『破れ星、流れた』 倉本聰
「北の国から」「優しい時間」「風のガーデン」など、最近では「やすらぎの郷」…と言わずと知れた脚本家の倉本聰さん。われらも尊敬する大、大、大先生だ。
脚本家は当然エッセイもすばらしいのだが(山田太一しかり、向田邦子しかり)、この自伝は予想以上にすばらしかった。特に戦中・戦後の少年時代。倉本少年の周りで起こる色んなできごとがたまらなく面白い。
「これらの経験&体験がドラマの下地になっていたんだー」
そう思うと合点がいく。
倉本聰さんが一家でクリスチャンだったのは意外だった。
昭和20年の東京。B29が昼夜を問わず来襲するなかで、こんなエピソードが ↓
(抜粋)
「僕らはローソクが一本だけ灯る、防空壕の闇の中で、おばあさんとお父さん、お母さんに囲まれ、妹と弟、僕の六人で懸命の大声で
今になって時々ふと考える。
奇妙なことにあれは僕にとってこれまでの人生で一番倖せな”時間”ではなかったか。
腹ペコの体で死と向かい合い、明日も未来もなかった筈なのに、両親の愛にどっぷりと抱かれ、声を張り上げて讃美歌を唄った。変な話だがあれ程の幸福感を味わったことは前にも後にも一度もなかった気がするのだ。」
このドラマチックな自伝をドラマ化してほしいくらいだが。今さらご本人が書くとも思えず。だからといって他の脚本家が書くと台無しになりそうなんで、映像化は無理だろう。
今頃、ママちゃんから預かった新聞の切り抜きが出てきて(2回くらいもらってる)↓
やはり、上の讃美歌のシーンが抜粋してあるのでびっくり。
読み終えたあとに、もう一度本編に入る前のプロローグを読んでみた。
最初読んだ時はピンとこなかったのに、今読むとぐっときた。
(抜粋)
「おやじの匂いを不思議に覚えている。
おやじの死んだのは昭和二十七年。僕がまだ高校二年の冬で、日本はまだ敗戦から立ち直れないでいた。
戦前、羽振りの良かったおやじは、戦争によって一挙に凋落し、借金だけを残して死んだ。
おやじの遺したものは負債しかなかった。
永い間ずっとそう考えていた。
その考えがガラッと変ったのは、三十歳を過ぎて、僕がそこそこ文筆で喰えるようになってからである。
ある日突然ハッと気づいた。
たしかにおやじは物質的遺産を殆ど僕らに遺してくれなかった。しかし生まれてから十七歳まで、ともに過ごした歳月の中で、おやじは僕の気づかぬうちに、計り知れない膨大なものを、遺して行ってくれたのではなかったか。それは物質的遺産ではなかったが、十七年の歳月の中で気づかぬうちに沁みこませてもらった金銭には代えられぬ巨額な精神的遺産であった気がする。
そう気づいたとき、僕は狼狽(うろた)えた。
そしてその時何故か唐突に、おやじの匂いを思い出したのだ。
おやじの匂いには枯草の匂いがした。
枯草と、そして焚火の匂いがした。
それから原野の闇の匂いがした。」
本書には、倉本さんが大河ドラマを降板し→ 北海道へ逃避行? その何年か後に自然と共生する「富良野塾」を開くあたりは書かれていない。
戦前、お父上はひょんなことから、のちに「日本野鳥の会」を創設する中西悟堂(ごどう)氏と兄弟の契りを交わすほどの仲になり、たびたび富士山麓へ野鳥観察へ出かけるのだが。そこに幼い倉本氏も同行、少年はいつしか鳥のさえずりを聞き分けるようになる。この頃の体験によって、倉本氏の”自然愛”は培われ、のちの「富良野塾」へと繋がっているものと思われる。大自然との共生、という意味では家族で疎開した岡山・金光での体験も大きい。
倉本氏は「麻布高-東大出」の秀才、エリートではあるが。生きるか死ぬかの戦争体験や疎開生活を経験した者にしか書けない世界を持っている。
こんな脚本家は以後、現れないかも。
*おまけ*
本書に登場した戦中の品が拙宅にも↓
右)ムギコガシ:戦中、ひたすら食卓に出たのが「ムギコガシ」という代用食。
空腹の身にはこれでもありがたく、当時としては貴重品だった。それがある日ノックせずに父さんの部屋を開けたら、父さんが秘かに隠匿(いんとく)したムギコガシをスプーンで口に入れたところだった。「お父さんがムギコガシをこっそり喰べてる!」「お父さんズルイッ!」(略)ー 父さんはムセた。激しくムセた。父親の権威は一瞬にして消滅した。
左)アミエビ:一家で疎開した岡山・金光町の思い出の味。
裏山を越えて一里ばかり歩くと瀬戸内海が広がり、沙美(さみ)という海水浴場があった。沙美からは時々行商のおばさんが、アミの塩漬けを売りに来てくれた。アミとは小さな小エビのことである。これが滅法おいしくて、僕はおばさんのやって来るのを待った。
左)アミエビ:一家で疎開した岡山・金光町の思い出の味。
裏山を越えて一里ばかり歩くと瀬戸内海が広がり、沙美(さみ)という海水浴場があった。沙美からは時々行商のおばさんが、アミの塩漬けを売りに来てくれた。アミとは小さな小エビのことである。これが滅法おいしくて、僕はおばさんのやって来るのを待った。