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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『 「超」学校』ダニエル・グリーンバーグ(著)

2008年03月08日 | Book
先日、天外伺朗さんの『教育の完全自由化宣言』を紹介しましたが、そこで扱われていた「サドベリーバレー・スクール」に興味がわいたので、創設者のダニエル・グリーンバーグの著書『「超」学校』を読んでみました。

とっても面白い本でした。

天外さんの本でその内容は予想していましたが、その予想を裏切らず、その予想をより豊かに膨らましてサドベリーバレー・スクールの様子を伝えてくれている本です。

本を読んだだけでは、実際にこの学校がどう運営されているのかはわかりません。

ただ、年齢によって分けられたクラスはありません。そして担任の教師も、決められたカリキュラムもないそうです。

そこは自由の国。

そう、ホントに自由の国のようです。

子供たちは、遊びたいだけ遊んでいいそうです。

そういえば、子供のころ、野球部や学校の行事でキャンプに行っても、テレビを夜に見たいと思わなかったし、そういうことを言い出す子もいませんでしたね。

遊びたいだけ遊びながら、自分の中に「これを学びたい」というものが出てきたら、学校の中にいる「スタッフ」をつかまえて、勉強を教わるそうです。あるいは、学校の外にいるその分野の「先生」に弟子入りしたり。

そうやってホントにすべてを自主的にやらせてしまうそうです。

既存の学校教育はもちろんありませんが、それに代わる「ユニーク」な教育方法もないみたいです。とにかく、放っておくのです。

ただし、勉強に関しては放っておかれますが、サドベリースクールという共同体の秩序は守る義務があるそうです。その秩序がどのようにして守られているかは、ぜひ本書を読んでみてください。

興味深いエピソードに満ちた本ですが、ひとつ二つ、著書の言葉の引用を。

著者は、何も教えない学校に、他の学校の「問題児」が送られてくることに触れて、そこに「問題児」と社会との格闘を見ます。

「実際問題として、サドベリー・バレー校では「問題児」の方が素晴らしい行いをしているのです。…理由は簡単です。「問題児」であることは、戦いを放棄していないサインだからです。こうした子供たちの尊厳を破壊し、矯正し、普通の鋳型に押し込もうとしても、彼(女)らは戦いをやめないのです。屈服を拒否するのです。反抗するだけ元気があるのです。
 確かに、彼(女)らのエネルギーが自己破壊的な行為に向かうこともあります。しかし、その同じエネルギーが、抑圧的な世界との闘いからひとたび解放されれば、自分自身の内面世界の構築へと速やかに流れを変え、よりよき社会の建設へと向かいさえするのです」

それに対して、より厄介なのは、社会や親の要請に順応してしまった「優等生」たちです。これはサドベリースクールの中でも外でも存在する問題です。

「社会の犠牲者とは「問題児」ではなく、実はこうした「優等生」なのです。何年もの間、外部の権威に寄りかかってばかりいたので、自分自身がなくなってしまったのです。目から光が、心の奥からは笑いが消えてしまっている。破壊的な行動は起こさなくとも、自分で建設するということを知らないのです。
 こんな子供たちにとって、自由とは恐ろしいことなのです。こうしなさい、ああしなさと、誰も命令してくれないのですから」

著者は、そんな「優等生」たちに必要なのは、指示のない状態に置き、何をすればいいかわからない状態に彼らを置くことだといいます。そこではじめて、「優等生たち」の中にも「自分」が芽生えてきます。

「(「優等生」への)もっとも有効な薬は、「退屈」の大量投与です。これが効くことがときどきあるのです。この学校には学習を組織してくれるプログラム・ディレクターがいませんから、「優等生」たちは時にそのまま「無為」の世界へさ迷い込んでしまいます。彼(女)らの「退屈」が耐え難いまでになったとき、本当の絶望の中から立ち上がり、自分なりの生の枠組みを作り出そうとする気力が生まれるのです。
 わたしたちは、その「反転」の瞬間がその子に到来する瞬間に、前もって気づきます。そして、その「反転」のプロセスを見守ります。その瞬間は遅かれ早かれ、いつかはやってくるものなのです。しかし、可哀相なのは、苦痛に耐えなければならない「良い子」たちです。したくもないのにさせられ、そのうちに習い性になった服従のつけが、こんな形で回ってきたわけですから」

 「この学校に幼いころ来て成長した子供たちは、「問題児」になることも「優等生」になることもありません。幸運な子どもたちなのです。それは、表情を見るだけでわかります。
 自分自身に安らぎ、環境の中でリラックスしているので、自分の目標を見失うことなく、浮き沈みに対処できるのです」(231-234頁)。


日本では、こういう自由の退屈さを与える機会があるでしょうか?大学がその機能を果たしているでしょうか?大学に入ったころには、すでに子どもは教えられたことをこなすことしか考えない人間になってしまっています。多くの子は、退屈さの辛さから逃げてしまい、楽しくもないことに遊んだり、資格の勉強をしたり、大学院への進学の準備を始めたりします。

サドベリーバレーでは、誰もが自分の内なるものに気づくことができるのでしょうか。一度、この目で見てみたいです。


*こういう興味深いところもあります。

*こちらはアメリカ本家のhp