単語を漢字でどう書くかといわれて、すぐに思い出せない場合があります。
思い出せないといっても完全に記憶がなくなったというわけではなく、漢字を見れば思い出すことができるのですから、記憶からうまく引き出せないということになります。
それにしてもその漢字を見れば「これだ」と分かるわけですから、意識にはなくても意識される手前まで記憶が浮かんできているということになります。
挨拶、折衷、怨恨、叡智、皆既日食、激昂など、書きなれていなければすぐに文字が出てこないけれども見れば読めて意味がわかるのですから、記憶はあるわけです。
記憶されているけれども、うまく引き出せないか、あるいは記憶が明瞭でなく文字を見ることでしか確かめられないということです。
記憶が不明瞭だと、読むときは書かれた文字が正しければ問題はないのですが、一部分が間違っていても気がつかないという場合があります。
決選投票を決戦投票と書き間違ったものを見ても気がつかなかったり、自分が書く場合間違ってしまったりするのです。
漢字は意味を表すということからすれば、読み方はあっているのに意味が違う漢字を当ててしまうというのはおかしいはずです。
ところが、倦怠期を倦退期としてしまったり、厚顔無恥を厚顔無知としてしまったりするのは誤った字を当ててもその部分がそれなりの意味を持つので、元の意味を部分的に連想させることができたりします。
元の意味をはっきり記憶していなければ、間違った字が当てはめられても、そこからの連想とつながれば納得できてしまうのです。
ワープロの漢字変換が奇妙な変換となる話はよく話題になったものですが、熟語となればワープロのほうが間違えることは少なく、間違えるのは人間だけとなります。
一つ一つの漢字の意味からの連想が得られると、単語の書き方は一通り以上が可能で、そうなるとどの文字を当てはめた場合が適当かわかり難くなります。
最初は一通りの書き方であっても、別の漢字を当てたときそこからイメージされる意味が適当であれば別の書き方が間違いだと退けにくくなります。
そうなると一つの単語について二つ以上の書き方を許してしまうことになります。
同じ単語について漢字が一通り以上当てられるということは、外国人にとって難解なだけ出なく、日本人にとっても不便です。
どれを標準的な表記とするかを決めれば、ワープロの場合はそれを記憶させておけばよいのですから、人間は迷わなくてすむようになりますし、標準的な表記を踏まえたうえで自由連想をすればよいのです。
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