真実と幻想と創価学会

創価学会について色々書いています。ほぼ毎週日曜更新。

マインドコントロールとは何か より「認知的不協和の理論」その4

2014-06-29 21:39:34 | 認知的不協和の理論
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第5章 「人間が変わること」の理解のための社会心理学研究 より

不協和の低減の仕方・2

マインドコントロールとは何か より「認知的不協和の理論」その4

 そして第三の仕方が、新しい認知要素を付加するというものである。このやり方についても、例をあげてみよう。ある人が、タバコを吸うことが健康を害するということに関連するある認知と、自分がタバコを吸いつづけているという行動に関する認知とのあいだに不協和が起こった場合、人は不協和を低減させるような新しい情報を積極的に探し求め、それと同時に、既存の不協和を増大させるような新しい情報を回避しようとする。その結果、タバコが健康に有害であるという見解に批判的な情報を探しだすことによって、不協和を低減するのである。

~中略~

 破壊的カルトは、この第三の理屈でもって、予言が外れたり、約束反故の事態になったときの急場をのりきることが多い。たとえば、「われわれの祈りが神に通じた」あるいは、「自分たちメンバーの努力が足りないところに約束反故の原因がある」などの説明を新たに付加するのである。

第三の理屈、ズバリ「信心が足りない」という常套句が当てはまりますね。

常套句、ですよねぇ・・・。

うちの母親の口からも聞いたことがありますよ。この台詞。

私からしたら「信心が足りない」ということの因果関係を見せてみろ、というところなのですが。

あるいは「信心で何もかも上手く行ったら苦労せんわ!」とかね。

私などがそう言ってみてもバリ活さんからしたら、信心してもみないでいい加減なことばかり言うなって感じかもしれませんね。

でもたとえ何十年に及ぶバリ活経験がある方がそういうこと言ったって、その時は「信心があったから今まで守られてたのにウンタラカンタラ・・・」とか「途中で辞めたら今まで積んだ福運を消してしまうからホニャラララ・・・」とか、結局認めない。

「信心が足りない」。では「足りる・足りない」のボーダーラインは誰が決めるのか。

信心している本人以外に決められる人はいません。(信心の効果の有無は置いといて)

でも本人が自分で「ああ、失敗したのは信心が足りなかったからだ」と言っていると思うでしょう。自発的にそう考えてより信心に精を出すものだと。

では、学会の中で、他の学会員さんに向かって「(あなたの)信心が足りなかったのだ」と言ったことがない、他の人がそう言われているのを聞いたことがない、という人が果たしているでしょうか。

そしてその雰囲気の中で、学会の都合の良いように「信心が足りないから」と自発的に解釈することが否定的に感じられることはあり得ません。

学会の巧妙なところは、決して明言しないことです。匂わせ、空気を醸成し、あたかもそれが正しいと思わせるところにあります。

何故明言しないか?責任を取らないためです。

学会の報告書の確認印を押す欄には空白の欄が一番上に一つあります。それは池田氏が確認したという空白の印であり、池田氏に責任が及ばないようにするための「無印」なのです。

責任を取らないということにおいて、このトップに勝てる人はそうそういないことでしょう。

その体質が組織全体にも蔓延していたとして、何の不思議がありましょうか。

※リンク追加のお知らせ※

学会3世のしゅうえいさんが綴る「普通の日々って素晴らしい」というブログをリンクに追加させて頂きました。

白ゆり長になり疑問が噴出し、非活への道を歩むまでの様子やお母様との学会を挟んでのやり取りなど、ご自身の言葉で綴っておられます。

こういった元活動家の方のブログはとても説得力があり、現在学会に在籍しながらも疑問をお持ちの学会員さんたちにとってはとても貴重な情報であると思います。

どうぞ皆様もご覧になってみてくださいね。


マインドコントロールとは何か より「認知的不協和の理論」その3

2014-06-22 21:11:40 | 認知的不協和の理論
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第5章 「人間が変わること」の理解のための社会心理学研究 より

不協和の低減の仕方・1

マインドコントロールとは何か より「認知的不協和の理論」その

 フェスティンガーによれば、不協和の低減の仕方にも、いくつかあるとしている。それには、大きく三つの種類があると述べている。
 まず第一には、行動に関する認知要素を変えるというやり方である。わかりやすい例をいえば、ある人が予知された災難を信じて家を出なかったのに、何も起きなかった。それで考え直し、計画を変更して仕事などに出かけた。あるいは、タバコが健康によくないことをテレビや本などで知った人が、その後、タバコをやめてしまった。つまり、あることを知ったことで行動を変える。こうしたことが、この例に入るだろう。

~中略~

しかし、人の不協和低減は、なかなかこのように単純明快にはいかないのが常である。いま述べた第一の方法と異なり、以下のような第二、第三の仕方がある。
 その第二は、
環境に関する認知要素を変えるという仕方である。この仕方を用いた不協和の低減の例を「イソップ童話」からあげてみよう。あるキツネは、とある場所でよく熟れておいしそうなブドウがなっているのに気がついた。しかし、その位置が高いところにあるので、なんどジャンプを試みても届かなかった。最後にそのキツネは、「あのブドウはすっぱいのさ」といって立ち去った。つまり、「うまそうなブドウ」を「すっぱいブドウ」へというように、環境に関する認知を変えて不協和を解消したということになるのである。あるいは、ある災難の予言を信じて家に避難していた人が、その予言は正しくなかったと信じなおすこともこれにあたるだろう。
 われわれからみると、ある宗教を装った破壊的カルトの予言が明らかにはずれているように見えても、内部のメンバーは、予言は的中してはずれたことがないと主張することが多い。その理由は、彼らはわれわれが認めないようなささいな事件を、予言にあったことと解釈するからである。特に、その予言が期日や規模などにおいてあいまいな表現でなされているときには、こうしたやり方での不協和の低減が簡単に起こるだろう。

先週は記事の更新をお休みしたので、皆さまお久しぶりです。

今回紹介したイソップ童話を例にした認知的不協和の理論は少し前に木花さんのブログでも取り上げられていまして、「あっ、先越されたな~!」なんて思っておりましたw

この第二の解消法である「環境に関する認知要素の変化」は、学会員さんでも多用されているのではないかと思います。

他宗(特に宗門)や無宗教の人が幸福に暮らしていても、「それは相対的幸福でウンタラカンタラ・・・」「過去世の業を断ち切れるのは学会だけだからホニャラララ・・・」みたいなー。スイマセン、実際に使ったことない台詞なんで文言が適切かどうかはちょっと温かい心で受け止めて下さいw

とにかく学会による幸福以外は「本当の幸福ではない」とするのは、この典型例だと思います。

あと異常に(学会にとって)ポジティブに考えることもそうでしょうかね。コメント欄であったお話ですが、希望していた進学ができずに就職となったところ、残業がなく会館に近い勤務地で「これが私の宿命だったのだ!」とか・・・。

さすがに・・・その発想は私にはなかった・・・。斜め上を行かれた気分ですw

また、些細なことや「えっ、それって特別な幸福(幸運)にカウントされんの?」というようなことを功徳・福運として「やっぱり信心の賜物だ」とすることもありますね。

私達から見ればその幸福(幸運)のために支払ったコスト(学会活動や財務)のほうが遥かに膨大で、それが見返りだとしたらデメリットの方がデケーよ!という感じですが、学会員さんたちにとっては見返りの大きさより「見返りがあったという事実」が何より重大なメリットとなっているように見受けられます。

「見返りがあったという事実」=環境の変化、なんですね。

あと、悪いことが起きた場合に「転重軽受」として「本当はもっと悪いことが起きるはずだった」とするのも同じことでしょうかね。

人間はこうした不協和を本能で回避する、低減することをしてしまいます。誰だって心の中に矛盾を抱えて生きていたくはないですからね。

それを都合よく利用するのがカルトのマインド・コントロールというわけです。

さて皆さん、ひっそりとリンク先にブログを追加したりしております。控えめなコメントを頂いたので「リンク先追加のお知らせ」の記事をアップしなかったのですが、たまに知らせずリンク先を追加していることもあるので、気になる方はたまにチェックしてみてくださいね。

では今週もお読みくださり、ありがとうございました。


ブログ紹介と前回記事の補足

2014-06-08 22:09:18 | 創価学会問題

えー、今週も時間が取れず、簡単な更新とさせて頂きます。更に言えば、来週も時間が取れない予定・・・。用事がある時って重なりますよねw

まずはアンチブログのご紹介。以前カノンさんにコメント欄で教えていただいた、学会3世の方のブログです。

河畑小造さんの「創価3世本音ブログ」です。

非活3世の男子部員さんで、ちょっと荒っぽい口調が痛快なクセになる文章です。

一つ一つの記事はそんなに文章量が多くないので、サクサク読めますよ。

「創価3世本音ブログ」はブログランキングに参加されています。ポチっと1クリックで応援しましょう。

もう一つはこの「創価3世本音ブログ」にリンクされていたポチさんの「客観的に創価学会を見つめる」というブログです。

こちらのブログは更新が2013年3月で止まっていて記事数もそんなに多くないので、すぐ全記事を読むことができます。

記事を書かれていた方はアメリカに在住経験のある女子部の方で、いわゆる内部アンチ。

タイトルの通り客観的な視点の文章で説得力があり、またご自身の経験談(内容がちょっとだけなのが惜しい)がとても興味深いブログとなっています。

今からでもいいので、更新再開を願わずにはおれない秀逸なブログです。

上記2つのブログは、リンクに追加させて頂きますので、どうぞ皆様もご覧になってみてください。

そして最近ブログ更新が活発なブログを改めてご紹介。

ご存知、希望さんこと高倉先生の「白バラ通信 パンドラの箱」のブログでは池田大作名誉会長り証人尋問を求めるキャンペーンが記事にされています。

「創価学会池田カルト一派との裁判シリーズ そり134」(白バラ通信 パンドラの箱)

この裁判シリーズは目が離せない展開です。こちらもブログランキングに参加されていますので、1クリックで応援を。

そしてこちらもご存知、時空無限さんの「創価学会批評ブログ」です。

私はもう最近はバリ活さんのブログなどはほとんど読んでいないのですが、時空無限さんはちゃんとチェック、分析されていて凄いなあと毎回感じています。

確かに、現役で学会活動をされている方たちの考え方を知ることは大事ですからね。しかし、学会や池田氏を心酔するあまり、一般的には全く理解を得られない(どころかドン引きされる)内容になっているのは、バリ活さんたちからすれば納得できることなのか?

まあ、このアンチブログもそうなんですが、一般の人がわざわざ読みに来るようなカテゴリではないからいいのか?w

「創価学会批評ブログ」もブログランキングに参加されていますので、ポチっと応援しましょう。

さて、前回「アンチになって認知的不協和」という記事を書かせて頂きました。

創価学会では脱会(退転)すると悪いことが起きる(地獄に落ちる的な)と言ったり、今ある幸せは学会活動の功徳のお陰と言って、暗に非活=不幸として、いわゆる「罰論」で学会員さんの信仰心を縛っています。

これはアンチになってから起きる認知的不協和の認知要素に、重大な重みを加えることになるんですよね。

先の記事に書きましたように、認知要素の重要度が高ければ高いほど、不協和も大きなものとなります。

大きな不協和となれば、そこから逃れたいという欲求も当然大きくなり、拙速な解決方法=学会に戻るということも引き起こしかねないでしょう。

「罰論」はアンチにならないようにする教えでもありますが、アンチになった人にも絶大な効果を発する、ともすれば後者の方が真の狙いであるかのような教えにも思えます。

学会ではその精神的ストレスであり不協和から逃れる方法は唯一、学会活動だけだとしますが、無論そんなことはありません。

創価学会と決別すること。これは信心深く、活動を熱心にされていた方には時間も精神力も要しますが、これだけでも学会が「唯一の方法」と言っていることがまやかしであるという明らかな事実です。

来週も簡単更新になるかと思います。梅雨時ですが、皆さま体調に気をつけて元気にお過ごしください。


アンチになって認知的不協和

2014-06-01 22:36:20 | 創価学会問題

今週もちょっと忙しく、簡単更新です。

一連の認知的不協和の記事を書いていて、ふと思ったことがありました。

この認知的不協和は、元活動家でアンチになった人にも当てはまることが多いぞ、と。

改めて言っておきますが、この「認知的不協和の理論」というのは善悪では悪だとか、これ自体がマインド・コントロールということではなく、誰にも備わっている単なる心理作用でしかありません。

その心理作用を利用して都合のいい方に誘導するのが、マインド・コントロールの手法であるということです。

で、熱心な学会員さんが何かのきっかけで覚醒し、アンチとなった場合にも強烈な不協和を生じているのではと思います。

私のような元から信じていない、信仰も人間関係も学会に持ち合わせていない人間は別として、元活動家であったり、信心をマジメにやってきた方々が覚醒した場合・・・。

それが目の醒める様な本当の覚醒であった場合は尚更ですが、長年心の中に矛盾を感じていたような方でも、いざ「学会はおかしい」という確信に至った場合、確信の裏側でまだ学会を100%見限れていない自分を感じられる方が多いかと思います。

そりゃそうですよね。手のひらを返すとは言いますが、そんなに簡単に完全にひっくり返せるような人はいないと思います。

そうした状況下、心の中では大きな不協和が生じています。前回書いた記事にもありましたように、認知要素がその人の中で重要であればあるほど、不協和は大きいのです。まじめな人ほど悩む、ということですね。

学会の悪い部分に確信を得ていても、それでもやっばり信じ切れない気持ちが最初はあることでしょう。この相反する二つの認知要素によって、そしてその気持ちが大きければ大きいほど強烈な不協和となって、覚醒した人を襲うのだと思います。

よくネット上で、アンチになって学会批判の書籍やブログを読み漁ったという人や、ブログのコメント欄で他の同じような気持ちの人の書き込みを読み漁ったという人は多いです。

これはその不協和を解消するための行動の一つなのだと、思い至りました。「認知的不協和の理論 その1」で書いた、人間は自分自身の内部に矛盾がないように努力する、ということではないかと思います。

そして「認知的不協和の理論と転重軽受」の記事に書いたように、自分の選択が間違いではない理由を探すのです。

アンチブログのコメント欄で、他の人の書き込みに共感して自分の心が軽くなった、救われた、という話はよく目にします。私自身も、その気持ちはとてもよく分かります。

何故心が軽くなったのか。それは自分の中の不協和が解消されていくから、だったのかもしれませんね。

大事なことなので繰り返し言いますが、それが悪いことではありませんからね。

では、認知的不協和になったアンチの人は、ずっとそうして不協和を解消するために学会批判を探し続けるのでしょうか?

これもこのブログをご覧のような方ならばお分かりの通り、皆アンチを卒業していくのですね。

学会に対して整理しきれていなかった心が、時間と共に、多くの情報に触れるにつれ、創価学会に対して「不協和」を起こすことなく「これが学会なのだ」と納得して見ることができるようになるのでしょう。

無論、学会に対する思いや考えは個人差がありますので一概には言えませんが、私が見てきた学会アンチブログ界の中ではそのような人が多いかと思います。

アンチを卒業する、と言ってもそれは学会に対する認識を良いものに改めるという意味ではなく、学会とは関係のない自分の人生を歩んでいく、ということだと思います。

例えば身近なご家族がまだバリ活とか、会社関係などでバリ活さんとは付き合い続けなければいけないとか、なかなか学会と縁の切れぬこともあることでしょう。

それでも確実に、認知要素の重要度としては下がっていくでしょうし、そうなれば不協和も軽くなっていきます。

何よりそうなって自分の自分による自分だけの人生を歩んでいくことこそ、アンチにとっての幸せの花道なのです。

アンチは卒業してこそ、アンチとして完成するのではないでしょうか。

え?このアンチブログを5年も続けてるクロはどうなんだって?

私ってだから元々、学会に対して認知的不協和を(たぶん)起こしてないからなぁ~w

まあそれでも、いつかネタ切れするか学会が先に崩壊するか、何らかの理由でブログ自体は卒業する日も来るでしょう。

でも母親とのことって、解決する日が果たして来るのやら・・・。