてもインテリジェンスでカバーできるかもしれない。ただ、本人がそこまでサッカーや代表に固執するかどうか。
いずれにしても、小野たち以下の世代がここでま少ないのも、不安ではあります。それだけ小野世代が凄すぎたのか。やむをえなかったのか。
思想家のドラッカーは、「自由」とはその社会の重要な領域で確保されてこそ有効性を発揮すると述べています。つまり、どのアイスクリームを選ぶかという自由と、どの職業を選ぶかという自由とは区別されるということです。
アイスクリームを選ぶ自由を確保しても職業を選ぶ自由が許されなければ、それは自由な社会とは言えません。
逆に、職業を選ぶ自由のある社会では、おそらく必然的にアイスクリームを選ぶ自由もあるでしょう。
スポーツにおける「自由」はどうでしょうか。サッカーの代表チームがどうあるべきかという議論が活発に・自由に行われることはどれだけ社会にとって重要なことでしょうか。
昔、ある社会学者が、会社を辞めてまで代表の遠征についていくサポーターを見て「どうみても幸せな人生とはいえない」と述べていました。
代表選手がどうあるべきかについての議論は、私達にとって単なる気晴らしでしょうか。それとも、そこには何か重要なものが隠されているでしょうか。
誰が代表に選ばれ、どういうチームが作られるかという議論は、娯楽の一つに過ぎないでしょうか。それとも、私たち自身と私達の社会について考える一つの契機でしょうか。
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