諸事情で書くのに時間がたってしまったが、少し前の週末、車の修理のため工場に出向いた。うちからはちょうど街の真反対にあり、周辺は田園地帯だ。
旧宅にいたころ、桜(ソメイヨシノ)の見事な大木が家々の庭に咲いているのを見て、この辺は戦前に住宅街になったので、その頃家を建てた人たちが植樹したのだろうなと考えた。そして、その頃近郊農業地帯だった現宅付近は、普段利用価値のない桜の木はあまりないのではないか、と思ったりもした。
がしかし、そんなことはなかったようで、車で走ってみると、そこかしこに見事な桜の木がたくさんある(開発されて日の浅い現宅の周辺にはほとんどないけど)。
のどかな田園地帯だ。
数十年前もそうだった。子供の頃よく父と一緒に、自転車に乗ってこのあたりの田んぼを見に行った。
農家の出の父は、田畑を見ると心が落ち着くようだった。
この季節、田んぼにはレンゲが咲き、上空ではヒバリがぴりぴりと鳴いていた。
ヒバリは地表に巣を作る。この時期、ひなたちが餌を運んでくれる親を待っている。親鳥は空から直接巣のある場所には降りずに、離れた場所に着地してしばらく地表を歩いて巣にたどり着く。
天敵に巣のある場所を悟られないための知恵だ。
そんなことを父から教えてもらい、感心していた。
中学生になって、もう父と田んぼなどに行くこともしなくなった頃、珍しく父に誘われて一緒に出かけたことがある。
その頃は休耕地になっていて、ゴミやらなにやらが雑然とおいてあったのだと思うが、父はそれをやおら拾い上げて、水のたまった溝に投げ込んだ。
勢いよく水柱が上がる。
何度もそれを繰り返したあと、僕の方を向いた。
同じことをしてみな、という合図だと思い、僕も石か何かを投げ込んだ。
しばらくそんなことを繰り返した。
子供でも、あるいは子供だからこそかもしれないが、父が普段と違い、なにか心に抱え込んでいているんだな、ということは十分に理解できた。
少しずつ日が落ちてあたりが黄色くなってきたが、しばらくそんなことをしていた。
父は何も言わなかったし、家に戻ってからも普通にしていた。
あのとき父は、自分が何かを抱えているという姿をはっきりと見せてくれた。
なおかつそれを、息子と分かち合おうともしてくれた。
そのことを思い出すと、今でもとてもありがたく思う。