真実と幻想と創価学会

創価学会について色々書いています。ほぼ毎週日曜更新。

祈りとして叶わざることなし?

2009-04-24 01:10:07 | 創価学会問題

聖教新聞社発行の「新会員の友のために」という小冊子が我が家にありました。2002年発行で、この頃に入会した人間などうちにはいないのに何故こんなものがあるのか不明ですが、いいネタ探しと読んでみました。

ツッコミどころは満載です☆

で、最初のほうで気になったトコロを記事にしてみます。

仏道は道理、祈りは必ず叶う!

どうして祈りが叶うのかについて考えてみましょう。

日蓮大聖人は、私たちの祈りが必ず叶うことを次のように仰せです。

「たとえ大地をさして外れることがあっても、虚空(おおぞら)をつないで結びつける人があっても、また、潮の満ち干きがなくなったとしても、太陽が西から昇ることがあったとしても、『法華経の行者』(妙法を実践する人)の祈りが叶わないことは、絶対にないのです」(御書1351ページ、趣意)

大地をさして、はずれるということはありません。また大空をつなぎ止めておくことなどできません。潮の干満は必ずあり、太陽も必ず東から昇ります。こうした真理や宇宙の法則以上の確かさで、私たちの祈りは必ず叶う、と仰せなのです。

えーと、御書での言いたいことと解説とが違っているように見えるのは私だけでしょうか?私の読解力の問題ですか?

「何があっても叶うよ」って言ってるのが御書で、その「何が」を否定して真理や宇宙の法則にこじつけている。

だいたいどうして「こうした真理や宇宙の法則以上の確かさで私たちの祈りは必ず叶う」のか、どこにも説明はない。

その後には

(中略)

「祈りとして叶わざることなし」の信心ですが、同時に「仏法は道理」です。現実の生活、仕事、また勉学などにおいて願いや目標を叶えるための努力をしないで、祈っていればいいと安易に考えるのは間違いです。努力した延長に、祈りは叶うのです。言ってみれば、祈りとは、努力し、目標を成就させていくための”エンジン”なのです。

さらに、その時は思うような結果にならない場合があったとしても、後になってみると、一番良かったという方向になっていくのが信心の功徳です。

私はこの”エンジン”という言葉に違和感を覚えました。祈り=信心ですよね。信心がなければ”エンジン”がないと言っているんですよね?

エンジンと言うからには人間=車にたとえているのでしょう。ではエンジンのない車とは?最早それは車ではありません。ということは、信心しない人間=人間ではない。って極論ですか。

私がこの”エンジン”の箇所に言葉を当てはめるなら、フロントガラスの下から出てくるクリーナー液くらいでしょうか?なくても困らない。視界が曇ったとき、助けになる。でもなくても走れる。

しかし「叶わざることなし」の祈りに求めるものは、多くの人は奇跡的なものではないのでしょうか?治らない病気を治したいとか、努力ではどうしようもないことを解決したいとか。

そんな奇跡を叶える力はないというのが、最後の文章で分かりますね。

後になったら叶わなかったことが良い道だったんだよ。って、そんなの誰にも分からないよね?そんなこと言い出したら、もっと最善の道があるかも知れないですよね。いやいや、それよりも最初の願いをちゃんと叶えてくれよ、って思わないですかね?

思わないんでしょうね~。

あと「功徳」って善行を重ねる行為かと思うんですが(功徳を積む)、「信心の功徳」っていう使い方は正しいんですか?仏法用語なので確信はないですが…。いいなら、いいですけど。

他にもよく言われる転重軽受という用語も、こじつけ臭がプンプンします。これはまた別の機会に書きますね。


11 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
クロさんへ (未活)
2010-05-24 20:38:38
クロさんへ

こんんちはー。
また来ちゃいました(笑)
以下は私の解釈ですが、参考にして頂けると幸いです。
偉そうに、すいません。

>信心がなければ”エンジン”がないと言っているんですよね?

この仏法では生命をまず、地獄界(生きている事それ自体が苦しい)から仏界(簡単にですが・・生きている事それ自体が楽しい)まで10の範疇にわけてあります(十界論)。 

この場合エンジンとは、生命力の事ですので、当然だれにでも備わっています。
でも個人差があり、家事をやるだけでも辛く耐えきれないと感じる時(生命力が弱い)と家事も仕事も楽しく乗り越えていける時(生命力が強い)との違いがあります。
縁にふれて、頭にきたり、悲しくなったり、うれしくなったり様々な性質が出てきますが、日常生活の中に、仏界(どんな苦境でも楽しく乗り越えていける生命状態)を出す縁がないのです。
この御本尊に祈ると、その仏界が顕れ、生命力が旺盛になります。
だから自分の生命力を旺盛にする為に唱題して、旺盛な生命力で目標に立ち向かいなさいと解釈できると思います。
自力本願な仏法です。
全てに等しく仏界が備わったているので、みんな本来、仏の性分を持っています。
だから、本来、皆、仏なんです。
その仏界を引き出す縁が、御本尊様となります。
御本尊様には、それぞれの十界の代表が書かれていますが、それらは自分の命の中に全て収まっています。
生命力を強くして乗り越えていく為の信心なんです。
生命は永遠で、生老病死はもともと備わっている、ただの変化です。
死んでも、また、産まれて来ます。
それぞれの因果に従って産まれて来るので当然、差別があります。
3世の生命(過去世・現世・未来世と続いている事)を悟っていない状態を衆生といい、悟った状態を仏ともいう様です。



自殺された自営業の方など見ているので、信じられないかもしれませんが、本来は、縁に振り回されない強い自分を確立する為の仏法だと思います。


長々と、偉そうに、すいません。
間違っているところがあったら、御指南ください。
>あと「功徳」って善行を重ねる行為かと思うんで... (未活)
2010-05-25 05:05:44
>あと「功徳」って善行を重ねる行為かと思うんですが(功徳を積む)、「信心の功徳」っていう使い方は正しいんですか?


日常生活の中で良いことが起こるのが功徳で、悪い事が起こるのが罰が出たというみたいです。
罰も功徳も自分が過去にやってきた事(過去に積んだ善業や悪業)が返ってきたという考え方みたいですよ。
自分が過去に原因をつくったから結果として自分に返ってくる因果の法則ですね。


クロさんの文とは関係ないのですが、宇宙との関係について戸田城聖全集第2巻に
この水(卓上の茶碗)を、大宇宙とするのです。
風邪が吹いてここに波が出来るでしょう。波の立ったそれが、われわれの生命なのです。
また、大宇宙の生命の動きの一種なのです。
だから風がなくなれば、また元通りになってしまう。
われわれは、宇宙の生命それ自体なのです。
それ自体が変化を起こしているのだ。
この水が平らかで何も動かない時には、これを九識真如というのではないですか。
大聖人の御書にも「真如の都を出て我ら流転の・・・」とかおっしゃっているでしょう。
波の立ったところが、われわれの生命でも死ねば元通りになってしまうのです。と書いてありました。

別巻には、世の中は全部変化する。
変化するのが宇宙生命の実体なのです。
その宇宙生命の実体という変化させていくその大本に変化させていくものがあるのです。
この変化させていくものを南無妙法蓮華経という。
その大宇宙の生命の根源これが南無妙法蓮華経とあると同時に、われわれの生命の本源が南無妙法蓮華経というものなのです。だそうです。 


一切は、この大本のエネルギーみたいのが変化した形という事なんでしょうかね・・・。


戸田さんは、今われわれの住んでいる次元以外にも何万次元と存在するのです。
それが宇宙の実相です。とも言っていましたね。
科学者も今は多次元あると考えているみたいですね。

すいません、また長くなりました。
大変なので返信は大丈夫です。
立て続けに、ごめんなさい。
変な時間に目が覚めたもので(笑)
■原文------------ (ねま)
2010-05-25 19:45:29
■原文------------
いかに申す事はをそきやらん。
大地はささばはづるとも、虚空をつなぐ者はありとも、
潮のみ(満)ちひ(干)ぬ事はありとも、日は西より出づるとも、
法華経の行者の祈りのかな(叶)はぬ事はあるべからず。

法華経の行者を諸の菩薩・人天・八部等、二聖・二天・十羅刹等、
千に一も来たりてまぼ(守)り給はぬ事侍らば、上は釈迦諸仏をあなづり奉り、
下は九界をたぼらかす失(とが)あり。
行者は必ず不実なりとも智慧はをろかなりとも身は不浄なりとも
戒徳は備へずとも南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給ふべし。
袋きたなしとて金(こがね)を捨つる事なかれ、

■現代語訳--------
 どうして自分の祈る事の験(しるし)のあらわれる事が遅いのであろうか。
 たとえ大地を指さして外れる事があろうとも、
虚空をつないで、結びつける者があったとしても、
大海の潮の満ち干ぬ事があろうとも、日の西より出づる事があろうとも、
法華経の行者の祈りが叶わぬことは絶対にないのである。  

 法華経の行者をば諸の菩薩や人界、天上八部 二聖 二天 十羅刹女等が
千に一つも来たって守護しない事があるならば、上は釈迦仏等の
諸仏の御前に立てた誓いを破り諸仏をあなづり奉り、
下は九界の衆生をたぼらかす罪過を犯す事になる。  

たとえ法華経の行者が真実の修行者でないにしても、智慧は愚かであっても、
身は不浄であっても、戒徳が備わっていなくとも、
ただ南無妙法蓮華経と唱える者ならば、必ず守護されるのである。  

 袋が汚いからと言って、袋の中の黄金を捨ててはならない。
■ねま訳-------- (ねま)
2010-05-25 19:51:51
■ねま訳--------
遅い、遅すぎるっ!
たとえ何があっても、わしの祈りが叶わないないてあっちゃいかん。
仏典の諸仏や神々がわしを守りにこない事は、
諸仏を舐めてやがることになる、人々を騙すことになるんだっ。

法華経の行者たるわしは、不実でも、馬鹿でも、穢れてても、徳がなくても
南無妙法蓮華経と言ってるんだから、必ず守るべきだろっ!
袋が汚いからって、金たるわしを捨てないでくれよ。
未活さんへ (クロ)
2010-05-29 14:36:04
未活さんへ

丁寧な解説、ありがとうございます。
信じる・信じないや真偽の程は別にして、未活さんの説明は分かりやすく理解できました。

この小冊子で「エンジン」と喩えられていますが、未活さんのお話からすると「ガソリン」と置き換えたほうが分かりやすいのかな?と思いました。
軽油かレギュラーかハイオクか、みたいな。
祈ることによって、質の悪いガソリンから高品質ハイオクにレベルアップさせていこう!ということですよね。

創価学会がこの小冊子で、未活さんと同じことを言いたかったのだとすると、やはりどうも「エンジン」の喩えは違和感が…(しつこいですかね)。
だって、「新会員の友ために」ですから。これを読む人が、未活さんのような解釈ができるわけがない。
私のような何も知らない素人が、勘違いする表現になっている気がします。

戸田氏の宇宙生命云々のお話は、「一は全・全は一」(byハガレン)という言葉を思い出しました。
この辺のことは、誰も証明できないことなのでそれぞれの捉え方があると思います。
見てきた人なんていないわけで、見てきたという人がいたとしてもそれを他人に証明できないですし。
「神の不在の証明」と同じで、不確定だからこそ、宗教が成り立つものなのだとも思います。
しかし宗教でいうとそれが本当だろうと嘘だろうと、実は大した問題ではない。
人を善い方向へ導くことができるか、それだけだと思います。小学校での道徳の教科書程度に役に立てば、充分だと思います。
あまり大きなことをしようとすると(標榜したり)、カルトと呼ばれるような迷惑な方向へ暴走する宗教が多いと感じています。
目的、目標が大きければその分、宗教に頼ってしまいますからね。
そうすると宗教に対して熱狂的にならざるを得ないのかと。

すべてが創価学会に当てはまるわけではありませんが、アンチになる前から漠然と私が思っていた宗教観ですので、あまり突っ込まないで頂けるとありがたいかと(笑)。
ねまさんへ (クロ)
2010-05-29 14:50:49
ねまさんへ

「ねま訳」がなければ、私の解釈が間違っているのかと思うところでした(汗)。
宗教としては当たり前っちゃ当たり前ですが、なぜにそこまで「南無妙法蓮華経」を過信できるか私には理解できません。

前から思っていたのですが、「南無妙法蓮華経」を信じる人は祈りのおかげで良いことが起こったぞー!と喜ぶ。
しかし私からすれば、祈ってから起こる良いことは全部「南無妙法蓮華経」のせいにしなければならない。残念!と思ってしまいます。
この違い、分かって頂けますでしょうかね…。


>袋が汚いからって、金たるわしを捨てないでくれよ。

ボロは着てても心は錦ってやつですか。
法華経の行者という方は、自己評価が高くないとやっていけないですね。
クロさんへ (未活)
2010-05-30 06:58:04
クロさんへ

その小冊子を全部、読んでいないのに、うかつに返信してしまい、申し訳ありませんでした。
別の解釈もできますので、解釈が違ったかもと反省しました。
どうか気になさらないでください。
失礼しました。

>この辺のことは、誰も証明できないことなのでそれぞれの捉え方があると思います

そうですね。
目に見えない事ですし、過去の記憶もないので、考え方は、それぞれですね。

>しかし宗教でいうとそれが本当だろうと嘘だろうと、実は大した問題ではない。
人を善い方向へ導くことができるか、それだけだと思います

私も、これが非常に大事なところだと思います。
戸田さんは、原水爆禁止宣言で「核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、いま
世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う」と言っていました。
まさに、思想次第で、物事は創造へも破壊へも進んで行きますね。
北朝鮮こわいです。
クロさんへ (ねま)
2010-05-30 10:44:13
クロさんへ

>なぜにそこまで「南無妙法蓮華経」を過信できるか私には理解できません。

『根拠があやふやなもの』の方が、一度信じたら疑いにくいです。

>この違い、分かって頂けますでしょうかね…。

そのニュアンスの違い、言葉で説明しづらいかな…

>>「南無妙法蓮華経」を信じる人は祈りのおかげで良いことが起こったぞー!と喜ぶ。
→権利のように感じて嬉しい

>>祈ってから起こる良いことは全部「南無妙法蓮華経」のせいにしなければならない。残念!
→義務のように感じて鬱陶しい

という印象かな。


>法華経の行者という方は、自己評価が高くないとやっていけないですね。

選民思想の感覚が必須になりますからね。
『人間は誰でも同じではなく、優れた者と劣った者がいる』
という感覚を強くもっている人の方が心を惹かれやすいようです。
未活さんへ (クロ)
2010-05-30 11:38:09
未活さんへ

>その小冊子を全部、読んでいないのに、うかつに返信してしまい、申し訳ありませんでした。

私が書いた記事の文章に対しての解釈ということですから、謝る必要はありませんよ。
それにたぶん、記事に挙げた部分で学会が言いたいことというのは、未活さんの仰っているようなことだと思います。


>北朝鮮こわいです。

私もです。朝鮮半島の情勢、気になりますね。
北朝鮮と韓国は休戦状態なだけであって、未だ戦争は終わっていないのですね。
戦争で被害をこうむるのは、結局一番弱い人たち(民衆)です。
北朝鮮はもちろん好きではありませんが、独裁国家の圧政に押し潰されている人々がさらに危険な目に遭うのかと思うと、胸が痛いです。もちろん韓国側も。
どんな形であれ、「国」という巨人同士が争ってその足元で人間の命が消えていく…そんな状況にはなって欲しくありませんね。
日本の国だって、いつ巨人の足がとんでくるか分かりませんから、他人事ではありません。
ねまさんへ (クロ)
2010-05-30 12:01:16
ねまさんへ

「祈ってから起こる良いことは全部「南無妙法蓮華経」のせいにしなければならない。残念!」
これは義務というよりも、自分の努力や周りの助け、そういったものを無意味にせねばならないので残念!という感じです。
あ、だから「義務」で合ってるのか…。

微妙なニュアンスで、文章にすると分かりにくいですね。スイマセン。


>『人間は誰でも同じではなく、優れた者と劣った者がいる』
>という感覚を強くもっている人の方が心を惹かれやすいようです。

その中でも、「優れた者」に強い憧れを持っている方、ですね。
多かれ少なかれ、宗教全般に言えるかもしれませんが、現世利益を謳う創価学会ならではの強い特徴かもしれませんね。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。