去年の秋ごろからだったか、だんだんと携帯に迷惑メールが送られる回数が増えるようになった(それまではほぼ皆無)。携帯メールは身内とのやりとりにしか使っていなかったのだが、PCアドレスからメール転送する設定をし、それに携帯から答えたりしていたので、まあどこかで漏れたんだろうな。
さいきんはキャリアのウェブページでメールのヘッダ情報なるものを見ることができる。内容を全て読み取れる訳ではないが、どうも来ているのは同じ送信元のようだ。送信アドレスは毎回変わるが、あちこち転送するのだろう。アドレスの@以下をコピーして、拒否指定しているが、いたちごっこなのはわかっている。
どこかのサイトに誘い出して、課金するという商売なのかもしれない。やり方はあれだが、そういう意味ではこれは一つの事業なのだろう。だとすれば、これがいつまで続けられるかどうか。別にこの「事業者」が、普通の会社みたいに社会保険の支払いをしたり、銀行の資金繰りの心配をしたりしているとは思わないが(わからないけど)、ずっと事業を続けていくことはそんなに簡単なことではないだろう。ましてや、こんな仕事の仕方をしている人たちにおいては。
昔なら、こんなメールを受け取ったら血が沸き返るように腹がたったものだが、今は妙に落ち着いて受け止められることに、自分でも驚いている。
慣れてしまったといえばそれまでだ。ポストには毎日家を売ってくれと言うチラシが入っている。今の家を買った頃、苦労して買ったのに売れとは失礼な話だと、とても腹が立った。今でもきらいだが、不動産屋に文句を言っても、たぶん効果が無いし、思い煩うだけ自分が損する。スパムメールも、珍しかった頃はインパクトがあったが、今はだれもが受け取っている。
もうひとつ慣れたことといえば、何か困ったことがあっても、それが解消されることにはものすごく時間がかかる、ということだ。赤ん坊ではないので、いまさらじたばたするわけにはいかない。ただ、こういう、物わかりのよい?自分については、いささか居心地の悪い気がする。いつからそんな自分になってしまったのか?
藤沢周平のエッセイに、こんなくだりがある。冬、散歩をしていて、道路の壁に、ペンキでアナーキーという言葉や、地元の暴走族の名前が書かれているのを見た。完全な社会というものはなく、社会は反社会的な要素を抱えながら存在するのだと言うことを、これらの落書きは示している、と。
街の落書きも眉を潜めたくなるものだが、こんなふうに淡々と描写されると、また違う風景に見える。
エッセイは続く。さらに歩くと、全ての葉を落とした大きなケヤキの樹に出会う。氏は、もうちょっと年を取るとああなる、覚悟はいいか、と思いながら、更に歩き続ける。
僕もこの先、更に枯れてきたら、そんな感じ方をするようになるのだろうか?