真実と幻想と創価学会

創価学会について色々書いています。ほぼ毎週日曜更新。

謹賀新年 2019

2019-01-02 20:57:37 | 我が家の創価問題

皆さま、明けましておめでとうございます!

久しぶりすぎて何をどうすればいいのやら・・・。

この冬、一つ確かに言えることは「コタツはやはり魔物だった」ということだけですw

えー、前回の更新から間が空きすぎているのですが、その間にあった大きな出来事と言えばうちの母親がまた骨折して入院したことでしょうかね。

もう片手で数えられないような回数の出来事ですが、酔っ払って自宅で転倒したわけでして。

手術も無事に済んで今は退院してリハビリに励んでいるようです。

外でよそ様に迷惑をかけたわけではないだけ今回はマシでしょうか。

もうあれですね。驚きや呆れる気持ちすら沸かないという。だって別にあれですもんね。前にそうして酔って骨折してから酒を控えるとかしてたわけじゃないですからね。いつかはやるし、いつでもやるわけで。

で、私は弟から母親がそうして入院したと連絡を受けたのですが、そうした時に本気で思っているわけではないのですがふっと頭に浮かぶ台詞がありました。「信心が足らないにも程がある」と。

重ねて言いますが本気でそのようなことを思っているわけではありませんし、もちろん口に出しても言いませんよ。

でも皮肉のように、ふっと思い浮かんでしまうんですよねー。

しかしそう考えた後、これまたふっと思ったんですよね。「いや、信心が足らないかどうかは分からないんじゃ?」と。

つまり信心は足りているが、怪我をした。

これは学会的に考えると、信心をしているから本来もっと酷い怪我をするはずだったがこの程度(骨折)で済んだ。或いは、一見不幸な出来事だが骨折&入院することでより大きな幸福を今後手に入れられる。というような可能性が在るという理論でしょうか。

そう思い至ったとき、今更ですが頭を抱えるような気持ちでしたね。

そうだった~!と。

どのような場面に遭遇しようと、全ての(都合のいい)答えが用意されている。それが創価学会だった、と。

・信心が足らずに怪我をした→信心頑張ろう!

・信心していたのでこの程度で済んだ→これからも信心頑張ろう!

・信心していたのでもっと大きな幸せが来る→引き続き信心頑張ろう!

となるわけですよね~。知ってたw

親戚にちょっと厄介な学会員さんがいる友人と話していたのですが、どうして(私の母親やその親戚のような)学会員さんは同じ失敗を繰り返すのか、と友人が本気で疑問に思っていたのです。

で、私は「そりゃあ原因の根本を反省しないからじゃない?」と答えました。

友人は「え?何で反省しないの?」と普通に分からないようだったので私は考えるよりも早く「思想教育の賜物」と口をついて出ましたねw

「あ~(納得)」と友人はそれだけで分かってくれました。さすが。

でも母親のこの怪我の件からも明らかですよね。母親は病院の主治医の先生に「もう次はありませんよ!」と叱られたそうです。

母親はそれに対して「私も好きで転んだわけじゃないわ!」とほざいていました。

そりゃあそうでしょうが、お医者さんが言っているのはそんなことではありません。「自分の体をコントロールできなくなるまで酔っ払うな」という当たり前のことです。

母親にとっては、その根本が見えません。

それは創価学会の用意した答えの中にはないものだからです。ですから何度でも同じ失敗を繰り返すのです。一事が万事この調子。

学会員ではない人でも、酒癖の悪い人、お酒好きなために失敗を重ねる人というのはいるでしょう。

母親もその要因を持っているのでしょうが、まあそういう人はたぶん飲酒による失敗というリスクよりも酒を飲みたいという自分の欲望が勝ってしまうのだと思います。私は一切飲まないので想像ですけど。

でもそこに原因が在ると自覚していれば、私の母親のように責任を他に擦り付けたりはしません。

間違ってもお医者さんに反論などしないでしょう。飲み過ぎた自分の責任だと思っていれば。

こうして思考を紐解いていけばいくほど絶望的になるという、創価学会に関わった者の悲劇が昨年のブログ休止の間にあった思い出ですかね~。まあほんと、今更ですが。

お休みしている間にシニフィエさんの「対話を求めて」では800万アクセスを達成しているし!おめでとうございます!!

ブログの更新もたまに思い出してはこんなこと書こう、あんなこと書こうと頭の中では文章を考えるのですが、一旦不定期更新にしてしまうとなかなか実行できず・・・。

また次の更新がいつになるかはお約束できませんが、私もにゃんこらも元気に過ごしている証拠ですので気長に気軽にお付き合いくださいませ。

あまり明るい話題ではありませんでしたが、こんな感じの新年一発目ですw

皆さまにとって2019年が笑顔の溢れる幸多き一年でありますように。

本年もよろしくお願いいたします。


女子部のお姉さんの妹

2015-07-12 21:57:44 | 我が家の創価問題

創価学会のことをブログに記すようになり、そういえばあの人は今頃どうしているんだろうな~?とたまに思い出すことがあります。

私が高校生の頃、家庭訪問に来ていた女子部の人もその一人。

あれですかね、家庭訪問に来るのって女子部の部長さんって決まっているのかな?

度々言っていますが私はまっっっったく学会のことに興味がなかったもので、家庭訪問に来る人のことも名前すら覚えていないという有様でして、ましてや役職など存じ上げるわけもなく。

まあ、その頃家庭訪問に来ていた女性がいたわけです。20代前半でしょうかね。大人しそうで、割とキレイな方だったので余計なお世話ですが「もったいないな~」と思っていました。

で、何回来てもらっても私が靡かないのは分かっているはずなのに、それでも月に2~3回くらいは来る。今ならそれ(家庭訪問)がほぼ義務化されているからと理解できますが、当時はそんな学会側の事情も知らず。

とても大人しそうな人だったので、思わず言ってしまったんですよね。

「何回誘ってもらっても(座談会や会合に)行く気はないから、来てもらっても無駄ですよ・・・」って。

毎回断るのも可哀相になるような雰囲気で申し訳ないという気持ちと、この人なら言えば引いてくれるんじゃないかという今なら甘すぎるとも思える勘違いもあってのことでした。

そうしたらその女子部の人、いつになく頑なな雰囲気になって「私、今クロさんのこと困らせてるんよね。私の妹も(信仰について)迷っててそれと同じやと思うねんけど・・・」と言い出し。

あれ?私のことちょっとでも信心してると思ってるの?と、そこで認識の食い違いに違和感を覚えました。

私が「いや、妹さんとは違うと思うんですけど・・・」と言っても何故かそのお姉さんは私を妹さんと同じとしてしか話してこなくて。妹さんは子供の頃は一緒に信心してたそうですが、中学生くらいから学会からは遠ざかるようになったとかで。

お姉さんは「困らせてごめんね」と言いつつ、こっちの言い分を理解しようとしてくれなくてなんだか「あれ?思ってた(大人しそう・言えば引く)感じと違う・・・?」と、私の方が押してはいけないスイッチを押してしまった気分になって焦ってしまいましたw

私としては生まれてこの方、創価学会に傾倒したことはなく信心も活動も拒否反応しかありません。もちろんアンチ情報を知る以前からです。ただただ、母親が学会員であるためにそのような家庭訪問があるのだとしか思っていませんでした。

玄関先でお誘いを受け、それを断る。一種のパターン化した儀式を済ませるだけ、というのが私と弟たちへの家庭訪問でした。本人たちに学会員である自覚すらないのです。

それは向こうも当然承知の上で家庭訪問に来ているのだと思っていたのですが、どうやら学会に縁した人間が信心しないことがあるなんて有り得ない、といった感じの女子部のお姉さんの反応。

こちらもこちらで、向こうの認識を完全に誤解していたようです。

お姉さんはそれからもコンスタントに、まるで何事もなかったかのようにこちらが引っ越すまで家庭訪問に来ていました。

私は内心、妹ガンバレ!と思わずにはいられませんでしたw

ふと思い出す、あのお姉さん。妹さんを含め、今頃どうされているのか。

押してはいけないスイッチを押すまでは本当にごく普通の会話のやり取りができる人だったのに、あの大人しそうでお綺麗な様子ならきっと男性にもモテたであろうに、なんとも「もったいない」と今になっても思います。

いわゆる「創価スイッチ」と呼ばれるような激しいものではありませんでしたが、本当に乗り越えられない壁を感じた出来事でした。


海の日ですな

2014-07-21 15:49:33 | 我が家の創価問題

先週の金曜は通勤時に、前を通りかかった小学校で終業式をしておりました。

あっ、夏休みか!と思うと激しく羨ましい・・・。

宿題があってもいい。だって当時(小学生時)から、毎日会社で働くより宿題があっても学生の方がいいと思っていたから!

そういえば何年後かは忘れましたが「山の日」という祝日が8月にできるらしいですね。

そのうち「川の日」もできるんでしょうかw

休みは何日あってもいい!何なら「池の日」でもいいですw

と、雑談から入りましたが、実は前回の記事である「信心は親孝行にはならない」はちょっと不満というか、反省なんですよね~。

自分の書きたいことをダーッと書いて自己満足で終ってしまったんですが(←これはいつものこと^^;)、後々読み返すとこれはまずかったかな、と。

もし普通に前回記事をバリ活さんが読んだら、「やっぱり子供のうちから信心教育するのが大事なんだ!」「信心していることを褒めてやればいいのか!」って思ってしまいそうだな、って・・・。

いや、バリ活さんがこのブログを読んでる割合なんて、たかが知れたものでしょうけれどね。

それを抜きにしても、いつもの常連の方でも「何を言いたいのか分からない」ような文章になっている気がして、不満なのです。でも書き直さないw

皆さんうちの母親の事なんかほとんど知らないのに、これで私のイメージが伝わっているのかいな?みたいな感じです。

本当はタイトルにした「信心は親孝行にはならない」という言葉が、そのまま言いたいことでした。

私の母親はちょっと残念な人間で、毎晩正体なくすまでビールを飲み家の中は散らかしたまま、経済的に苦しいのにビールの1本、タバコの1本を節約することもなく子供に「今月〇万貸して」と毎月言ってくる始末(実家を出た現在はありません)。

公共料金の滞納は限度いっぱいで、毎月支払日直前に「〇日までにお支払い頂かないと〇日から停止します」と警告の紙がポストに入れられ、実際に停止したことも珍しくなくw

子供から見れば到底友達に見られたくないような母親なんですね。

いいところがあるとすれば、パートで働いているのですが、仕事は真面目にやっているようです。あと、ギャンブルとかはやらないのは救いかな。

私の祖母から見ても情けないと思うのは同じだったようで、その節制のできない生活態度や(祖母に)金の無心ばかりする有様を叱ってばかりでした。

ということで、祖母から信心を受け継いでいても立派な人間にはならなかった。親孝行は信心ではできませんでした~!

ということを言いたかったのです。

ちなみに私の祖母の子育ては母親(クロ母)曰く「放任主義」。女手一つで息子と娘を養い、男性を寄せ付けない営業成績トップを独走する働き者だったようです。何でもボーナスは封筒を縦に置いて自立するほどだったとか。そのためか家庭内のことは、あまり手を掛けられなかった模様。(注:家事は物凄くしっかりしてました)

思えば母親(クロ母)も母の愛情に飢えていたのかもしれません。だから創価に走ったんだな・・・たぶん。

信心を受け継ぐとかよりもまず、人間としてしっかりと地に足をつけ、周りに迷惑をかけない生き方ができなけばなりません。

そのためには幼少期からしっかりと一人の人間として向き合い、無条件の無償の愛情を注いで、健全で親密な人間関係を築くことが大事なのではと思います。(子供もいないのに偉そうにスイマセン)

そしてそのことを実践するには、学会活動は障害でしかなく、活動を頑張ればその他のことが上手くいくなどということはあり得ません。あるように見えてもそれは仮初めの幻想に過ぎないか、知らないところで誰かが迷惑を被りながらフォローしてくれているのです。

もしも自分の子供に「しっかりとした人間になってもらいたい。それは信心を通じてだ!」という方がいたしとして、その最短最適なルートはやはり学会活動を抜きにするか押さえて、まず普通に愛情と手間をかけて子供を育てることに他ならないと思います。

そうしてこそ親に対して尊敬の念も抱き、素直に感謝もでき、そういう親が信仰している宗教だから自分もと自然となるでしょう。

仮に信心を受け継ぐという意識があるとして、これこそが「受け継ぐ」と呼べるものなのではと思います。自発的に受け入れられなければ、意味などないでしょう。

もしそれで子供が学会には見向きしなかったとしても、少なくとも子育てとしては充分にできるのですから。それに仏法に縁付いただけでもOKという考えなんだからいいでしょう。

またちょっと逸れ気味になってしまいましたが、皆さんの読解力に頼りますw

子供にとっては信仰者としてよりまず親であるべきです。

創価学会は色々家族関係のことにも信仰を絡めて美辞麗句を並べますが、創価学会が存在するはるか昔からこの日本には「普通の親子」でとても幸せに円満な家庭を築いている人が大半なのです。

その「普通」ができなくなってしまうなら、その信仰(というより活動)に意味はなく、むしろ障害と呼べるでしょう。

「普通」の中には悪いことも勿論含まれます。それもあって、幸せなのです。その「普通」の幸せを受け入れる勇気を持ちましょう。

・・・みたいなことが言いたかったのです。でもやはり、言いたいことばかりダーッと書いてまとまりがありませんね。いつものことですが^^;

3連休最後のお休みです。熱中症や水の事故などに気をつけて、残り数時間エンジョイしてくださいね。


信心は親孝行にはならない

2014-07-13 23:21:14 | 我が家の創価問題

私の母親は現役創価学会員です。

母親は自身が中学生の時に、祖母と一緒に学会に入会しました。

祖母は私達姉弟たちから見れば優しいお祖母ちゃんでしたが、母親から見ると厳しい母だったらしいです。

しかし少なくとも、私の記憶にある限り祖母は特別自分の子供(クロ母)に厳格だったわけではなく、当たり前のことを言っていた気がします。その当たり前が出来ない母親からすると厳しく感じていたのでは?と思うのですが、生まれる前のことは分からないですから何とも言えませんが。

祥蘭さんのブログで、学会を通しての親子関係などに深く触れられているのを拝見して、ふと思ったことがあります。

そういえば祖母が学会のことで、母親を褒めているのを見たことがないな、と。

祖母は生涯学会員でした。私が学会のことを知る前に他界してしまったので、学会のことについて深く話したことはありません。けれど祖母は、私達姉弟が信心しないのを咎めたり残念に思ったりはしていませんでした。少なくとも私達にそれと分かるような言動はありませんでした。

母親はその昔、私に向かって言ったことがあります。

「わたしの信心を受け継ぐのはアンタしかおらへん」と・・・。私は「ハァ?信心って受け継ぐもんなんw」と取り合いませんでしたが、その理論で行くと祖母の信心は母親がちゃんと受け継いだことになるわけです。

学会的に言うと、母親は信心をちゃんと受け継いだ親孝行娘ということになります。

しかし私は祖母の口から一度も聞いたことがありません。「信心を受け継いでくれて立派だ」とか「信心してるアンタは偉い」とかそういった類の言葉を母親に言っているのを。

逆に私達孫には、「しっかりしてて偉い」とか「優しい子やなぁ」とか、褒めて認めてくれる言葉ばかりでした。

極めつけは、私が大学生の時に印象深いことを言ってくれました。

「あの子(クロ母)は心配掛けてばっかりで、親不孝なことしかしてけぇへんかったけど、三人の孫を私にくれたことだけは親孝行やった」と。

祖母の中では間違いなく、信心してるかどうかより、孫を産んでくれたことの方を喜んで認めていてくれていたのです。その孫達の誰一人信心していないにも関わらず。

私は祖母との間で学会の問題を感じたことがほぼないので、学会問題を考えるときに祖母の影響のことはハナから除外していたのですが、もしかしたらありのままの私達姉弟を認めていてくれたからこそ、意識に引っかからなかっただけなのかと。

もしも祖母が、母親(クロ母)のことを信心しているという一点でもって褒めたてていれば、私達孫も褒められたいとか、褒められないことに疎外感を受けたりして、信心しようかという気になっていたかもしれません。

しかし祖母は、最期の時までずっと、母親(クロ母)に対してまともな人間であることを、平たく言うと「しっかり生活しろ」というようなことを言っていました。

信心さえしていれば守られるとか、孫達に信心させろとか、そういったことは一切今までありませんでしたし、信心しているから母親(クロ母)は大丈夫だと思っている素振りもありませんでした。

この一貫した祖母の態度は、具体的な言葉として伝えられたことはなくとも、私達孫の中で「信心しないでもいい」という当たり前のことを示してくれていたのだと気づきました。

祖母は母親(クロ母)のことを心配して、叱ったり、小言を言ったりということばかりでしたが、信心していない私達孫のことはよく褒めてくれて「あの子(クロ母)から産まれたとは思えん」と言うくらいでした。

信心の有無はそこには関係なかった。

だからこそ、今の私達姉弟がある。

そう思えてなりません。今更ながら、そのことに思い至りました。

「ありの~ままの~♪」という歌が流行っていますが、信心など関係なくそのままの自分を認めてもらえるということは、とても大きなことです。

今現在も、信心の有無でしか自分の子供を認められなかったり褒められないという、盲信的な学会員さんはいることでしょう。

それはとても悲しいことです。子供時代に無条件で受け入れられる喜びや安心感こそが、その後の人格形成を左右するといっても過言ではないでしょう。

信心する・しないは、せめてその後のことでいいじゃないですか。

そうできないほど焦る必要が創価学会にはあるということでしょうか。

学会が素晴らしいということの証明にもなることです。子供を生後間もなく入会などさせず、どーんと構えていて子供自身に選ばせて欲しいと思います。


ライバルは聖教新聞

2012-03-18 23:24:53 | 我が家の創価問題

私が小学2、3年生くらいの時です。

何が原因かは忘れましたが母親とケンカになりまして、激しい言い合いになりました。そこで私はあまりの腹立たしさに、手近にあった聖教新聞をビリビリに破いてやったのです。

その時、聖教新聞と共に一般紙も置いてありました(我が家は昔から二紙取っていた)。

私は新聞に手を伸ばすその一瞬で様々なことを考えました。

聖教新聞を破けば母親は更に怒るだろうことは息をするより簡単に想像できます。しかしその時まさに母親とケンカしている私は、敢えてその母親が嫌がるだろうことを選択しました(注:当時私はアンチですらなく学会の何たるかも知らなかった)。

そして同時に母親を試す気持ちがありました。

ここで一般紙に手を出した場合の反応と同様(と思われる)の反応を見せることができれば、まだ母親は母として子どもに対して公平な心で接しているのだという確認です。

結果、母親は半狂乱のように激怒して私に数回平手打ちを喰らわせました。

私は想像通りとはいえ、こうなってほしくなかったという母親の態度に腹立ちMAX。

私「なんで叩かれなアカンねん!」

母親「モノにあたるからや!」

私「違う!母さんは聖教新聞やから怒ったんや!こっちの新聞(一般紙)やったらそこまで怒らんかったやろうが!!」

私がそう言い放つと母親は怒った表情のまま押し黙りました。

それが図星・肯定の証です。

「違う、普通の新聞でも同じだ」と母親は言えませんでした。

もちろんその時の感覚では、一般紙を破いた時半狂乱のように母親が怒り狂うなんて想像できません。明らかに「聖教新聞だから」母親は怒ったのです。

けれど私の指摘を「そうだ、その通りだ」と認めることも、さすがにできなかったようです。

それをすれば、自分の子供よりも聖教新聞を大事にしていると子供に突きつけることになり、さすがに人間的にそれはすべきでないと察したのでしょう。

当時の私は理屈よりも感覚でそのことが分かって、怒りと悲しみと聖教新聞に対する嫉妬で泣き喚きました。

もうそれはそれは、長い間泣き喚きました。

途中から意地になって泣き続け、泣き疲れて眠るまで泣きました。

その頃からハッキリと私の中では、学会関連のものに嫉妬や苛立ちや腹立たしさというものを感じ始め、意識的に遠ざけるようになりました。

昔から聖教新聞は私にとって不愉快な存在でしかないのです。実家を出る原因もマイ聖教でしたしね。

しかし今になって思えば、母親も可哀相なものです。

聖教新聞なんていうたかだか機関紙によって、小学生の子供に母親の愛を疑われ信頼を失墜させられるとは。

そんなもののために失っていいものではないでしょうに。

聖教新聞は学会の機関紙で学会員さんには半強制的に購読が求められ、地区ごとに(目標という名の)ノルマさえあります。

けれど私のこの体験を見て分かるように、学会員さん一人ひとりの自己責任です。

母親は自分の行動の責任は自分でとらなければならないのです。母親の信頼を損なう身代わりを学会はしてはくれないのですから。

聖教新聞だけではありません。学会が推奨・奨励する様々なことは、自己責任としていずれその身に降りかかってくることでしょう。

学会員さんはそのことをよくよく考え、活動してもらいたいものです。

たかだか機関紙が、一つの親子の信頼関係をズタボロにしたという事実。こんなことはどの家庭にも繰り返してほしくはありません。